20 エマ(変化)
【エマ】
あの事件の後でエマは変わってしまった。
ゆらぎのように気をつけていないと見落としてしまう、そんなわずかな変化だったが、私には、いつものように微笑みながら私を甘やかすエマの笑顔が張り付いた仮面に見えた。
それは気になればなるほどエマの自然な不自然さと結びついていく。
厄介なのはそんなエマの変化に誰も気がついてはいないということだった。
あんな事があったばかりだというのに、そのせいで婚姻が延期になったというのに、不自然なほどいつもと変わらないエマ。
話の輪には加わるが、気がつくとその輪から離れていく姿を何度も見てしまった後では気にするなというのが無理な話だった。
しかし、そんなエマに私が何をしてやれるだろうか。
中身は回帰前に幾度となく修羅場をかいくぐってきたとしても、エマの目に映る私は10歳のいたいけな少女なのだから。
そんな私にエマが心の闇をさらけ出すとは到底思えなかった。
このままエマが自分を失っていくのを、手をこまねいて見ているだけしかないのかと思うとやりきれなさを覚えた。
◇◇◇
朝食の前にエマに髪を三つ編みにしてもらっている時だった。
「お嬢様、少しよろしいですか?」
その日は珍しくエマからオルガに話しかけてきた。
普通なら使用人から主人へ話しかけるなど考えられないことではあるが、オルガを守る親鳥に近いエマには許されていた。
それに今この部屋にはオルガとエマの二人きりというのもあった。
「どうかしたの?エマ」
「実は、少しお休みをいただいて家に帰ろうかと思っています。婚姻が延期になったので、それを利用してセルジュを親に合わせようかと。お嬢様のご都合がよろしければですけれど」
「もちろんよ。最近はマリーも侍女の仕事に慣れてきていることだし、エマもいろいろ忙しかったと聞いているからゆっくりしてきて。お祖父様には言ったかしら?」
「執事長にお休みをお願いしていますけど、セルジュはこの家の騎士ですから、お休みが取れなければ私一人でも行ってきます」
「ダメよ、エマ。二人で行ってきて。じゃないと私、心配で」
一人でと聞いてオルガは血相を変えてエマに言った。
オルガは最悪を想像していた。
いくら他領地より安全な伯爵領と言えども女の一人旅は危険すぎる。
しかも、あの娘の事件の後では、特に。
「私がお祖父様にお願いしてみる!」
「お嬢様、いけませんわ。そんな私ごときにそんな」
「でも……お願い。一人でだけは行かないで」
オルガは後ろを振り返ると、エマの袖をつかんで懇願した。
「わかりました。一人では行きません。それでよろしいですか?」
「うん。それならいいよ。それならエマの外出用のドレスを作らなくちゃね」
「そんな……お嬢様、分不相応ですわ」
「いいのー、私のドレスのついでだから」
そう言うとエマの制止を振り払い、オルガはマリーを呼び、仕立屋が屋敷に来る時にエマのドレスの採寸もと伝えた。
その後でオルガは祖父と朝食をとる時に、エマの休暇を頼んだ。
もちろんセルジュの休暇も合わせて頼んだ。護衛代わりに同行させて欲しいからと。
祖父は二つ返事で執事長であるネイザンに二人の休暇を承諾したと伝えてくれた。
「エマには面倒をかけたからな。これはボーナスだ」
ミサの後はかなり気落ちをしていた祖父だったが、領主の仕事は忙しく次の日には祖父の日常は戻っていた。
ただ、例の事件は水面下で調べさせているようだったが。
兎にも角にも、何事もなかったかのように日常を取り戻しすぎて、オルガにはそれがかえって不自然に感じていた。
午後になり、仕立屋が布見本とレースやボタンの小物を提げて伯爵邸に訪れた。
今回はエマの外出用のドレスと街着の2着を作るつもりだったので、オルガは自身のフィッティングは早々に切り上げ、エマのドレスにマリー共々興味は移っていた。
オルガお気に入りの侍女ということで仕立屋はかなりの数の生地を持ってきていたが、結婚を控えた女性用の落ち着いた色味の生地ばかりでマリーはすぐ飽きたようだった。
それでもレースや飾りボタンには興味を惹かれたようで、オルガと一緒にあれこれ勧めてはエマに渋い顔をされるのを二人で楽しんだ。
「外出着はこれぐらい生地が厚くないと今の時期寒いですから」
「秋らしくボルドーかこのマロンなんかどうでしょう。どちらもお嬢さんの髪色に似合いますわ」
「そのお色でしたらこの飾りボタンがお似合いかと。そうそう、ボンネットはどうされます?両方に合わせられるものでしたらこちらのデザインでこのお色なら無難かと」
次々に布とレースを当てていく仕立屋に閉口しながらもエマはなんとかデザインと生地を選んだ。
ごく普通のデザインではあったが、流行を取り入れた生地で仕立てるのでかえって粋に見えるだろう。
そうオルガは思った。そして内緒で外出着に合う手袋とハンカチも一緒に届けるようにと仕立屋に頼んでおいた。
エマの採寸が始まり、マリーは席を離れた。
何もすることのなくなったオルガは何気なく仕立屋が持ってきた装飾品を眺めていた。
事前に使用人のドレスの仕立てと言っていたから手頃なものばかりだったのだろう。
オルガが何時も目にするような物ではなかったが、それがかえって新鮮で手に取ってみては眺め、また違うものを手に取るということをしていた。
その中に、オルガは小さなブローチを見つけた。
それはスミレと小花が彫ってある小さなカメオだった。
値段を聞けばオルガにとってそれほど高いものではない。
