25 凶兆
エマが故郷に帰ってから四日目の夜。
オルガは自室に置いてある文机で自分に届いた手紙を整理していた。
エマの婚約が決まった時、祖父がそろそろ子供部屋を出てもいいだろうとオルガに自室を与えることにした。
図らずも回帰前に屋敷の部屋を追い出され、使用人部屋に追いやられた時と同じ10歳だった。
しかし、今回は伯爵邸の一室だ。
執事長とオルガは候補に上がった部屋を見て回り、相談をして決めた部屋はアイボリーを基調にくすんだ淡いブルーが差し色に入った落ち着いた部屋だった。
執事からは『お嬢様には少し落ち着きすぎるので、せめて壁紙を愛らしい花柄か可愛らしい色に』と言われたのを断るのは大変骨が折れた。
そんな二人のやりとりを見ていた祖父は珍しく喰い下がる執事長に、オルガの部屋に装飾の美しい文机を贈ることを約束し、オルガにはせめてカーテンだけでも新しいものに変えるようにと言ってその場を収めた。
後日、祖父から送られた金の装飾が美しい文机は部屋のアクセントになるだけではなく、オルガの心も捉えて離さなかった。
そんな訳で、今では寝る前のひと時をこの文机で過ごすのがオルガの日課となっていた。
今日はオルガの元に届いた手紙を重要なものとさして重要でないものと分ける作業、と言ってもたかだか10歳の子供に来る手紙などたかが知れていた。
それでも『そろそろマリーにも手紙のより分けを教えなくては』そう考えながら王都からの分厚い手紙の封を開けた。
中からはオルガの代理人からの手紙と小切手、それに次の投資先に選んでほしいと懇願する相手からの手紙が何通か添えられていた。
代理人からの手紙に目を通すと収益分の小切手を同封したとある。
添えられた小切手の額を見るとそれなりの金額が記してあった。
『短期間の割に思ったより多くの利益が上がったわね』
このままいけば学園の在学中に本腰を入れて事業を立ち上げることができそうだった。
あの事件があってから王都へ行く機会は失われたが、その代わり祖父はオルガに代理人をつけてくれたのだった。
その際に偽名も与えられた。
子供だとわかれば侮られ、危険でもあるからだと言うのが祖父の言い分だった。
「偽名で取引しても大丈夫なのですか?」
「なあに、お前ぐらいの規模なら問題はないし、第一、貴族が実名で投資をする方が少ない。大概は代理人がするものだから気にするな。ただし、しばらくは儂と相談してからだ。それと金は手元にある資金が底をつけばおしまい。何かあったら直ぐに相談すること———」
祖父との間で細々とした取り決めをした後、小切手帳と代理人との連絡方法を教えてくれた。
そこで早速、過去の記憶を頼りに幾つかの投資先を洗い出し、そのうちの一つに祖父の許可が下り、今回初めて配当金を手にしたのだった。
小切手を眺めているとマリーがやってきた。
「お嬢様、ホットミルクをお持ちしました」
「マリー、ありがとう。そこに置いてくれるかしら」
お気に入りのカップを置く為に、手紙の束を避け隙間を作った。
「お祖父様はまだお戻りにならないのかしら」
「はい。まだ領主館からも連絡がないようです」
そう答えるとマリーは、オルガが寝支度の声をかけるまでいつものように部屋の隅の椅子に大人しく座った。
祖父は昨日の昼過ぎに領主館からの早馬の後、司祭とともに慌しく出て行ったきりであった。
回帰前でも今世でも早馬にはいい思い出がない。
オルガは少し嫌な予感がしたものの、出がけの挨拶の時には司祭は一番いい司祭服を着ていたし、祖父も高揚した面持ちで機嫌が良かったので、この間のような悲劇ではないだろうと思うしかなかった。
いずれ何があったかはマリーが聞いてくるだろう。
そうオルガは自分に納得をさせると、母からの手紙を開封した。
封筒の中には2枚の便箋が入っていた。
秋の花の絵が母の手書きで添えられている。
それだけでも母の容態が良くなっているのが目に見えてわかった。
ただ肝心の中身は温室で育てている花が咲いたとか風邪など引いてはいないかなど、当り障りのないことが書いてある中身のないものだった。
それでも父のことに触れてないだけ進歩したと思うべきなのかもしれない。
早急に返事を必要としたものではなかったのでオルガは今一度封筒の中に手紙を収め、銀のトレーに乗せた。
『2、3日中に返事を書けばよさそうね。それよりこちらの方が先よ』
それよりもこの小切手を元手に次の投資先を見つけなくてはいけない。
借金にまみれた公爵家だったとしても、この先、対等に渡り合うとするなら資金はいくらあっても足りないだろう。
