23 エマ(決別)
長くなりました
セルジュは初めて会ったとは思えない程、この村の司祭と打ち解けることができた。
元の髪色がわからないほど白くなった頭髪に全てを見透かしていそうな澄んだ青い目の司祭はアウグスト司教と名乗った。
一見、どこにでもいそうな聖職者然とした佇まいだったが、騎士のセルジュの目からしても驚くほど動きに無駄がなかった。
セルジュは貴族の跡取りではない騎士たちが、家門の後ろ盾のために聖職へ方向転換させられた者を知っているので、ここの司祭もそうなのではないかと考えていた。
エマが先に部屋へ下がってから、司祭は秘蔵のワインを取り出してきた。
セルジュは持っていた干し肉とパンを肴に飲みながら世が更けるのも構わずに話し込んでいた。
司祭は今のエマの暮らしぶりを、セルジュはオルガの侍女になる前のエマの事を知りたくて。
二人が就寝の挨拶を交わし食堂を出る頃には、だいぶ夜も更けている事に気がついた程だ。
遅い時間。エマはもう寝てしまったのだろうとセルジュは思った。
『声はかけずに行くか』
わずかな睡眠だけで何日も行軍したことがあったセルジュには、この程度のことでは翌日に響くとは思わなかったが、それでも寝ているエマを起こす気にはなれないし、何よりここは教会だ。
単身者用の部屋しかない場所で婚約者とはいえ夜更けに女性の部屋の扉を叩いてはいけない。
自分の部屋へ戻ろうと足音を立てないように廊下を行くと、エマの部屋のあたりの扉から漏れる光が暗い廊下に明るい線を描いていた。
声をかけるべきか迷ったが、セルジュはそのまま通り過ぎ自分の部屋に戻った。
エマとオルガにあってから5年ほど経ったが、両親や兄妹の話をあまり聞くことがなかった。
それは今日、自分の親に会うよりも先に呪い師の元を訪れた違和感は司祭の話で大方解消はされた。
しかし『後で必ず説明をする』そう言ったエマの口調から、もっと大きな秘密の匂いを嗅ぎとってもいた。
そしてこの村に足を踏み入れてから、自分たちが運命の大きな渦に巻き込まれようとしているという思いを消せないでいた。
なぜそう思ったのかはうまく説明できないが、セルジュはつくづく騎士の勘というものが恨めしかった。
『エマ、君は何を知っているのだ』
エマは占い師からの長い手紙を読み終え、あまりにも衝撃的な告白に夢ではないか。先生が面白おかしく書いた物語か何かなのではないか。と考えた。
それくらい、あまりにも荒唐無稽な手紙だった。それにしても不老不死とは。
言われれば思い当たる節はいくらでもあった。気づかぬふりをしていただけで。
『もう、今夜は眠れそうにもないわ』
どうせこのまま眠れるとは思えなかったので、エマは音が出ないよう慎重にドアを開けると、そっと廊下へ出た。
混乱した頭を冷ましに外の空気を吸いたかったのもあるが、『いつものところ』という言葉に、微かにノスタルジーを感じたせいでもあった。
エマは手に持ったろうそくの明かりだけで廊下を礼拝堂に向かって歩来始めた。
あたりはしんと静まりかえり、セルジュの部屋も司祭の住居も明かりはとうに落ちていた。
何度も通ったことのある場所だったが、夜の暗闇の中では初めてだ。
それでも不思議と暗闇は怖くなかった。
”いつものところ”
エマは呪い師のところにいた時、よく教会にお使いに行かされた。
薬屋のようなことをしていたとはいえ、村人の中には呪い師というだけで毛嫌いする人も多かった。
とは言っても皆が皆、高価な処方薬が買える訳ではなかったので、司祭は呪い師の作った安価な薬を村人の為に置くことにしたのだった。
その薬がどこからもたらされるのか皆は知っていたが、表向きは教会の置き薬ということであえて触れることはなかった。
そして、薬を届けに行くのはいつもエマの役目だった。
使いのついでに司祭の手伝いもしてから帰るのが常だったが、出かける前には必ず先生が『いつものところに』と言っていたのを思い出した。
先生が教会に行く姿を見たことはなかったが、祭壇の後ろの二人だけの秘密の場所に、お菓子や白墨など子供が喜びそうなものが何かしら置いてあった。
