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18 エマ(過去)

後半、加筆してあります

 馬車の窓から外を見る度、日は駆け足で暮れていくように思われた。

 帰りの馬車が来る時とは違いゆったりとした歩みのせいだろうか。

 黄昏に辺りを染めながら暮れ落ちる秋の日の名残りがエマの乗っている馬車の窓から差し込むのを感じた。

 普段なら仕事の手を止め、自然からの贈り物を眺めながら訳もなく感傷に浸っている時間だったろう。

 だが今、エマの目の前には瀕死の娘が馬車の椅子と椅子に板を渡し作られた一時しのぎのベッドに横たわっている姿しかなかった。


 馬車の中はエマとドロレスの二人きりだった。

 目の前にいるにもかかわらずドロレス嬢の寝息はあまりにも弱く、規則正しい馬の蹄の音とドロレス嬢が寝かされている板の軋む音以外、エマの耳には聞こえてこなかった。


「ん……」


 ドロレスが言葉にならない声を漏らした。

 その声にエマは発作的にドロレス嬢の手を強く握った。

 エマは馬車に乗ってからドロレス嬢の手をずっと握っていた。

 背中の傷に触るからと横向きにされた娘の姿が痛々しくて、手を取らずにはいられなかったのだ。

 エマは今でこそ下働きではないが、それでも仕事をする荒れた掌の中にドロレス嬢の華奢で柔らかい手はすっぽりと収まっていた。

 小さく冷たい手。

 エマはふと伯爵家に行く前のオルガお嬢様のことを思い出し、切なくなった。


 ===========


 エマがあのお屋敷で働くことになったのは、本当に偶然だった。

 きっかけはエマの村の司祭のところに往診に来ていたマイエ先生と、おつかいを頼まれたエマがわずかの間だが言葉を交わしたことだった。

 マイエ先生は白いものが増えて灰色に見える髪を短く切りそろえ、少し角ばった顎に貴族らしい鷲鼻の下には立派な髭も蓄えてあり、どこから見ても威厳があった。

 反面、いつも優しげに微笑む榛色の瞳のせいで村の者は親近感を感じていた。

 もちろん、上下の区別なく診療を行ってくれる人格者であるせいでもあったのだと思う。

 見た目の厳つさと威厳のせいで年寄りに見えたが、実はエマの父と年がさほど変わらないのを知った時はかなり驚いたが。


 エマは教会にいたマイエ先生に挨拶をすると、母から頼まれた繕い物を司祭様に渡した。

 それを見ていたマイエ先生がエマに話しかけた。


「名前はなんという?」

「エマです、先生」

「年は?」

「今年で15になります」

「結婚か働きに行くあてはあるのか?」

「いいえ、先生。まだどちらも決まっていません」


 そんな短いやり取りの後で、教会にエマをメイドとして雇いたいと手紙が届いた。

 往診に行っているお屋敷のお嬢様の面倒を見て欲しいとのことだった。

 支度金と迎えの馬車を送るとの手紙に家中大騒ぎだったのを今でも覚えている。

 取り立てて美人でもなければ学もない、いずれは親の決めた人と結婚をするか商家の下働きするぐらいの未来しか描けていなかったエマはもちろん、家族の喜びはそれ以上だった。

 村から貴族のお嬢様のメイドが出るなど初めての事だったからだ。

 エマは支度金のほとんどを両親に渡し、迎えに来た馬車に乗り意気揚々とお屋敷に向かったことを思い出していた。


 馬車で連れて行かれた所は、見たことも嗅いだこともない香りのする花が咲き乱れる、教会よりもはるかに大きいお屋敷で、使用人が使う通用門ですら村一番の農家より立派だった。

 あまりにも別世界すぎて自分の置かれた状況に萎縮しながらも、これからこの屋敷での生活に夢が膨らんだ。

 だが、オルガの部屋に通されたエマは、到底お嬢様とは思えない薄汚れた痩せて貧相な子どもの前に引き合わされ、絶望した。

 怯えて人の顔色を伺う以外の感情を読み取ることができない子供。無邪気な子供らしくもなかった。

 初めて会ったオルガの第一印象は、貴族のメイドになると有頂天になっていたエマの心をものの見事に打ち砕いた。


 屋敷の家政婦長がエマのやることを手短に伝えた後、『時間があったら厨房を手伝うように』と言われ、自分の本当の意味をその時に知った。


 それでも、お屋敷で働くことは事実で支度金も貰ったからには、エマはやるべきことをやるしかなかった。

 家政婦長が出て行った後、オルガお嬢様と呼ばれた幼女の方に向き直ると腰を屈めた。


「オルガお嬢様、初めまして。エマと呼んでくだされば嬉しいです」


 そう言って右手を差し出した。


「エマ?エマというのね」


 オルガは驚いて、それでもおずおずとエマの手を取り握った。

 エマはその手があまりにも小さく、そして恐ろしく冷たかったのを今でも覚えている。

 握り返されて無理に笑おうとした顔が憐れだった。


 仮にも雇い主に向かって握手を求めるなど今のエマなら考えられないことであったが、当時はものを知らなかったのと、オルガがあまりにも見窄らしくて、つい村の子に接するようにしてしまったのだ。