代理人の手紙は他にも、”気温がいつもより高い日が続き、暖冬ではないかと王都で言われている。どこの商団でも冬物の毛皮や暖をとるための薪が売れずに余っている”などが記してあった。
裏付けるかのように同封の手紙には資金援助と在庫を引き受けてくれないかと懇願するものが多かった。
オルガはそれを読んでこの年のことを思い出していた。
確か母が死んだこの年、暖かい日が12月末ぐらいまで続いていた。
誰しもが今年の冬は穏やかで良い年になりそうだと言っていたのが、年をまたいで急変したのだ。
恐ろしいまでの寒波が王国を支配した。
50年に一度とも100年に一度とも言われた大寒波だった。
当初、暖冬だと思われ、市場の薪や燃料の備蓄は乏しくあっという間に高騰した。
あまりにも高額になったせいで薪や木炭などが買えない貧しい人達が沢山亡くなったと後で聞いた。
オルガ自身も例外ではなく、屋敷から追い出された先の部屋で寒さに震えていたことを思い出していた。
しかし、母が亡くなった後、唯一の金ヅルである私まで死んでしまえば、伯爵から一銭の金も父の元に入らないとに気がついたと見えて、父は使い古しの毛布と木の屑を寄こしたのだ。
おそらく長い間使われていない家具をばらしたものだったのだろう。
燃やすと変な匂いがしたのを今でも思い出す。
それでも寒さに震えるよりはマシだった。
それほどの寒さだった。
当時はそんなことなど知る由もなく、後に公爵夫人となった時に、出入りの商人から冬の季節の挨拶のように聞かされて覚えていたのだ。
『この年がそうであるなら買わない手はない』
たとえ失敗だったとしても伯爵邸で使えばいいことだ。
いや、いずれ使うことがあるだろうから安く借りられる倉庫も合わせて探してもらうのもいいだろう。
このまま暖冬だとしても執事長なら子供の浅はかさな考えと同情し、買い取ってくれるかもしれない。
『お祖父様が帰ってくるまでに間に合えばいいのだけど』もはや祖父との約束を反故にするつもりであった。
急ぎ代理人にだぶついた燃料や薪を安く買い占めるよう返事を書こうとインク瓶に伸ばした手が、机の隅に置いていたカップに触れそのまま床に落ちた。
毛足の長い絨毯であったのに当たり所が余程悪かったのか、お気に入りのカップは不快な音と共に真っ二つに割れた。
「お嬢様、触れてはいけません」
部屋の隅に座っていたマリーが慌ててやってきて片付けを始めた。
絨毯の上に広がるミルクのシミと割れたカップの欠片を見ていたオルガの脳裏に不意にエマの顔が浮かんだ。
『エマ……』
オルガは何かはわからないが不吉な予感に苛まれた。
◇◇◇
【母と父の関係】
ここに来た当初は母から手紙など来たことがなかった。
初め、こちらからは型通りの手紙を出したが返事がないので直ぐに出すのをやめた。
無駄な神経をすり減らしたくなかったからだ。
しかし、父が母の元を訪れるようになると母は頻繁に手紙をよこすようになった。
とは言っても、己が見捨てた年端もいかない娘に(実際の中身は成人しているけれど)”祖父をとりなして父に爵位を与えるように頼んで”だとか”父がお前を案じて伯爵邸に様子を見に行きたがっている”などという父の要望だけが綴ってある、お世辞にも”心温まる手紙”ではなかった。
それがここ数ヶ月、母の手紙が変わった。
きっかけはエリーズのデビュタントに関する手紙からだったように思う。
もちろんあからさまにエリーズの名を出してきた訳ではない。
父に言われるがまま書いたのだろう。内容は”知り合いの後ろ盾のない可哀想な年頃の娘”とあり、『オルガのデビュタントの時に一緒にやってはどうか。なんならその”可哀想な娘”のためにお前と一緒にドレスを仕立ててやるのはどうだろう』という荒唐無稽なものであった。
今の今までデビュタントどころか実の娘に会いに来たことすらなかった父が、見ず知らずの知人の娘とやらを気遣う姿に、おそらくだが、もう一つの家族の存在に気がついたのではないかと思われた。
祖父の話では、最近は心身ともに『大層真っ当になってきた』そうだから、曲がりなりにも祖父の娘である母が”女の勘”というものに冴えていてもおかしくはないはずだ。
その証拠に、以後の手紙から父の様子について書くことが減り、母なりに私に対する謝罪めいた内容が増えていった。
母と父は回帰前には考えられない関係になりつつあるように感じられる。
これも未来が好転していると思ってもいいのだろうか?