小さい頃は、宝探しの気分で楽しかったが、年がいくにつれて神に祈りを捧げる場所なのにいいのかしら。と思うようになっていった。
不安に駆られ、一度、呪い師に聞いたことがあった。
「先生、神さまにしつれいじゃないですか?」
「なに、神様は小さい子には優しいからな。それに呪い師に罰を与えても時間の無駄だと思うだろうさ」
そう言って頭を撫でると『心配なら司祭の手伝いを真面目にするんだな』と言っていたのを思い出した。
誰もいない礼拝堂はしんと静まりかえり、畏敬の念を思い起こさせる。
ステンドグラス過ごしの月の光は幽かではあったが祭壇を照らしていた。
『全然変わっていない』とは言っても、エマがこの村を離れてからまだ5年ほどしか経っていない。
それなのに、もうこの村で暮らしていた時のことは遠い昔のように思われた。
祭壇の前で軽く祈りを捧げると、先生が言っていた『いつものところ』を探した。
祭壇の裏の柱の陰に僅かな空間がある。その奥の方の窪みに先生は色々なものを隠していた。
子供の頃は思い切り手を伸ばさないと届かなかった場所も、今のエマなら軽々と届いた。
『カチャリ』
何か金属の触れあうような音が聞こえた。
ぐっと手を伸ばすと革のような袋が二つ、エマの手に触れた。
取り出すと果たしてそれは大小二つの革の袋だった。
エマは小さい方の袋を開けると中からは金色に光るコインが10枚出てきた。
これだけあれば女一人、いいや人一人、一生遊んで暮らせるお金だ。
『こんな大金、貰えない』とは言っても、もはや返すべき人はもういない。
そして教会の中とはいえ、夜中に大金を持ってうろつくのはあまりいい事だとは思えなかった。
とりあえず二つの袋を抱えて部屋に戻ることにした。
ベッドの上に中身を広げると、やはり金貨が10枚と他に折りたたまれた紙が出てきた。
紙を広げてみると、これも呪い師からの走り書きに近い手紙だった。
”エマ
私のことを思うならこのお金は受け取ってほしい
残念ながら私には金と時間は意味のないものになってしまったからね
もう一つの袋は友人である司祭に渡してくれ”
エマはもう一度、袋に金貨と手紙を入れるとベッドに横になった。
本当に、もう眠れそうにはなかった。
エマは、それからまんじりともせず朝を迎えた。
前日、馬車に揺られて疲れていたにもかかわらず、ちっとも眠くならなかった。
金貨のこともそうだが、呪い師の人生、そしてエンリケスとのこと。
本当に私の両親はそんなことを考えていたのだろうか。
私がこの村を去ってから何度目かの妻を娶ったらしいが、その人もまた実家から迎えが来たという。
「これ以上考えても仕方がないわ』
エマは大きな袋を掴むと司祭の元へと急いだ。
エマが礼拝堂に入ると司祭は朝の祈りを捧げているところだった。
エマは静かに後ろのベンチに座ると、一緒に祈りを捧げた。
ドロレスの為に、呪い師の為に、そして私が今日、しようとしていることの為に。
一通り朝のお勤めが終わった司祭にエマは持っていた袋を差し出した。
「先生から司祭様に渡してほしいって」
エマはずっしりと重い袋を司祭に渡した。
「ほほう。あの場所にあったのかい?」
何かを察した司祭はエマに問うた。
「司祭様は、あの場所をご存知でしたか?」
「ご存知も何も。呪い師に頼まれてあの場所にお菓子を置いてたのは私だからね」
「ええっ!」
「そうか、ここに来ていたのだな……」
エマは驚いて司祭を見た。確かに、司祭でなければあれほど頻繁にお菓子を置くのは難しいだろう。
手紙にも書いてあったが、二人の不思議な友情を改めて感じた。
司祭も遠く、懐かしい風景を思い出すような目をして手の中にある皮袋を眺めていた。
「それにしても重いな。何が入っているか見たかい?」
「いいえ。見ていません。だから、ご自分で確認してくださいな」
多分、司祭の袋の中身もお金だろうとエマは思った。
教皇庁の目の届かないこの村で修道士のような暮らしも悪くはないが、そろそろ礼拝堂の修復も必要な頃合いだ。
「では部屋で見てこよう」
手触りから袋の中身は予想できたのだろう。
いそいそと部屋へ戻る司祭を見送った後、エマは勝手知ったる台所でポリッジを作り食堂へと運んだ。
