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2 祈り

残酷な描写があります

【地下牢】


 薬から覚めた時、冷たい石の床に投げ捨てられた状態だった。

 少し体が冷えたような気もするけど、下になった腕が少し痺れていただけで、後は何も変わったところがなかった。

 石造りの床に壁を見ると、ここは謂わゆる地下牢と呼ばれるところかもしれないと思った。

 

 残念なことに、部屋は窓がなく頑丈な扉一つだけだったから憶測でしかないけれど。


 それにしても、この状況に、もう少し取り乱すかと思っていたが、自分でも意外なくらい落ち着いていたのは驚きだった。

 多分、どうにもならない事に動揺しても意味がないと、子供の頃から嫌という程叩き込まれたせいだろう。


 牢屋の頑丈な扉に付いた小窓から漏れる光で、ベッドサイドにランプが置かれているのが見えた。

 明かりをつけると、質素ではあったが綺麗に整えられたベッドにと床にはラグさえ引いてある。

 よく見ればベッドサイドにはランプの他に水差しまで置いてあった。


 夫は、精神的苦痛を与えて離婚の同意書に署名をさせようとしてるのだろうか。

 牢屋ごときで。と私は思った。

 地下牢に入れられることで、繊細な貴族様なら泣き叫び許しを請い署名すると思ったのだろうが、10歳の時から使用人と一緒に暮らした私にとって、ここの地下牢は昔の部屋から、多少、質が落ちたぐらいでしかなかった。

 確かにここは手狭ではあったが、牢と言っても平民の罪人を留め置く場所ではなく、公爵家のそれは貴族を幽閉するための場所だったからだ。


 ベッドに横たわりながら、幽閉された牢の中で私は考えた。


 この貴族世界において、離婚は一つの瑕疵だ。

 政略結婚が主流の貴族世界でありながら、離婚の少なさがそれを物語っている。

(後継が生まれた後は、女性も比較的自由が保障されていたし)


 離婚をした後で私の口を封じるには、辺境の修道院か妄想癖があると言って病院に隔離するしかないだろう。

 私なら、そんな離婚などという面倒な事をせず、相手を亡き者にした後、事故死や病死を装っただろう。

 そして愛人(エリーズ)を後添いに貰えば済む話を、なぜ夫がそこまで離婚にこだわるのかわからなかった。

 わからないと言えば、ここを逃げ出す方法ではなく執拗に離婚の同意書に署名をさせたがるのか、その理由を考えている自分もだけど。


 私はその時すでに、署名をしてもしなくとも、残された道は『死』しかないことを悟って、腹をくくっていたのかもしれなかった。

 もしかすると、利用価値のある間は、幽閉されたまま公爵家のために働かされることになるのではないか。そんな楽観的な考えがあったのかもしれなかった。


 絶望的な状況でありながら、落ち着いていられる自分の精神状態がどうだったか、今はもう完全に思い出せないけれど、何となく、目的は私のお金だろうな。ということは薄っすらとだが、わかっていたと思う。


 大なり小なり借金を抱えている貴族が多い中、嫁いだ先の公爵家の負債はかなりのものだった。

 無意識に搾取する側の論理というものが働いて、下々の借金は返さなくとも良いという結論に達していたのかもしれなかったが、多額の借金にまみれていたにも拘らず、働くのを由としなかった義父の、古い貴族の考え方も大きかった。


 もちろん対外的には、資産の運用や領地の管理をそれぞれ公爵より任命された者が行っていた。

 それなのに、ちっとも領地の改善も借金の返済も遅々として進まなかったのは、能力ではなく家柄で選んでいたせいだったからだ。


 私は祖父の用意してくれた持参金の他に、それなりの額の信託財産を携えて嫁入りした。

 持参金はあっという間に、彼らの維持費や借金の返済に充てられたが、信託財産は私が30歳にならないと受け取れなかった為、私は自分の力でこの苦境を乗り切ることを決めた。

