15 新聞
『騎士が付いてくるのはいい。だけど、屋敷内の噂話を密かに聞くことができなくなったのは困ったわね』
オルガは苦々しげに親指の爪を噛んだ。
アディに、ガヴァネスに見つかったら手の甲を定規で叩かれる。
それでも爪を噛むのを止められなかった。
今、屋敷の中は不穏な空気が満ち始めていた。
もう何日もお祖父様と団長が話し合いをしているからだ。
その間、オルガは一人で朝食を食べている。
祖父の顔はもう何日も見ていなかった。
「お嬢様、何か心配事がおありですか?」
マリーがオルガを心配そうに見つめていた。
「ううん―――いいえ、お祖父様のことが心配なの」
「ああ、そうですね。随分、旦那様のお顔を拝見していませんね」
「そうなのよ。お祖父様の心配事が何なのかわからないのがもどかしいわ。だからと言って私にできることはないけど……」
オルガはまた爪を噛んだ。
それを見ていたマリーはそっとオルガの手に自分の手を重ね言った。
「お嬢様、私が調べてきましょうか?」
「えっ。マリーが?できるの?」
「お任せください。マリーもできる侍女だっていうことをお嬢様に証明してみせますわ。
あ、申し訳ございません。勝手にお嬢様の手を……」
「いいのよ。そうね……マリーにお願いしてもいいかしら。でも、くれぐれも無理だけはしないでね」
マリーはにっこりと笑うと「では、行ってまいります」と騎士の真似事をして出て行った。
オルガは最近、使用人の噂話を密かに聞くのも限界を感じていたところだったので、マリーの申し出は渡りに船だった。
今のオルガは”お客様”ではなく”お嬢様”になっているせいで使用人の目も行き届いてしまっていた。
『使用人は使用人同士の独自の情報交換があるのだろう』
そろそろオルガも自分の思惑で動く侍女を持ってもいい頃だと考えた。
マリーはこの屋敷で起きていることをその日のうちに調べ上げていた。
それは翌朝にはオルガにきちんとした報告ができるほどであった。
「グウェン婆さんという洗濯室の主がいるんですけど、この家のことで知らないことはないってくらいなんでも知っているんですよ」
マリーはオルガの朝の支度を手伝いながら手に入れた話を聞かせてくれた。
ここ最近、近隣の領地や伯爵領で若い女性、子供の行方不明者が増えていたのだという。
確かに、王都へ割のいい仕事を求めて、華やかな世界に憧れて親に内緒で家を出るものがいない訳ではない。
それでも若い女性が何の前触れもなくいなくなる事件が増えた。
初めは、王都で働きたい、割の良い仕事がしたいという、その年頃の中でも浮ついた身持ちのあまり良くない娘ばかりがいなくなったので、あまり問題視はされていなかったようだ。
酷薄なようだが、今でなくともいずれどこかで生まれ故郷を離れると皆が思う者ばかりだったからだ。
だが最近、ごく普通のしかも身持ちのしっかりした娘が立て続けにいなくなったのだ。
そのうちの一人は次の週に結婚式も控えていた祖父の商売を代行する家の娘だった。
望まぬ結婚ではなく、周りから祝福され本人たちも愛し合っていただけに周囲に与える衝撃は大きかった。
「その日は婚約者の家から帰る途中だったようです。お昼を一緒に食べてからそれぞれの職場へ向かうほんの数分の道のりだったと言います」
その日、不審な者の報告は上がっていなかったし、宿屋への泊まり客にも怪しいものはいなかった。
それでも祖父は娘を探すのにありとあらゆる手を使ったが、何の手がかりを得ることができなかった。
ただ、娘たちが失踪する何週間か前にガラの悪い男たちが宿屋にいた。というぐらいしか手がかりは見つからなかった。
「旦那様はなんでも王都で手がかりを見つけられたようで、連日、団長様とお話し合いをされているのだそうです」
マリーは自分の役目に満足したのか
「また、何かありましたらマリーにお言付けください」
そう言い残すと部屋を出て行った。
◇◇◇
【マリー】
予想以上にマリーはできる子だった。
金髪というよりは黄色に近い髪に私よりはマシな澄んだ青い目で小柄な彼女は実際の年齢よりも幼く見えた。
初めて会った時は自分が子供だということを忘れていたので、自分よりも背の高い彼女を年上に見えたことを懐かしくさえ思った。
屈託のない性格は誰にでも好かれ、その上よく働いた。
屋敷では盲目的に私を崇拝して……いや、訂正する。私ではなく貴族のお嬢様にお仕えする侍女に憧れていた。