◇◇◇
「———さん、おじさん、起きてくれよ。目を覚まさないんじゃ置いてくぜ」
頬を叩かれ体を強く揺すられて、やっとの事でセルジュは目を覚ました。
暗い灰色の髪に黒っぽい目をした12、3歳ぐらいの少年がセルジュの顔を覗き込んでいた。
「ごほっっ、ごほっ」
吸い込んだ煙を吐き出すかのようにセルジュは咳をした。
手足の自由を奪っていた縄はまだ手首にはきつく巻かれたままだったが、どうやら自由に動かせるのは、元を少年が切ってくれたからのようだ。
『ありがたい』セルジュはひとりごちた。
痛む頭を押しながら起き上がり辺りを見渡す。
どれほどの時間、気を失っていたのだろうか。
思ったほど火の手は上がっていないところを見ると、それほど長い時間ではなさそうだった。
しかし、直ぐには今置かれている状況についていけず、ぼんやりと入り口に広がる炎を見つめるばかりだった。
「おじさん!なんでもいいから早く動いてくれよ。このままじゃオレもおじさんの道連れになっちゃうよ」
虚ろな目をしたまま動こうとしないセルジュに業を煮やした少年が怒鳴りつけ強く肩を揺さぶった。
その後、セルジュを残したまま煙の中を部屋の奥へと消えていく後ろ姿に、慌ててベッドから降りた。
殴られたせいなのか煙を吸い込んだからか、未だ朦朧とする頭を抱え、なおも激しく咳き込みながら少年の後を追った。
熱い。煙を吸い込まないようにチュニックの裾で鼻を覆ったが、吸い込む息は真夏の暑さのようだった。
後をついていった先の部屋は、商売用と思われるドレスが数着散乱する衣装部屋のように見えた。
燃料がアルコールの強い酒だったせいだろうか。
火の回りは思いの外遅いようだった。
少年は床に散乱したドレスを足で払い、現れた床板の欠けた部分に指を入れ一気に持ち上げると、そこは下へ降りる縦穴だった。
少年は手馴れた様子で縄ばしごを下しセルジュにも付いてくるようにと手招きをした。
後をついて降りていくとそれは荒削りながら人が通れるぐらいの横穴に繋がっていた。
少年が先に、その後ろをセルジュがついていく形になった。
火の手は追ってこないとわかったが、それでも息苦しさを覚える。
「ここは……」
「あの部屋は元、悪い奴のアジトだったんだって。そいつらの抜け道だったってリリー姐さんが言ってた。本当なら姐さんの逃げ道になるはずだったんだけど」
前を行く少年の声が少しかすれているような気がした。
セルジュはかける言葉が見つからず、その後は黙って少年の後を着いていくしかなかった。
しばらく行くと急に目の前が開け、ひんやりとした空気がセルジュの頬を掠めた。
どうやら町の用水路に出たようだ。
土手を上り少年は人目につきにくい裏路地までセルジュを連れて行くと腰を下ろすように言った。
『待ってな』そう少年は言うと路地の中へと消えていった。
夜の風がかすかに焼けた匂いを運んできた。
あの部屋から随分遠くに来たように感じたが、見上げれば目と鼻の先の夜空に炎が上がっている。
ここは商業地区の外れにあるスラム街のようだとセルジュは思った。
暫く待っていると少年は水の入った桶を抱えて戻って来た。
「近くの廐から失敬してきたから飲めはしないだろうけど顔はふけるだろう?それとこれ。おじさんの縄を切るのにちょっとだけ借りてたよ」
渡されたナイフはセルジュの腰に挟んでいたものだった。
ナイフで手首と足首を結んでいた縄を切ると、飼葉の匂いのする水で傷口と顔を洗った。
