21 エマ(帰郷)
エマの生まれ育った村は伯爵邸とオルガの生家の中間に近い場所にあった。
厳密に言えば伯爵邸と生家の中間辺りから広がる森の奥にある村で、正式な地名かどうかはわからないが地元ではセレマ村と呼ばれていた。
距離としてはどちらからもさほど遠くないのだが、かなり大きな森を抜けていくため最近まで人の行き来が活発とは言いがたく、自ずと閉鎖された村という雰囲気を醸し出していた。
実際、そのせいもあって長いこと自給自足に近い生活をしていたので、近隣の村や町に比べて生活の水準は低かったように思われた。
だからなのか、働き始めたばかりのエマの仕送りに価値があったのはそんなところもあっただろう。
今は森の中を通る道もかなり整備されたとはいえ、一度ついてしまった人の流れを変えるほどの魅力がエマの村にはなかったようで、相変わらず周辺から取り残された生活をしているようだった。
出発の前日、お土産としてエマは司祭様と呪い師に砂糖と紅茶の茶葉を少し、それと、かなりの葛藤があったが、生まれてくる兄の子のために洗礼用の産着を用意し小さなカバンに詰めた。
そして、マリーにオルガへの注意事項をこと細かく指示すると、エマの準備は全て終わった。
実家へはセルジュと行くとの手紙は出さなかった。
自分の実家の大きさを考えると両親と兄夫婦、さらに子供とくれば、2人が泊まる場所はないのはわかりきっていたし、本当の目的は別にあったのもあって、少し窮屈だが村の司祭様の所にに泊めてもらうことにしていた。
実際、実家へは帰り際に顔を出すだけで十分だと考えていた。
当日は、伯爵邸を日が昇り始める前に出発をした。
今は整備されている道とはいえ森の中には変わりはない。
晩秋の陽を考えれば、できるだけ早めに出立するに越したことはないとセルジュが提案したからだった。
屋敷を出ると外はまだ暗かった。
東の空はうっすらと紫色になっていたが、まだ星は瞬いている。
吐く息もかすかに白い。
それでも辺りが明るくなる頃には空気も穏やかになり、2人を乗せた馬車は森の入り口にさしかかっていた。
セルジュも口にこそ出していなかったが、ここ最近のエマの様子を気にしていた。
あのことは、セルジュもかなり堪えた。男の自分がそうなのだからエマも動揺していてもおかしくないのに、いつも以上に平静を保っている。
『そう言えばオルガお嬢様も随分心配されておいでのようだった』
エマを見るオルガの顔が、時々曇りがちなのをセルジュも気がついていた。
今もこれから家族に会うというのに硬い表情なのが気になる。
いつもは心地の良い2人だけの沈黙も、今日はやけに重苦しく感じていた。
『なんと声をかけよう』そんなことを考えていることを見透かすように、エマが口を開いた。
「今日は私の家には泊まらず司祭様のところにお世話になろうと思って。ちょっとというか、かなり手狭だし窮屈なんだけど」
「それは大丈夫だよ、屋根があるとこに泊まれるんならどこだって。忘れてるかもしれないけど俺も一応騎士なんだし」
「ふふふ、わかってるわよ。それと……」
エマは考え込むように下を向くと大きなため息をついた。
「実は、両親が私を他の人と結婚させたがってるの」
思いもしない告白にセルジュは思いきりむせ、馬車を道脇に止めるとエマの顔をまじまじと見つめた。
「もちろん、そんな申し出に乗る気は無いけどセルジュに嫌な思いをさせるかもしれなくて」
そう言うと、手紙のことと結婚させようとする男の人となりを話し始めた。
「……」
セルジュは言葉が見つからなかった。
普通に考えれば相手に返せない借金でもしていない限り、暴力を振るうと噂があって親といってもいい年の男との結婚を勧める意味がわからなかったからだ。
それに二人が司祭が認める婚約をしたことは、手紙で両親に伝えたとエマも言っていた。
「もう、私は自分で結婚相手を選べる歳になっているし、セルジュ以外の人と一緒になるつもりはないわ。でも……父や母が何を言い出すかわからないから。それに残念ながら持参金のことは本当なの。セルジュの身分に合うだけのものを私は用意できない」
前を向いたまま告げるエマの横顔は憂いに満ちていた。
エマには持参金はいらないと常々言ってきた。
セルジュとて家を出た身であったし、騎士になった時に新たな姓を与えられ実家の名は捨てていた。
それに、エマが事あるごとに実家に仕送りをしているのも知っている。