セルジュは朝の鍛錬からまだ戻ってこない。司祭もまだ自室にいるようだった。
することのないエマは、ぼんやりと食堂のテーブルに頬杖をついていた。
『私は本当にエンリケスのところに嫁にいかされるところだったのかしら。彼がどれほど乱暴者なのかは村にいる子供だって知っている。しかも持参金もなしに嫁にやるなんて……普通の親ならありえない。第一、私が今まで実家のために用立てたお金は決して少なくなかったはずなのに』
よその土地のことはよく知らないが、この村では持参金のない結婚は白紙委任状と一緒だった。
つまり、結婚生活でエンリケスの二番目の妻のように殴り殺されても文句が言えないということだ。
もちろん、裕福な村ではない。誰もが十分な持参金を用意できるとは限らない。
現にエマがその状態だ。
が、双方の親が納得をすればお金に変わる代価、例えば家畜、小麦、あるいは結納金との相殺など抜け道はいくらでもあった。
それなのに———。
「エマ、司祭様を呼んでこようか?」
エマの黙思はセルジュの言葉で現へと引き戻された。
鍛錬を終え冷たい井戸水で体を洗った、さっぱりとしたセルジュが目の前に立っていた。
「ええ、ポリッジを作ったと言って頂戴」
エマは慌てて立ち上がると先ほどまでの懸念を振り払い、ポリッジをよそう器を探しに台所へ戻って行った。
「主の恵みに感謝して———」
司祭の簡単なお祈りの後、ポリッジをすくう器と匙の触れあう音だけが食堂の中に響いていた。
匙を口に運ぼうとしていた司祭がおもむろにエマに尋ねた。
「さて、エマ。お前はいつ婚姻するのだ?本当なら先月、結婚の予定だったというじゃないか」
「……」
下を向くエマは、行儀が悪いとわかっていながらも器の中でポリッジをかき混ぜるのを止められなかった。
「春が来てしまえば、その後でいくら寒い日が続こうとも冬には戻らないのだよ、エマ。
幸せも不幸せも全ては神がお決めになることで、決してお前だけのせいではないのだ」
そう言って司祭はエマの手の上に自分の手を重ねた。
「どうだろう。セルジュ卿とエマが良ければ私に婚姻の儀を執り行う栄誉を与えてくれないか?」
「司祭様……」
エマは顔を上げ司祭の顔を見つめた。
「エマ。お前のことだけが心残りだったのだ。だがこの者になら託しても大丈夫だとわかったよ。だから最後にこの老いぼれの我が儘を聞いてくれないか?」
エマは心の枷が一つ外れたような気がした。
「……はい。司祭様にしていただけるなら私は嬉しいです。セルジュはどうかしら?」
「もちろんだとも。たまたま指輪と結婚許可証も用意してある——」
セルジュは、顔を真っ赤にして抑揚のない言葉で一気にまくしたてる。
エマはそんな彼の様子が突然おかしくなって笑ってしまった。
セルジュの棒読みのような言葉にもだが、一体いつからセルジュはこのことを準備していたのだろうか。
おそらく昨夜は、司祭とこのことを話し合っていたに違いない。
しかし、その前にエマは片付けておかなくてはいけないことがあった。
「それは実家に寄った後でも構わないですか?」
エマの実家へ行く道すがら、エマはセルジュに呪い師と呼ばれていた先生の事を話した。
歩きながらする会話ではなかったが深刻な話にしたくなかった。
面と向かっては、嘘ではないが話せないことを見透かされそうな気がしたからでもあった。
呪い師ではあったが錬金術の本を収集していて、その術に詳しかった事。
昔の見たその本の中にドロレスの受けた傷の秘密がありそうだという事。
それを確認するためにこの村に来たのだが先生は他の地に移った後だったという事。
全てを話す事はできない。それでも話せる事は全て話した。
「子供の頃とはいえ、そんな私と本当に夫婦になりたい?そして、これから私がすることを——」
その時、エマの実家に着いた。
エマの記憶の中にある実家と違う小綺麗な家をそうだというならば。
100年近くもこの村に建っていた古いエマの家は跡形もなくなくなっていた。
確かに修理が必要だと言って何度か修理代を送ったことがあった。
それを足したとしても、足りなかったはずだ。
兄が出したのだろうか?それとも父が?