 それは、領地に一人残されたことへの発憤でもあり、夫への歪んだ愛の表れでもあった。

 公爵家を立て直せば、私を見直した夫が戻ってくるのではないかと本気で信じていたのだ。あの時は確かに。



 ◇◇◇



「おはよう、僕の奥さん」


 どうやら朝が来たようだと、オルガは思った。

 すぐさま『夫が早起きをするはずがないのだから、もう昼に違いない』と思い直した。


「少しは考え直してもらえたかな?」


 そう言って、ノエル自ら紅茶を入れてオルガに差し出した。

 ノエルのそばに控えた侍従は、豪華な食事を乗せたトレーを持って立っていた。

『アメとムチってところなのかしら。もう少し、私という人間をわかっていたなら無駄なこととわかったろうに』

 そう思いながらも、喉が渇いていたので黙って差し出された紅茶を飲んだ。

『ミルクが欲しかったな』この後に及んで考えることではないなと可笑しくなった。


「署名をしたら、ここから出していただけますの?」


 無邪気を装って聞いてみる。


「ああ、その代わりこの事への守秘義務を守ってもらいたい」


 そう言って右手の親指と人差し指を擦り合わせていたノエルを見て、オルガは彼の嘘を見破った。

 いくら形だけの結婚とはいえ、5年も付き合っていれば嘘をついている時の彼の癖は難なく見破ることができた。


「先に食事をとるかい?それとも署名を先にするかな?」


 穏やかな笑みを絶やさないノエルだったが、目は暗く冷酷な光を放っていた。


「先に食事をいただきます。終わる頃に来ていただけませんか?」

「では、その時に書類を持ってこよう。君はいつも賢い選択をする」


『本当にそうだろうか?』

 思えば、彼との婚約を選択した時から、愚かな選択しかしてこなかったように思う。


 ともかく、これが最後の食事になるかもしれないと、ゆっくり味わって食べた。


『さて、どうしたものか』

 想像の域を超えなかった『死』というものが現実を帯びてきた。

 逃げようにも、ここがどこなのかオルガは知らなかった。

 公爵の城は知らない場所ではないが、こんな地下牢と思われる場所までは把握していなかったからだ。


 やってみなくてはわからないが、それでも誰も味方がいない中、逃げるにはリスクが大きすぎる気がした。

 オルガが寝る前に見た小窓からの風景は、ただ石の壁と床が広がる通路にランプの明かりだけで、右に行けばいいのか左に進めばいいのか、見張りがどれほどいるのかも皆目わからなかったからだ。

 自分の有効性を訴えて時間稼ぎができればいいのだが、あの様子では、生かしておく意味はノエルにはなさそうだった。


 オルガは、もしかしたら、ノエルからの冷遇に意趣返しとして、遺言状を作成したのがバレたのかもしれないと考えた。

 オルガが死んだ後、彼女の名前で行った事業の権利と祖父からの信託財産の全てを教会に寄付するとした遺言状の存在を。

 この国で、一度、教会に寄付を表明したら撤回することは事実上できなかった。この国での教会の力は絶対で、国王でさえ異議を唱えても無駄だったからだ。


「食事は済んだかな?」


 不意にノエルの声がした。

 手に持った羊皮紙を私の眼の前に出すと署名を迫った。


「さあ、もういいだろう?僕は自分の後継を庶子から出したくないだけなんだ」


 オルガは眼の前に出された書類を凝視した。

 それは最高級の羊皮紙のはずなのに、なぜか厚さが均一ではない上に、変なところに毛羽立った跡が見て取れたからだ。

 気になって、そこをこすると紙が剥がれるような感じがした。

 思い切って毛羽立った端をつまんで剥がしてみると、案の定、書類は二枚に分かれ、下からは思いもしない内容の文言が現れた。


 ———私の生んだ子供に全財産を相続させる。

 私に子供なんていない。そう思った時ハッとした。


「エリーズ……」


 エリーズの生んだ子を私の子と偽って届け出るのだ。

 大方、私のこともお産で死んだ事にもするのだろう。

 お産で命を落とすのは、いつの時代でも珍しいことではなかったからだ。


「ふー。もう少しだったんだけど。まあいいや。どうする?このまま署名するなら苦しまないようにしてあげるけど」


 そう言ってオルガに笑いかけるノエルの顔は、悪魔そのものだった。



 ◇◇◇



【夫という生物】


 彼らの思惑は意外なところから露見した。

 毎日のように実務をこなしてきた私に、あの程度の偽装が見破れないと本気で思ったのだろうか?