それでも、その話をすればするほどエマは萎縮してしまうのだった。
「それは後で考える事にしよう、エマ。俺は君の親には敬意を払うつもりだけど、君を傷つけるなら話は違うから」
「うん……」
それから2人はまた無言になった。
木漏れ日は暖かく、秋の日は穏やかだった。
馬の蹄の音と獣除けの鈴の音が遠くで鳴いている野鳥の声に呼応しているように、静まり返った森の中に響いている。
空気は澄みきって凛としていた。
落ち葉の上を車輪が通るたび、秋の森の匂いが鼻腔をくすぐる。
冬が来る前の浮き立つような秋の一こまは、エマの告白に重苦しいものに変わってしまっていた。
途中で簡単な昼食をとるだけで後はずっと馬車に揺られていたにもかかわらず、セレマ村に着いた頃には日は陰り始めていた。
エマから聞いた男の話やエマの両親の態度に釈然としないものを感じていたため、村の牧歌的な風景を楽しむ余裕は今のセルジュにはなかった。
ただ機械的にエマの道案内で村の外れまで馬車を走らせることだけに専念をした。
村に着いてエマが真っ先に訪れたかったのは呪い師のところだった。
あの薬の出どころと、ドロレスの背中の傷について聞きいておきたい。
内緒で読んだあの本の内容はいくら思い出そうとしても一文字も思い出せなかったが、挿絵として描かれていたあの忌まわしい絵は今ははっきりと思い出せる。
誰かが禁忌を破り不老不死の錬金術に手を出したのだろうか。
そして、なぜ今の今までその事を思い出せなかったのか、呪い師に直に聞いてみたかった。
この旅の目的はこの事の為に費やされたと言っても良かった。
それにしても、村の様子は5年経ってもちっとも変わっていなかった。
エマの記憶が正しければ、村の入り口から脇道を抜けた所に呪い師の家があるはずだった。
しかし、そこには家の土台だけを残し雑草だらけの荒涼とした荒地が広がっているだけだった。
呆然と荒地を眺めていると1人の女性が声をかけてきた。
「エマ?エマだろ」
「ターニャおばさん?」
「何年ぶりだい?もう4〜5年にはなるのかねぇ」
冬になると、よく子供の咳止めを買いに来ていた顔見知りだった。
挨拶もそこそこに、エマはターニャに尋ねた。
「ここ、どうなっちゃったの?」
「それがさ、あんたが働きに出て直ぐぐらいに火事で焼けちまったんだよ。それであんたのお師匠さんも行方知れずさ」
「それよりあんた、エンリケスのとこに後妻に入るって本当かい?」
「いやだ。そんな話になってるのね。婚約はしたけどこの村の人じゃないのよ」
そう言ってセルジュを紹介した。
騎士ということは言わなかった。噂話しか娯楽のないこの村では余計なことは言わないに限る。
ターニャおばさんと呼ばれた女性が声を潜めてエマに言った。
「あんたんとこのおっかさんが、嫁きおくれの娘をエンリケスのとこに嫁にやるって言ってたんでね」
それだけ言うと、ニヤニヤ笑いながら去って行った。
きっと私とセルジュ、そして両親のことを面白おかしく噂して回るのだろう。
もう、どうでもいい話だけど。それよりも———
「火事……」
そんなことがあるだろうか。もう一度ゆっくり呪い師の家があったところを眺めると火事で燃え残ったと思われる木の残骸が目に入った。
確かあそこには桑の木が植えてあって、秋になるとよく妹と2人で桑の実を採らせてもらったのを思い出した。
半分は家に持って帰り、半分は呪い師に渡した。とは言っても後で桑のジャムを食べさせてもらったけど。
急に昔の記憶が戻り始め立ちくらみをおこした。
「エマ」
とっさにセルジュが抱きかかえ、倒れることはなかった。
「あそこ、確かあそこに……」
セルジュの手を振り払い、エマは何かに憑かれたように燃え残った木の根元まで走って行った。
何も言わずしゃがんで根元を掘る。
爪がボロボロになるのも構わずに手で掘っていたが、セルジュが「任せろ」というと何処からか拾ってきた板のようなもので掘り始めた。
掘り進めていくと幾重にも油紙で巻かれた上にロウで丁寧に覆われた包みが出てきた。
火事はよほど酷かったのだろう。熱で所々ロウが溶け中まで浸みている。
それでも長い間埋まっていたものにしては、状態は良さそうだった。
包みを丁寧に布で包むと、何かに導かれるような気持ちが強くなり一刻も早く司祭の元に行かなくてはいけないと思い始めた。
