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19 エマ(告解)

「エマ、すまないが馬車を少し飛ばさなきゃいけないようだ」


ヘールマン卿は吐血した後のドロレスの様子を見て、エマに告げた。

そしてカバンからアヘンチンキを取り出すとほんの少しだけドロレスに飲ませた。


「これ以上はドロレス嬢の体が持たないだろう。しかし、傷の痛みは少し治まるはずだ」


馬車から降りて服を整えていたヘールマン卿のベストに少しだけドロレスの吐いた血が付いていた。


「先生、ベストに血が……」

「こちらよりエマの方が酷いだろう」


そう言って指差したエマのスカートにはドロレスの吐いた血がべったりとこびり付いていた。


「私は大丈夫です。お仕着せの制服ですから」


そう言って水で濡らした布をヘールマン卿に渡した。

ヘールマン卿は布でベストの血を拭き取りながら力なく誰に言うともなく呟いた。


「もう私のできることは何一つない。後は司祭の領分だ」


それだけ言うと御者席へと戻っていった。

エマはそれから馬車に戻り、ドロレス嬢が馬車の揺れに弾き飛ばされないように板の上に腰を下ろすと彼女の頭を腿の上に乗せ肩を抱いた。



屋敷に着くとドロレスを板に乗せたまま湯浴みができる部屋に連れて行った。

使用人が使う場所だが、他の部屋は遠く階段の上り下りは難しそうだったからだ。それに時間も惜しかった。

直接、司祭の元へ行くことも考えたが、このままの姿では到底逝かせられないとエマが強く頼んだ。

せめてこの娘の綺麗な姿を最後の記憶にして欲しいと考えたからだ。

エマは汚れたお仕着せを脱衣場で手早く着替えると、他の者の手伝いを一切断り、ひとり、湯浴み場に入った。

アヘンチンキが効いているのだろうか。ドロレスは穏やかな寝息を立て目を覚ます気配がなかった。


『時間はかけられない』


エマは直感的にドロレスに残された時間は少ないように思われた。

髪の毛についた血や汚物を桶の中で綺麗にゆすぎ布で水気を取ると少しはまともになった。

顔を濡れたタオルで拭き、最後に汚れたドレスを脱がせた。


『ああ——』


エマは心の中で絶望の声をあげた。

ドロレスの手首と足首に拘束された紫色の痣が宿屋で見たときより色濃く浮かび上がっていたのだ。

それは指の関節一つ分ほどの幅の紫色の痣がぐるりと輪のようについていた。

拘束されていたのは誰の目にも明らかだった。


『このままでは痣のことが他の人にバレてしまう』


それはどう取り繕っても彼女の醜聞にしかなりえなかった。

手を動かしながらエマはどうしたらこの痣が消えるだろうかと考えていた。

白粉だけでは隠しきれないだろう。

それでもお湯で汚れを拭い去った後、死化粧のために用意された白粉を丹念に顔と腕と足に塗っていく。

だいぶマシにはなったが、やはり目立つことには変わりなかった。

もう一つの懸念である背中の傷からの血は治まったようだった。

血が止まったというより、もう流れるほどの血が残っていないと言った方が正しいのかもしれない。

用意された白いドレスを着せるのには都合が良かったが、急がなくては間に合わなくなる。

なんとか一人でドレスを着せることができたが髪の毛はそのままなのに気がついた。

髪を結う時間はないだろう。


『ブラシをかけて三つ編みにするならリボンが必要だわ……。そうよ、リボン』


エマは湯浴み場から顔を出し大声で叫んだ。


「リボンを。リボンを沢山お願い」



屋敷にいた男の使用人達の手を借りて礼拝堂の隣の部屋までドロレスを移動させた後、エマは司祭の祝福を受けていた。

ろうそくの光が辺りを照らし、香炉から立ち上る一筋の煙が部屋の中を乳香の香りで満たしている。

香りのせいか、それとも神の恩恵か、ドロレスは部屋に通されてすぐ意識を取り戻した。

『神とともにあらんことを』エマは神に感謝をした。

そして司祭から祝福を授けられた後、エマは静かに部屋を後にした。

この後は、司祭がドロレスから告解を聞くための時間だからだ。