常日頃、マリーは有益な情報を集めてきてくれていたので、何かお返しがしたいと思っていたオルガはその小さなカメオをシンタクラースの日にマリーに贈ることに決め、こっそりと買い求めた。
採寸が終わり、ドレスはできるだけ早く仕上げてくれるように仕立屋に頼むと、その後にはぐったりと疲れきったエマが目の前にいるだけだった。
「お嬢様はいつもこんな大変なことをされていたのですね」独り言のようにエマはつぶやいた後、
「少しだけ休ませてください。直ぐに元に戻りますから」そう言って目をつぶった。
目をつぶりながら両の手をこめかみに当てエマは静かに言った。
「お嬢様、休暇の件ありがとうございました。できるだけ早く戻ってきますね」
「ゆっくりしてきてもいいのよ」
「そうしたいのは山々ですが、兄の所に近々2人目が生まれるそうなので、あまりゆっくりもできなさそうです」
「そう言えばエマの妹も結婚したのよね」
「ええ、隣町の職人の家に嫁ぎました。もう、2年ほどになります」
エマの兄はエマがオルガの元に来て半年ほど経った頃だろうか、地元に住む娘と結婚をした。
エマ自身も仕事を始めたばかりだったのもあり、お祝いの言葉と品だけを送った。
その後、オルガと共に伯爵邸に来てからは融通がきくようになっていたはずなのに、妹の結婚式には行かなかった。
正確には行けなかったという方が正しいだろうか。
兄の結納と妹の持参金にはエマの支度金と無心によるお金が使われていた。
エマの支度金は、もとより家のために使って欲しいと親に渡していたので、兄が結婚をして両親の面倒を見てくれるなら結納でも家の修繕にでも好きに使えばいいと思っていた。
伯爵家に来るまでは仕送りだけで精一杯だったが、それでも家族の中では自分が一番稼いでいる自負もあったので、度重なるお金の無心も無理のない範囲では答えてきた。
それでも妹の結婚式の費用と言ってかなりの額を要求された時にはさすがに断った。
それは裕福な家の結婚式に使う金額だったし、その前にも妹の持参金の半分をエマは出していたからだ。
これ以上は親の責任であり、家を継いだ兄の仕事だろう。
とにかく『身の丈に合っていない』そう断りの手紙を書いた。
今まで送ってきた仕送りに加え、両親の薬代に家の修繕や生まれてくる兄の子供への支度金などエマが送り続けた金額は、あの村でなら一年間働かなくとも充分暮らしていける額にまでなっていた。
それなのに一度無心を断っただけで、両親はエマの思いやりのなさをなじり、それならば結婚式に参加せずとも良いという心ない返事をよこした。
その時初めてエマは自分のやってきた事への確信が揺らいだ。
たった一度断っただけで?では私が結婚する時は自分で何もかも用意しなくてはいけないというの?
今まで送り続けたお金が善意ではなく、悪意となって自分に返ってくるとは思ってもいなかった。
それでも妹にはお祝いの品と手紙を送った。
結婚式にはいけないということ、幸せになって欲しいということ、迷いに迷ったが最後に持参金のことを書いた。
妹からの返事には”そうだろうと思った。もうお姉ちゃんは自分のことだけを考えて欲しい。いつかここに来ることがあれば婚家に立ち寄って欲しい”というようなことが拙い字で書かれてあった。
結局、エマは結婚式にはいかなかった。
招待もされていないのに押しかけていくような事はどうかと思われたし、何よりお祝いの席で親と啀み合い、せっかくの門出に水を差したくなかったからだ。
そのことがわだかまりとなって、相変わらず仕送りは続けていたが、思わせぶりな無心にも業を煮やしたあからさまな催促にも答えることもなく、少しずつだが疎遠になっていった。
その関係も今、壊れようとしている。
エマが婚約したと手紙を送った返事がついこの間届いたからだ。
別に親の承諾がいる歳でもなかったし、セルジュの身元は村にいる誰よりも立派だった。
親に認めてもらうと言うよりは事後報告として事実を伝えたつもりでいた。
しかし、その返事はエマを失望させるのには十分だった。
”手紙、受け取った。
結婚、待て。エンリケスさんの家、奥さん必要。持参金いらない。考え直せ”
持参金については期待していなかった。
妹の結婚の時を考えれば予想はついていたからだ。
それでも娘の婚約を喜んでくれると思っていたのに、その返事が村の厄介者の後妻になれとは——
エンリケス家とは村のはずれにある大農家で、エマの記憶が正しければ、あの家で奥さんが必要なのは20歳以上も歳の離れた家の主人しかいなかった。
畑仕事は小作と使用人に任せきりで、昼間から酒を飲んでは(飲まなくとも)暴れるので奥さんに逃げられたと聞いている。
後継のために後添いを探しているようだったが、逃げた原因が原因なので誰も世話をするものがいないのは両親も知っているはずなのに……。
「エマ……大丈夫?」
あまりにも長い間、こめかみを押さえたままじっとしているエマが心配になり、オルガは声をかけた。
「あ、すみません。お嬢様——」
「疲れたのなら休んでもいいのよ」
「いいえ。慣れないことをしたものですから気疲れしたみたいです。すぐにお茶の用意をしますね」
オルガの部屋を出ると、エマは扉に背中を預けた。
『帰郷の本当の意味は、私しか知らない』
それは吉と出るか凶と出るか……。行ってみなければわからないことだった。
読んでくださってありがとうございます
もう少しだけエマの話にお付き合いください