「セルジュ、暗くなる前に司祭館に行きたいわ。それと後で必ず説明するからこの包みのことは言わないで欲しいの」
まっすぐにセルジュの目を見てエマは言った。
セルジュは黙って頷くと、またエマの道案内で司祭館まで馬車を走らせ始めた。
「あそこが厩で、空いてるところなら馬を繋いで大丈夫だと思う」
そう言うとエマは1人礼拝堂に入り、残されたセルジュは一人、馬の世話をし始めた。
聞きたいことは山ほどあったが、エマが話すまで何も聞かないことに決めた。
「司祭様、ご無沙汰しています。エマです」
ちょうど礼拝堂で夕方の祈りを捧げていた司祭を見つけることができた。
「おお、エマ。すっかり大人びて。見違えたよ」
「実は婚約者と来ているんですけど、今日、こちらに泊めていただけないかと」
「それは構わないが、家のには行ってないのかい?」
「ええ。あの家では私達が泊まる場所がないでしょう?だから明日、寄るつもりでいました」
「え?ああ…そうか。あれから一度もここには戻っていなかったね。もう5年になるか」
司祭は何か思うところがあったようだが、それ以上は何も言わず二人を受け入れた。
「しかし、エマ。本当に家の方に行かなくてもいいのかい?」
「ええ、実はここに来ることを知らせてないものですから。兄嫁が今二人目がお腹にいるっていうし迷惑をかけたくなくて。それに、ここには呪い師に会うつもりで来たので」
『呪い師』の言葉を聞いて司祭の顔が曇った。
「———エマ、言いにくいことなんだが呪い師はもういないんだ。エマが働きに出てから……」
「知っています。先に寄ってきましたから。ターニャおばさんにたまたま会って火事のことを聞きました」
「そうか。本当に残念だったよ。そうだ、火事の前に呪い師からエマに手紙を預かっていたんだ。エマに送ろうかと言ったんだが、ここに来た時に渡してくれと言うものだから、ずいぶんおかしなことを言うなと思っていたんだよ。今思えば、虫の知らせってやつだったのかもしれないね」
そう言って司祭は祭壇の引き出しから、これも油紙で包まれたものをエマに手渡した。
エマは持っていた鞄に手紙を入れると代わりに砂糖を取り出して司祭に渡した。
「これはお土産の砂糖と紅茶です。司祭様は甘い紅茶がお好きでしたから」
「おお、これはありがたい。そうだ、部屋は好きな部屋を使いなさい。シーツやブランケットのある場所はわかるね」
「ええ。でも、その前に私の婚約者に会ってくださいませんか?」
司祭は初めて会ったセルジュのことが気に入ったと見えて、たいしたものはないが夕飯を一緒にと誘ってきた。
食事の席は和やかで、二人は馬と馬車のことで話が盛り上がっていた。
司祭様は神に仕えてはいたが、辺鄙な村ではありがちなスノッブさも持ち合わせていた。
だから呪い師との共存ができたのだとエマは思った。
片付けが終わっても二人の話が尽きないようなのでエマは先に休むと告げ部屋へ下がった。
部屋に戻り腰を落ち着けると先ほど掘り出した包みを開けてみることにした。
取り出した時は泥で汚れていたが、ロウで覆われていたせいか布で拭くと大分きれいになった。
部屋を汚さないように布の上で丁寧に表面を覆っていたロウを剥がし、油紙を開けてく。
幾重にも巻かれていてせいか、熱で表面のロウが溶けてはいたが中身には影響がなさそうだった。
丁寧に最後の一枚を取り除き、中から覚えのある小さな箱を見た途端、エマの息は止まった。
『これは……』
箱に手をかけゆっくりと開けると、中からは忘れることのできないあの青い瓶が出てきた。
長い間土の中にあったにもかかわらず微かにドロレスから漂ってきたのと同じ匂いがした。
『やはり、彼女は……』ならば背中の傷は魔法陣を隠すために剥いだに違いない。
懸念が確信に変わった。
薬の匂いのせいなのか、あの傷を思い出したせいなのか軽い吐き気を覚えた。
掘り出した時と同じように薬を丁寧に包み直すと、今度は手紙を読むことにした。
手紙を読むには部屋のろうそくの光は弱かったが、それでも今読まなくてはいけないと思った。
蝋燭の火にできるだけ近づけるように近づけると、呪い師の懐かしい文字が目の前に飛び込んできた。
『先生———』
少しずつ絡まった紐が解けるようにエマの失われた記憶が蘇ってきた。
昔は修道院が旅人に宿の提供をしているところもありました
読んでくださってありがとうございます