それでもあと少しで17歳になるというマリーはエマの抜けた穴を上手に埋めていると思う。
私にとってエマは別格だった。
侍女というよりはもはや家族に近かった。
それだけに復讐の禍に巻き込むことは避けたかった。
なぜならエマは身を賭してでも私を守ろうとするだろう。
だからと言ってその代わりにマリーならいいのか。
答えは出そうにないが、今はこの屋敷だけのこと。そう思えば気も楽になる。
ともかくも、そのマリーのおかげで事件のあらましはよくわかった。
おそらく祖父はとうの昔に失踪の黒幕はフロベール公爵に違いないと確信していたに違いない。
だが確固たる証拠も無しに、いや、あったとしても領地民の失踪ごときで公爵を追求することはできないのはわかりきっている。
いくら困窮しているとはいえ、この国で公爵は王族に次ぐ爵位だ。
祖父は事件の解決を諦め、どんな形であれ娘を親元へ返すことしか道はなかったのだろう。
それは祖父にとって苦渋の決断だったろうと容易に推察された。
おそらく王都のとりわけ商業地区へ最初に赴いたのも表向きは私を連れての気晴らしだが、本当は娘たちの足取りを追う目的があったのではないか。と考えられた。
◇◇◇
王都から戻ってきてから祖父は自分の書斎で団長やマティアス、時には伯父と食事を共にしていた。
オルガはマリーに祖父が朝食の席にいない間は自室で食べることにしたと告げていた。
わざわざ子供一人のために朝食の準備をさせるのが忍びなかったからだ。
先ほど出て行ったマリーが朝食と新聞を乗せたトレーを運んできた。
「旦那様から先に読んでも構わないとのことでした」
そう言ってマリーはトレーに載った新聞をテーブルの上に置いた。
投資の話をした時から祖父はオルガに必ず新聞を読むようにと課題を出していた。
隅から隅まで、求人欄の一文字たりとも見逃さず読み、考えるようにと。
情報を知らずして損をするような馬鹿者にはいくら予見する力があっても無駄なものでしかないというのが祖父の言い分だった。
新聞は週に一度、二部届いた。地元の新聞社が発行したものと一週間遅れで届く王都で発行されているものだ。
たまによその領地で発行されたものが届くこともあったが、概ね週に一度届く新聞をオルガは丹念に読んだ。
アディからのお墨付きもあり、今はしなくてはならない勉強はない。
オルガはその時間を新聞を読む時間に充てていた。
朝食を手早く済ませたオルガは、いつものように地元紙から読み始め、一週間遅れの王都の新聞に手をかけた。
オルガはいつもこの新聞の社交欄から先に目を通すことにしていた。
前世で見知った者の若い頃のスキャンダルや近況はたとえ小さなことでも興味深かったからだ。
今では社交欄を読むことは時間を遡ったオルガの密かな楽しみとなりつつあった。
新聞をめくるとオルガの目に飛び込んできた挿絵と見出しに我が目を疑った。
『ノエルが婚約?』
新聞の片面に大きく【ノエル・パトリック・ジョフロワ・フロベール小公爵、シャルパンティエ侯爵令嬢とご婚約】の見出しと仲睦まじい二人の挿絵が印刷されてあった。
”——かねてより噂のあったロマン・ユルヴィル・ジョフロワ・フロベール侯爵の嫡男であるノエル・パトリック・ジョフロワ・フロベール小公爵とジョスラン・ダビド・シャルパンティエ侯爵の次女である
エルヴィーヌ・マリエル・シャルパンティエ侯爵令嬢との婚約が先日、ブロティレスター大聖堂で厳かに執り行われた。この婚約で両家の———”
オルガはここまで読んで呆然とした。
『ノエルが婚約をした。私ではない人と。もしかして本当に未来が変わったの?』
『ギヨームに会ったのも少女たちが失踪したのも私には関係のないことだというの』
もう一度、新聞を読む。
”——フロベール小公爵は来年、王立学園への入学が決まっており将来有望の——”
『ノエルは11歳ではなく14歳ということ?これで私とは一緒に学園に通うことはないってこと?』
ということは、学園でノエルの父であるフロベール侯爵の目に止まるということもなくなったということだ。
オルガは今、ノエルの接点が完全に断ち切れたのだ。
喜んでいいはずなのに喜べない。
何か見落としているような漠然とした不安感がオルガの脳裏をよぎっていった。
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