『そう、あの時に何が何でもお嬢様を守るって思ったんだわ』


 ===========


 ガタンと音がして馬車は止まった。

 御者席にいたヘールマン卿が降りてきてドロレス嬢の様子を見に来た。

 相変わらず浅い息で目は閉じたままだったが、出発前にヘールマン卿が飲ませたブランデーのおかげで頬には少し赤みが戻ってきていた。


「エマ、私が見ているから少し休みなさい」

「さあ、ドロレス。元気になりたかったらいい子だからスープを飲んでくれ」


 そう言ってドロレス嬢の脈をとると宿屋でもらってきたチキンスープをひと匙ひと匙彼女の口元へ運んでいく。

 その様子を見ていたエマは、飲ませるというよりはこぼしている方が多いと苦笑いをした。


「先生はお薬を飲ませるのはお上手ですけどスープはからきしですね」

「大男の口にしか用がなかったからな。それにしても本当はビーフスープがいいのだが贅沢は言えまい」


 またスープをひと匙すくうとドロレスの口元に運んで行った。

 その時だった。

 ゴボリという音とともにドロレスは大量のどす黒い血を吐いた。


「あっ」


 エマは慌てて近寄るとそばにあった布でドロレス嬢の口元をぬぐった。

 馬車の床は汚れないように布を引いていたが、その上にも黒い血の染みが広がっている。

 それと共に、あの宿屋で嗅いだあの嫌な臭いが鼻をついた。

 何の臭いだろう。知らないはずなのに知っていて思い出せないようなもどかしさを感じる。

 エマは必死にその臭いの元を思い出そうとした。

 水で濡らした布で口元や髪の毛を拭っていると、またドロレス嬢は血を吐いた。

 済んでのところで受け止めることができたエマは何気なく受け止めた血の塊を見た。


 白い布に黒く変色した血の塊の中に銀色の粒がいくつも混じっているのに気がついた。

『——水銀』

 その時にハッと心の奥底に封印していた過去を思い出した。


 村の呪い師(まじないし)が言っていた忌まわしい秘術。

 不老不死の錬金薬。


 エマの住む村は、あまり裕福とは言いがたく常に医師がいるわけではなかった。

 皆、教会には通っていたが呪い師も共存していて、病気になった時など医師を呼べなければ呪い師に頼るはエマの村ではごく普通のことだった。

 そのような土地柄だったから子供の頃は教会の手伝いと同じように呪い師の手伝いも分け隔てなくごく普通にやっていた。

 その時に錬金薬のことを聞いたに違いない。

 今まで忘れていたが心にはその事が深く刻み込まれていたようだ。

『でも、なぜそんな秘薬のことを手伝いに来るだけの小娘に教えたの?』

 今はもう聞く術はない。

『もしかしてあの支度金と貴族の家に奉公する話がなければ今頃———』

 あえて気づかないようにしていたが、呪い師の手伝いに行くのはエマだけだったという事実を。

 だから15歳になるまでエマの元には結婚も働き口の話がなかったのだ。

 点と点が線となって繋がっていく。

 だが逆に思い出していいものか考えあぐねていた。



 エマの記憶の中で一番初めに思い出す呪い師のことは、薄暗く、据え付けられた薬棚に色とりどりの薬瓶が並んでいる風景だった。

 そのどれもが民間療法に使う薬草を基にして作られたもので、口伝えに代々伝承されてきたものばかりで怪しげなものはなかった。

 そのため村では”呪い師”という呼び名は、もはや屋号のような通り名と化していた。

 もちろん中には惚れ薬とかの怪しげなものを求めて態々村までやって来る輩もいたが、風邪薬や打ち身の湿布などの治療薬しかなく、そのため教会も存在自体は黙認していた。


 しかし、真っ当な薬とは別に呪い師は小さな箱に青い瓶を隠し持っていた。

 中身は水銀に硫黄、鉛、アンチモン……その配合は”パラケルススの青い薔薇”と呼ばれていた。

 なぜそのような名で呼ばれているのか呪い師に聞いた時『錬金術で不老不死の薬が作れると信じてる馬鹿者がいるのさ。不老不死の薬なんざ絶対にこの世にはない物だからね』と言っていたのを思い出した。


 青い薔薇。それはこの世に存在しない花。


 その薬瓶を目の前にして、呪い師も『ハッタリの為に覚えといて損はないが、生きてるものに飲ませちゃだめさね。死ぬからね』そう言って声高に笑ったのだった。

 あの後、呪い師の留守中に調合室にあった不老不死の秘術の書を盗み読んだ。

 そこに書かれていることが恐ろしくそのまま家を飛び出し、エマは暫く呪い師の元には戻らなかった。


 エマは切れ切れにだが少しだけ不老不死の秘術の事、錬金薬の記憶が蘇ってきていた。

 しかし、あれほど毎日のように通っていたのにもかかわらず呪い師のことは全くと言っていいほど思い出せないでいた。

 男だったのか女だったのか。年寄りなのか若かったのか。

 そこだけが靄がかかったようになぜか不確かになる。

 無理に思い出そうとすると『ここでのことは忘れるんだね』と言う不思議な声色が頭の中に響いて途端に何もかも思い出せなくなった。


 それでもエマは青い瓶の入った箱から漂ってきたあの不快な匂いをはっきりと覚えていた。

 そう、この独特の匂いはあの”パラケルススの青い薔薇”と呼ばれた薬の匂いに似ている。

 それならば背中の傷は———。


 そこまででエマは考えるのを止めた。

 エマの村ならまだしも、ここでは錬金術は口に出すのすら禁忌だ。

 もし、この娘が本当に秘術に関わっていたなら、どんな理由があろうと教会はドロレス嬢を受け入れないだろう。

 それではあまりにこの娘が不憫だ。

 エマはこの事は自分だけの秘密、墓の中まで持っていくと心に決めた。

読んでいただきましてありがとうございます


次は31日に更新予定です

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