エマが呆然と立ち尽くしていると中から年配の女性が出てきた。
「エマ、いつここに?その人は誰だい?」
エマの母親と思しきその女性とエマはお互いに驚いて立ち尽くした。
5年ぶりに会う母親はエマの記憶の中とは随分印象が違って見えた。
エマと同じ焦茶色の髪に顔つきも似ているにもかかわらず、雰囲気は天と地ほどの開きがあった。
「お母さん、手紙で知らせたわよね。私の婚約者のセルジュよ」
エマには珍しく冷淡な口調になっていた。
「とりあえず、中に入っとくれよ。みっともない」
(みっともないって。それにしてもターニャおばさんからは何も聞いてないようね)
もはや自分の家ではない家に通されると、何一つ見覚えのない物で埋め尽くされた部屋に通された。
「兄さんの仕事はうまくいっているの?」
兄が何の仕事をしているのか、この5年間知らされることはなかった。
エマの元に届く手紙の内容はいつも同じ内容だったから。
母親は目を伏し目がちにするとそれには答えずに椅子を勧めた。
勧められた椅子の前には立派なテーブルがあり、反対側には父が座っていた。
「お父さん、ただいま。というべきかしら」
父の前には朝食の残りとこの村ではかなり贅沢品である紅茶の入ったカップが置かれているのが見て取れた。
自分がこの村を離れたときより、父も母もはるかに血色が良くなっているようだ。
それと父も母もエマが村を去ったときより格段にいいものを身につけていたのが気になった。
エマは伯爵邸で働くようになっても、お仕着せがあるからと自分の着るものも我慢して家にお金を送っていた。
お嬢様が仕立ててくれなければ、ここに来るにも安いドレスを買うしかなかった自分を思い出した。
兄の仕事がうまくいっているのだと信じたい。
考えたくはないが、それでもこの生活が自分の仕送りとお金の無心によって成り立っているとは思いたくはなかった。
「お父さん、さっきお母さんにも言ったけど、この人が私の夫になる人よ」
エマはあえてセルジュが騎士ということは伏せていた。
持参金はとうの昔に諦めている。
それでも両親には彼の身分に関係なく、この結婚を祝福してもらいたい。
ただそれだけがエマのささやかな望みだった。
しかし、現実は母親の顔がみるみる険しくなっただけだった。
「勝手に婚約だなんて。私らは認めちゃいないよ。それにずっと前からお前はエンリケスさんのとこに輿入れの約束ができているんだよ」
「お母さん、そんな話聞いたことないわ。それに、そのエンリケスという人の妻だった人たちがどういう扱いを受けてきたか、この村じゃぁ子供だって知っていることよ。わかっていてそんなことを言っているの?私が同じ目にあってもいいと?」
エマの母親は気まずそうな表情をしたものの、すぐに諭すようにエマに語りかけた。
「お前なら上手くやれるだろう?もういい歳なんだからさ。それにエンリケスさんはここらでも一、二を争う大農家だし、持参金はいらないって言ってくれてるんだよ。ね、いい話じゃないか」
「その持参金がいらないっていうことが、どういうことかわかって言っているの」
エマの声は怒声に近くなっていた。
「エマ。お前との約束があったから、エンリケスさんのとこには今まで良くしてもらっているんだ。今更、反故にはできん」
二人のやり取りを聞いていた父親が口を挟んできた。
「その約束っていつのこと?もしかして、私がまだ子供だった時?」
エマの目からは涙が人知れずこぼれ出していた。
「お父さん、お母さん、私はもう親の許しなしに結婚できる歳よ。許可をもらいに来たわけじゃない。夫となる人を紹介をしに来ただけよ。それにこの婚約は教会が認めたものなの。それこそなかったことにはできないわ」
「そんなこと言ったって……」
「駄目だっ!お前の身はもうエンリケスさんのものなのだ。お前が嫁にいかなければ儂等がこの家を追い出される——」
「——どういうこと?」
エマは驚き、両親の顔をまじまじと見た。
「この家を建て直す時にね、お金を出してもらったんだよ」
気まずそうに母親は言った。
「だって…ついこの間も修理代って———」
「ハァ、お前がもう少し稼げる仕事についてればねぇ」
その稼ぐとはどう意味を示しているのか、エマはあえて考えないようにした。
「……仕送りだってしてたじゃない」
「……」
それには両親は黙ったまま答えなかった。
”どんっ”
気まずい沈黙が続く中、セルジュがテーブルを拳で叩いた。