そしてここから先は家族との時間でもあるからエマの出る幕ではない。


部屋を出ると夜というには早いが、辺りはもう暗くなっていた。

空には月と気の早い星が一つだけ輝いていた。

エマの立っている所から少し離れたベンチにドロレスの両親と兄妹らしき人が座っているのがわかった。

誰ひとり口を開くことのない重い沈黙が、闇とともにエマの元まで押し寄せてくる。

ドロレス嬢が見つかった知らせは安堵と共に拭い去れない不幸も運んだのだとエマは思った。


沈黙と闇に飲み込まれたエマには、行くあてはあったがどこにも行くことができなくなっていた。

仕方がないのでエマはそのまま礼拝堂に入り祭壇の前でドロレスのために祈りを捧げ始めた。


「エマ…さんと仰ったかしら」


暫く経ってから礼拝堂に年配の女性が現れた。

エマは黙って頷くとその女性は近づいてきた。

ろうそくの明かりの下でも身なりと雰囲気からドロレスの母親だとわかった。


「娘がエマさんとお話がしたいと」

「私とですか?私はただの使用人ですけど」

「お願いできませんか?娘の望みを。時間が…時間がもうないのです」


嗚咽を堪えるように絞り出す女性の声はエマの心を強く揺さぶった。


「わかりました。私などでよければ伺います」


そう言うと女性の後ろをついてドロレスが寝かされている部屋に再度足を運んだ。

ろうそくの温かな光の中、ドロレスは宿屋で見たときよりずっと穏やかな顔をしていた。

司祭がそばに寄るようにとエマを促す。

穏やかに微笑むドロレスは宿屋で見た濁った目の色は失せ本来の輝きを取り戻していた。


「エマさん、ありがとう。このリボン、気に入ったわ。素敵ね」


そう言って手を上げて手首に巻いた白と水色のリボンを見た。

三つ編みにもリボンを編み込み、足首にも同じようにリボンを巻いてあった。

知らない人が見れば若い娘の死を悼む使用人がせめてもの餞けに施したことだと思うだろう。

しかし、ドロレスの家族は言わなくともそのリボンの意味を悟っていた。


「私、神様の花嫁になれました。エマさんのおかげよ」


声音は弱かったがはっきりした口調だった。

エマは黙って頷くことしかできなかった。

そこにひとりの男性が息を切らして駆け込んできた。


「テオ」


男性の名を呼ぶとドロレスの瞳は途端に哀しみに曇っていった。


「ドロレス————」


それ以上、二人は言葉を紡ぐことができなくなった。

テオと呼ばれた男性はドロレスの婚約者なのだろうとエマは察した。

男性は脇目も振らずドロレスの元へ歩み寄ると手を握りしめた。


「ドロレス、逝っては駄目だ」


彼の言葉は切実で真実を告げていた。


「テオ、それは神様がお決めになることよ」

「ああ、ドロレス、逝かないで。この先も僕は君ほど愛せる自信がないよ」

「駄目よ———この先ひとりで生きていくにはあなたの人生は長すぎるし寂しすぎるわ。お願いよ、テオ。愛はいつでもあなたの側にある。忘れないで」


残る命の火を使い切るようにドロレスはテオに語りかけているようだった。

ドロレスの家族も彼同様に彼女の花嫁姿を描いていただろう。

恋人たちの最後の別れを聞きながらエマはそっと部屋を出て礼拝堂に戻った。

涙が自然と溢れ出て止めることはできない。

次から次へと流れ落ちる雫をそのままに祭壇の前に跪くとエマは神にだけ懺悔をした。

手首のリボンの秘密、錬金薬のこと、そして背中の傷の本当の意味をエマは自分の墓まで持っていくつもりだということを。

話し声はいつしか聞こえなくなっていた。その代わり礼拝堂には司祭の祈りの声が漏れ聞こえてきた。

司祭の祈りに合わせてエマも一心に祈った。


明け方、その祈りの言葉が鎮魂に変わった時、エマは一人の女性が神の花嫁となるべく旅立ったのがわかった。

読んでくださりありがとうございます


凡ミスです

ドロレスの婚約者の名前がオルガの父の名前になっていました


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