 どうせ死ぬ選択肢しかないならば、彼らの思い通りにはなりたくなかった。

 署名を拒否すると、それからは、拷問の日々が始まった。


 質素だが、さほど居心地の悪くない地下牢から麻袋を頭に被せられ、そこに移された私が見たのは、数々の拷問の道具が並ぶ部屋だった。

 汚れてはいたが錆び付いてはいないそれらを見ると、今も現役で使われていると推察できた。

 据えた匂いと淀んだ空気のその部屋は、私の知らない、この公爵家の暗い一面を垣間見た気がした。


 あの時のことはあまり思い出したくない辛い記憶だ。

 私は夫を見くびっていたのだろう。まさか、拷問されるとは思ってもみなかった。


 初めは、寝かせてもらえないところから始まり、次は傷やアザのないところはないぐらいに打ちのめされた。

 傷が治りかけると、その上からまた傷や火傷が広がるという具合だ。

 どうせ如何あっても、生きてここから出られないなら、我慢をすることに何の意味があるだろう。

 私は早々に、許しを請い、署名をすると言っても彼は拷問するのを止めなかった。


 あの美しく優しげな顔の下に、こんな一面があったのかと思うほど夫は激変した。

 自ら手を下すのを厭わない夫のどこに、こんな凶暴性が潜んでいたのだろうか。

 見抜けなかった自分の愚かさを嘆いても、これが彼の本当の顔だったのだ。

 美しく優しい仮面を被っていただけなのだと気がついた時には、全てが終わった後だった。


 どれくらい経ったのか、もう時間の観念すらないほど拷問を受けた私は、夫の言うがままに、彼が用意した遺言状へ署名をさせられていた。

 指はあらぬ方向に曲がり上手くペンが握れなかった。文句を言おうにも、喉は薬と泣き叫ぶ声で既に潰れ、かすれ声しか出なかった。


 これでやっと自由になれると、やっと終わらせてもらえると思った。その時は。



 ◇◇◇



「初めから素直に署名しとけば、こんな辛い思いをしなくて済んだのに」


 そう言って遺言状をしまうと、オルガを棺桶に押し込んだ。


「それじゃ、エリーズに無事子供が生まれたら君の子供として届けるよ。良かったね、君はこの公爵家を救っただけでなく、後継まで生んだ、まさに公爵家の女傑だよ」


 オルガの打ちひしがれた顔を眺めながら、高らかに笑い棺の蓋を閉めた。

 ノエルはオルガを生きたまま、棺に閉じ込めたのだ。

 

 暗く狭い棺の中で、釘で打ち付けられる音を聞いていた。

 その間も、その後も、無駄だと分かりながらも助けを呼び続けた。

 もとより、潰れた声が届くわけもなく、外に人がいるかすらわからなかったけれど。

 拳が痛くなるほど、蓋を何度も何度も叩いてみたがビクともしなかった。

 

 絶望からオルガは心の底から叫んだ。


「生きているのに、生きているのに、生きているのに———」


 こんなことなら、一思いに殺してくれた方が慈悲というものだ。

 どこまでも残酷なノエルの仕打ちに血の涙が出るまで泣いた。


 『私が何をしたというのだろうか。

 帰ってこない夫の為に、家門の為に尽くしてきた私を。


 意に沿わない結婚なら、拒否すればよかったのだ。

 爵位の低い私から断ることなどできないのは、公爵家の嫡男ならわかっていたはずではないのか』


 涙も声も枯れ果てた後、オルガの救いようのない絶望は、いつしか強い憎しみへと変わっていった。

 心の奥底から、真っ黒でコールタールのように粘つく憎しみが湧き上がって、体の隅々まで満たしていくようだった。


 どれくらい経ったのだろう。為す術はなくなり、後、できることは祈ることだけだった。

 オルガは、棺の中で呪詛にも近い祈りを、一心に祈り続けた。自分の命がある限り。

 憎しみだけが彼女に寄り添っていた。


『神よ、この声が聞こえたならば、私の代わりに彼らに罰をお与えください。できることなら私にその機会をお与えください』と。


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