17 エマ(傷痕)
血みどろ系の残酷描写があります
お気をつけください
エマは口に布を噛み、吊り紐に掴まりながら激しく揺れる馬車の中にいた。
上下左右に揺れる馬車に揺られて、もう30分ほどになる。
揺れがひどすぎて腰や臀部の痛みだけでなく頭痛さえしてきた。
動き始めに感じていた馬車酔いの吐き気はとうの昔に引っ込んでしまっていた。
『生きた心地がしないというのはこの事を言うのではないかしら』そうエマは思った。
そして、いくら団長の頼みだからと言って迂闊に引き受けるんじゃなかったと、今更ながら後悔をし始めていた。
エマの向かいには騎士団所属の医師であるヘールマン卿が馬車の激しい動きに合わせながらも悠然と座っている。
その超然とした態度にエマは感服し、改めてヘールマン卿を眺めていた。
年の頃なら60近いだろうか。
髪は白いものが多く、やはり白くなり始めた口ひげを蓄えた小柄で痩せている卿は、一見、好々爺という風貌だが、騎士団の中では誰よりも、あの団長からも恐れられる存在でもあった。
若い頃は軍医として死線を何度もかいくぐってきたせいだろうか。
眼光の鋭さに今でもセルジュは身の竦む思いをすると言っていたが、この揺れる馬車での平然とした姿を見ればあながち嘘でもなさそうだった。
そのヘールマン卿が「馬車を飛ばすでしょうから舌を噛まないよう布を噛んでいなさい」と言って鞄の中からきれいな布をくれなければ、今頃エマの舌は傷だらけだったに違いない。
それでも、エマの我慢もこれ以上は無理と思った頃、馬車は一軒の宿屋の前に止まった。
その宿屋は一階の半分はパブになっている二階建ての建物で、街道沿いではよく見かける何の変哲も無い一般的な宿屋だった。
入り口には宿の名を記す烏とジョッキが組み合わさった看板が取り付けられているのが馬車の窓から見えた。
小綺麗だが貴人が止まるような宿ではない。それでもそれなりのお金を持っていなければ泊まれないレベルの宿屋のように見受けられた。
エマは「着きましたよ」と言う御者の声に唸るように返事をしたが、足腰に力が入らず馬車を降りることができないでいた。
『あんなに馬車が揺れるなんて』
もう二度と馬車には乗りたくないと思うぐらいの経験だった。
ヘールマン卿はそんなエマを横目で見ながら微笑んで「先に行くぞ」と言ってさっさと降りてしまった。
エマは、それでもなんとか降りようともがいてみたが、足腰に力が入らないどころか腕にも力が入らないでいた。
「エマ、大丈夫か?」
いつまでも降りてこないエマを心配して、馬車の後を馬で追走してきたセルジュが中を覗いて聞いてきた。
「だ…め み…たい……」
やっとの事で言葉を絞り出す。
「仕方ないな」
そう言うとセルジュはエマの膝の裏に腕を回し、そのまま抱き上げて馬車から下ろした。
地面に降ろされたエマが一人で歩こうとしたが、やはり足に力が入らず立つこともままならなかった。
それを見てセルジュは黙って再度エマを抱き上げると、そのまま宿屋に入ろうとした。
「あ、ドレス」
伯爵邸で出かける準備をしている時、怪我をしているという女性の実家よりドレスが数着届けられていた。
急いだと見え走り書きに近い文字ではあったが、娘、ドロレスを気遣いエマに感謝する短い手紙が添えられていたのを思い出していた。
届けられたのはコルセットなしで着れる部屋着のようなドレスだったが、それでも清潔なドレスに袖を通したいだろう。
「セルジュ、待って。ドレスを持ってこなくては」
「後で届けさせるよ。今はヘールマン卿の元へ行くのが先だ」
そう言って宿の女将と話をしているヘールマン卿の元へエマを運んで行ってくれた。
小さいけれど小綺麗なパブはテーブルが3つと、他にカウンターでも飲めるようになっていた。
その一つのテーブルでヘールマン卿は宿屋の女将から話を聞いているところだった。
エマに気がついたヘールマン卿は隣の椅子を勧めると、ぬるいお茶をエマの前に置いて飲むように言った。
「大丈夫かい?エマ。気付薬でも嗅ぐかい?」
「ありがとうございます。ご心配おかけしました。なんとか歩けるまでになりましたので」
一通り女将からドロレス嬢の現状を聞いたヘールマン卿と共に案内されたのは、二階の一番奥まった部屋だった。
伯爵の手回しなのか、他には客のいる気配がない。
三人の足音だけが響く廊下を娘のいる部屋まで進むと、ヘールマン卿が軽くノックをし扉を開けた。
その途端、むっとした血の匂いに混じって不思議な匂いがエマの方まで漂ってきた。
それは薬湯の匂いなどではなく、得体の知れない、むしろ不快と言ってもいいような匂いだった。
何かが腐り始めている。そんな匂いに似ているとエマは思った。
思っていたよりはるかに状況は最悪なのかもしれないとエマは直感した。
始め、団長から怪我をした娘を私とヘールマン卿とで迎えに行って欲しいと言われた時に、なぜ彼女の身内でもない、何の関わり合いもない私を?と訝しく思った。
その後に、その娘が例の失踪した女性だと知らされてエマは納得をした。
女が拐かされ、身代金の要求もなしに幾日も経った間のことは想像に難くない。
エマですらも理由は一つしか思い浮かばなかったからだ。
ならば彼女の尊厳を少しでも守ってあげられるよう、土地や身内のしがらみがない自分が選ばれたのだと悟った。