戦場ではこれより汚い水を飲んだこともあったことを思い出した。
「助かったよ。ありがとな。それにしてもお前は何であんな所に居たんだい?」
「それがオレの仕事だからさ。姐さんの仕事はたまにヤバい客が来るんだよ。その時に助けるのがオレってわけさ」
到底、子供がする仕事ではない。
しかし、貧困の中で子供が出来る仕事など、人の目の届かない危険をはらんだものしかないのもわかっていた。
セルジュは黙って少年の話に耳を傾けた。
聞いた話からすると、死んだ”リリー姐さん”は、仕事を装いながら貧しい子供たちに駄賃と食事を与えていたようだ。
しかし、少年が話す口ぶりからは、交代でリリー姐さんの小さな用心棒をしているつもりなのがいじらしかった。
それでも少年といえど子供には違いない。客の目につかないよう彼女なりに気を配っていたのだろう。
常日頃、来る時は秘密の通路を使うように少年たちに言っていたので、今日はギヨームに見つからずに済んだという。
「———行ったら姐さんは死んでいた。横にはおじさんがいて人を呼ぼうと思ったらギヨームのダンナが来たんだ。ギヨームのダンナに目をつけられたらこの町では生きていけないから人は呼べなかった。そしたら……」
「———そうか。ならなぜ一人で逃げなかった?お前だって死ぬとこらだったじゃないか」
少年は自分の中の矜持で胸を張って答えた。
「それは姐さんに言われてたから。『人に後ろ指を指されたとしても、小さいことでもなんでも良い。1日1回でいいから善いことをしな』っていうのが姐さんの口癖なんだ。だから、助けた」
黙って少年の話を聞いたセルジュは金の入った布の袋を探した。
ギヨームという奴に取られていなければ小銭がいくらかあったはずだ。
自分の命の値段としては安いだろうが、とりあえず感謝の意は伝えたかった。
屋台でいくらか買い物をしたせいで十分とは言えないが、それでも金の入った袋ごとそのまま少年に渡した。
「これを受け取ってくれ」
「いらないよ。金が欲しくてやったわけじゃないから」
「わかってるよ。だが姐さんがいなくなったんじゃこれからどうするんだい?」
暗がりの中でも利発そうな顔をしていた少年の顔が曇る。
セルジュの言葉に見上げる少年の瞳は不安げに揺れていた。
彼らを守っていた女性は亡くなってしまったのだ。
この街で子供が暮らすのは並大抵のことではないはずだ。
セルジュは目の前にいる少年に温情の気持ちが湧き上がるのを感じた。
「お前、親はいるのか?」
「そんなものはいないよ。いたとしてもどっかでのたれ死んでると思うね」
へらず口を叩きながらもどこか寂しげな口調だった。
セルジュは少年の頭に手をのせて言った。
「それなら俺と一緒に来ないか?身の回りの世話をする侍従に雇ってやるよ。素質があれば剣術も教えてやる。どうだ?」
少年は驚きに目を見開いて言葉が出ないようだった。
「おじさんは騎士なのかい?」
「ああ。やる気があるならついてきな」
それだけ言うとセルジュはゆっくりと立ち上がり宿のある方角に向かって歩き出した。
「そうだ。坊主、名前はなんていうんだ?」
答える前に少年は慌てて立ち上がるとセルジュの背中を追いかけた。
「おじさん、オレはジャン。ジャンってんだ」
ぎっくり腰をやりまして
痛みで立てないという経験をしました
本当に涙が出そうになるほど痛かった
痛みが薄らいでも怖くて動くことができなかったです