一斉にセルジュへと視線が集まる。
表面上は穏やかないつものセルジュだったが、エマはその内面に大きな怒りを抱えているのに気がついた。
「出してもらった金とはいくらなんですか?」
「大銀貨3枚。いや、5枚かな」
卑屈に笑う父親の顔にエマは虫酸が走った。
エマはこんな時でさえ、金額をふっかけようとする父親の浅ましさを恥じた。
そんなエマの気持ちがわかったのか、父親から目を離さずにセルジュは言った。
「わかりました。大銀貨5枚ですね。その分をエマの結納金として置いていきます。そちらはエマの持参金を用意する気は無さそうなので、このままエマを連れて帰ります。いいですね。
そして、あなた方はエマを白紙委任状ごと私に渡したということを忘れないでください。
あなた方とはエマが望まない限り、二度とお目にかかることはないでしょう。
ですが、生きている間に、あなた方が失ったものの大きさに気がつくといいと思っていますけどね」
言い方は丁寧であったが、言葉には凄みがあった。
騎士としての殺気を乗せ放たれた言葉に気圧されて、エマの両親の顔は血の気を失っていた。
だが、それもテーブルの上に大銀貨5枚が置かれるまでだった。
セルジュは有無を言わせずエマを促して表へ出ると、無言のまま歩き始めた。
教会に戻るとセルジュはエマの泊まっている部屋へと彼女を連れて行った。
ベッドに並んで腰掛けるとセルジュは正面を向いたまま前かがみになり、膝の上で手を組んで言った。
「悪かったよ。君の親に対する態度じゃなかった」
「いいの。でもあんな大金———」
それ以上、言葉が出なかった。
娘を売るような真似をするあの人たちを親と呼べるのだろうか?
彼らに言いたいことは山ほどあったはずなのに何も言えなかった。
しかしエマにはもうどうでもよくなっていた。
そんなことよりも———
「セルジュ……」
初めは一筋の涙だったものが、次第に堰を切ったように溢れ出し嗚咽から号泣へと変わっていく。
そんなエマをセルジュは何も言わずただ抱きしめていた。
いろいろなことがエマの頭によぎった。
今更、恨みごとは言いたくもなかったが、理不尽な扱いに慣れきっていた自分が悔しかった。
言葉にできない様々な思いが、今、涙となってエマの中から流れていくようだった。
どれくらい経っただろうか。思う存分泣いたエマは、不思議なことにさっぱりとした。
両親のことは随分前から心の中でくすぶっていたのだと散々泣いた後で気がついた。
とは言っても仮にも血を分けた親を完全に切り捨てることは、直ぐには難しいだろう。
でも、セルジュが隣にいてくれるなら大丈夫だとも思った。
「実は、俺も告白することがあるんだ」
短く刈り込んだ頭を右手でさすりながら気まずそうに告げた。
「君と婚約した後、君には内緒で両親のことを調べさせた」
思いがけない告白にエマは何も言えなかった。
「君が仕送りを欠かさないのと、時折、まとまったお金を送っていたからね。結婚すれば君の両親も俺の親になる訳だから、君の両親の生活が大変ならこっちで引き取ってもいいかなって。でも、彼らが村から出たくないのなら何かしなくちゃいけないと思って、人をやって調べてもらったんだ——」
「ごめんね。あんな親で」
「まだマシなほうさ。って、こんな言い方じゃ慰めにならないか」
そう言ってセルジュはエマに笑いかけた。
「どうしようか悩んでいたら、伯爵に呼ばれて『金で解決できることは金で解決したらいい』と言われたのさ。それで有り金全部持ってきたってわけさ」
セルジュは少し深く息をすると先を続けた。
「エマがこの先も仕送りを続けたいなら俺は止めないよ。でも、君が傷つくことはしてほしくない。それは俺もだけど、オルガお嬢様やエマを知る人はきっと同じお気持ちだと思うんだ」
エマは黙って頷くとセルジュの手を握った。
「やだわ。泣いたから目が腫れてる」
「うーん、いつもと変わらないと思うけど……」
「セルジュったらひどい!」
ひとしきり泣いたのに、まるで無かったかのようにいつもの二人でいる時の様子に戻っていた。
「さて、司祭様が首を長くして待ってると思うよ。俺らに祝福を与えたくて待ちくたびれてるはずだ」
エマは恥ずかしそうに頷くとセルジュの手を握った。
「ありがとう。こんな私を受け入れてくれて」
「どういたしまして。文無しになった騎士で良かったら」
ちょっと初めから書き直したので少し時間がかかりました
エマ編はここで一応、終わりです