しかも護衛の騎士の中にセルジュがいれば、婚約者である私一人でも済む話だ。
人の口は少ない方が噂になりにくい。そう団長は考えたに違いなかった。
例え直ぐ修道院に送られるにしても、ドロレス嬢の家には未婚の兄弟姉妹がいると聞いている。
残念だが、彼女に落ち度はなくともこういった噂は家族を苦しめるしかないのをエマはよく知っていた。
ヘールマン卿に続いて部屋に入ったエマは、鎧戸は固く閉じられ薄暗く、窓も開いていない様子に
『いくら夏ではないと言ってもかわいそうに。窓ぐらいは開けてもいいのに』と少し腹ただしさを覚えた。
二人が部屋の中に入った後も、宿の女将は入り口から覗くだけで決して中には入ってこなかったのもエマは気になっていた。
匂いはあいかわず不快だが暗さには幾分慣れてきたエマが部屋を見渡すと、隅にあるベッドに今は眠っているのだろうか身動きひとつしない人の影があった。
とりあえずエマは窓辺に近寄り鎧戸と窓を手早く開けた。
そして振り返りベッドに視線を向けたエマは、自分の目の前に広がる惨状に言葉を失った。
布で体を覆われたまま、ほって置かれたかのような状態もだが、寝かされていたベッドは血で汚れていた。
それは元は白いシーツだとは思えないほどのおびただしい量の血で真っ赤に染まっていた。
シーツだけではない、毛布にも血が染み込んでいるのがわかった。
いったいどこからそんなに大量に血が流れているのか判別が難しいほどの状態だった。
寝かされているドロレス嬢の顔には血の気はほとんどなく、かすかに胸のあたりの動きから息をしているのが見て取れた。
ドロレス嬢の現状を目の当たりにした卿は
「今直ぐ、きれいな布と熱いお湯をあるだけ持ってきなさい」
と怒鳴るように命令をすると、鞄を開け必要なものを取り出してはテーブルの上に並べ始めた。
怒鳴り声に驚いた女将は、直ぐさま小間使いを呼び部屋に布とお湯を運ぶようにと言付けた後、自分も階下まで逃げるように降りて行ったきり戻ってくることはなかった。
エマは寝ているドロレス嬢の状態を確かめた。
元は綺麗な明るい栗色の髪だったのだろう。今は所々に血がこびりついて固まっていた。
反対に顔には血の気がなく、唇は青に近い紫色をしていた。
目はもう開くことがないのかと思われるほど硬く瞑られていた。
「ドロレスお嬢様、大丈夫ですか?今、先生がお見えになりましたよ」
そっと耳元で囁くとドロレス嬢は薄く目を開けた。
元は綺麗な琥珀色の瞳だったろう。今は暗く淀んだ黄色にしか見えなかった。
それでも一瞬、ヘールマン卿を見ると
「先…生?お医…者…様……」
途切れ途切れではあったがそれだけ言うとまた目を閉じてしまった。
それでも意識があるということがわかり、エマは少し希望が見えたような気がした。
その間に宿屋の小間使いはお湯と綺麗な布を持っては来たが中に入ろうとはせず、部屋の前に置くと急いで階下に降りて行った。
「仕方がない。エマ、取ってきてくれないか?」
エマはお湯と清潔な布を部屋に運び込み、お湯を洗面器に注ぐとヘールマン卿は手を洗いエマも習って手を綺麗に洗った。
「ドロレス、少し体を起こすよ。いいね」
ヘールマン卿は布で巻かれたままの彼女を起こすと巻かれた布を取り、背中に張り付いている布を丁寧に剥がしていった。
起こしたついでにエマは清潔な布をシーツの上に引いたが、直ぐにマットから血が染み出してくるのを止めることはできなかった。
手当が終わり次第、伯爵邸へ戻ることになっていたのでベッドは諦めることにした。
エマは次に、残ったお湯を別の器に移し、卿の邪魔にならぬようドロレス嬢の顔と体を拭き始めた。
肩から腕、腕から指先へと何度もタオルをゆすぎながらエマは丹念にドロレスの体を拭いていった。
言いたいことは沢山あったし、泣きわめきたくもあった。
そして、なぜだかわからないが次第に体の奥底から怒りがこみ上げてきて、狂ったと思われてもいいから大声で怒鳴りたくなった。
その全ての感情に蓋をして、エマはただひたすらドロレス嬢の体から汚れを落とすことに専念していた。
腕から先を拭き始めた時、ドロレスの手首についた紫色に変色した縛られた跡のようなものを見つけたが、エマは気がつかないふりをして黙々と汚れを落とすことに集中することにした。
ドロレス嬢の背中に張り付いていた最後の布が剥がされた。
背中のどこに傷があるのか確かめようとしたヘールマン卿はその有様に
「これは……」
そう言ったきり絶句してしまった。
戦の最前線ででいろんな怪我を見てきたはずの卿ですら言葉を失ってしまうほどの酷い傷だった。
それが傷と呼んでいいものであればだが。
エマは急に手が止まってしまったヘールマン卿に、まだ布が張り付いたままなのではないかと言おうとして、すぐにそれが間違いだと気がついた。
それは血がこびりついているのでも、血で汚れた布が張り付いる訳でもなく、ドロレス嬢の背中一面の皮が無残にも剥がされていたのだ。
しかも稚拙な腕前だと見えて痛々しさの残る傷痕が背中に広がっている。
近くで見ていたエマは言葉を発することすらできなかった。
喉元まで酸っぱいものがせり上がってくるのを必死に押さえ込んでいたからだった。
ありがとうございました




