8 過去に囚われる、とある青年
少年は、追ってくるものから逃げていた。
見たことのない異形のものだった。頭は牛、足はドラゴン、長いしっぽが生えてその先は二股の蛇の異形だった。腕だけは人のもので、異様に長い爪を持っていた。その長い爪で少年の心臓の位置を指し、何かを埋め込んだ。
そのとたんに、今まで経験したことのない吐き気に襲われた。
今もガンガンと頭が痛い。けれど、足を止めるわけにはいかなかった。
異形は言った。死にたくなくば、逃げよ。と。
その言葉を合図に、異形から黒い影があふれだした。影が少年に触れると、肌が焼けただれる痛みに襲われた。
死にたくはなかったから、少年は走り出した。
走りながら、なぜ、どうしてという言葉ばかりがあふれだす。
安全な王宮内にいたはずだ。身元が確かなものしか入ることのできない王宮の、さらに奥にいたのに、なぜこんなことになるのか。
『お前の恐怖が、お前の絶望が、お前の中の闇を大きくする。闇はやがてお前を食い破るぞ!』
不気味な笑いとともに、異形の声がこだまする。
どこをどう駆け回ったのか、気づけば王宮の外に飛び出していた。
異形の化け物の仕業かもしれない。人が大勢いる、市か何かだ。いくら全力で走ったからと言って、庶民が大勢いる市までそれほど簡単に来られるはずがない。
何かに追われている様子の少年に、手を差し出そうとする者はいなかった。
「化け物!」
民の言葉に、少年は振り返った。だが背後に黒い影はなかった。
逃げきれたのだろうか。そう思っていると、額に石がぶつかった。
「化け物! あっちへ行け!」
少年よりももっと小さな、五歳くらいの子供が手に石を抱え持ち、少年に向けて投げつけていた。金髪に金目が、化け物のように見えるのか。いや、どんな子供でも、皇族が神の化身であることを小さいうちから学ぶ。
少年は呆然として、自分の手を見下ろした。先ほど、少年の心臓に何かを植えた異形と同じ、いびつな人の手だった。
少年の顔を見て、誰かがまた叫ぶ。
「化け物――いや、魔獣だ。軍を呼べ!」
その言葉に、少年は再び走り出した。このままだと殺される。人間に。本来なら彼を守るはずの人たちに。
土地勘のない場所をわけもわからず走り続ける。
石やナイフなどが手あたり次第飛んでくる。やがて、遠くから馬のいななきが聞こえた。
それが軍のものだと気が付いた時、ぞっとした。
だんだん近づいてくる蹄の音に、身を隠す場所を探すが、高い塀と塀の間で、遮蔽物が何もなかった。道の奥も、行き止まりだった。
少年は呆然と立ち尽くす。
とうとう背後から、軍靴が石畳を駆ける音が聞こえた。
観念し、少年は振り向く。
自分の正体を告げようとしたが、牛の口からこぼれたのは醜いうなり声だけだった。もはや、自分が誰であるのかを知るのは、先ほどの異形のものしかない。
「醜い魔獣め。そこに逃げ込んだが最後。始末してくれる」
今日の帝都守護当番を任されていた衛兵が、持っている剣を高く振りかざした。
少年は反射的に目を閉じる。
布がはためく音が聞こえたかと思うと、キン! と甲高い音がして、次いで重い何かが倒れた。
「貴様! 何者だ。なぜその魔獣をかばい立てする」
「あなたたちに教える名は持ち合わせてない」
若い女の声が朗々と響いた。少年は恐る恐る目を開け、状況を確認する。
最初に視界に飛び込んできたのは、長く豊かな茶の髪を背に垂らした女だった。いや、先ほどの声から察するに、まだ少女と言って差し支えない年齢かもしれない。
長剣を携え、たった一人で守護衛兵と対峙している。兵士たちの半分しかないのではと思わせる細腕で長剣をやすやすと振り回し、次々と衛兵を打倒していった。しかも、だれ一人の命を奪うことなく。
やがて兵士の山が築かれる。
すべての兵士を昏倒させた後、少女は鞘に剣をしまいながら少年のもとにやってきた。
「大丈夫? ……ってその状態じゃ話せないか」
柔らかい笑みを浮かべ、少女は腰を落とし、少年の目線を合わせた。少女というべきか、女性というべきか。ちょうど成人したてくらいの年齢だ。ぞっとするほど整った顔立ちなのに、愛嬌のある微笑みを浮かべるので、心が安らぐ。
彼女の目を見れば、不思議な色合いをしていた。光彩の一番外側は青色で、中心に向かうにしたがって緑になりオレンジになりそして茶色に変化している。
「さて、あなたには少し、付き合ってもらおうか」
少女はそういうと、少年の体を抱え上げた。そして地面を蹴り上げる。
ふわりと空へと舞い上がった。まるで魔術のようだった。だが魔術とは違う。呪文の詠唱も魔法陣の呪符なかった。
やがて飛び上がった時と同様に、どこかの森の中にふわりと着地した。
少年を下ろすと、少女は腰に手を当て、首をかしげた。
「さて、どう説明しようかしらね。……まず、あなたの中には精霊が閉じ込められている」
精霊。それはおとぎ話ではなかったのか。隣国でありながら、行き来のできないスピリュティアのことが思い浮かぶ。
「闇の精霊。しかも、その闇の精霊はちょっとまずい飼われ方をしていて、人間が大嫌いみたい。分離できればいいのだけど、今の私には無理ね」
少女は言いながら、少年の顔を上に向かせた。少年は今、ひどく醜い顔をしているはずなのに、怖がる様子は一切ない。真剣な目で、少年の顔を覗き込んでいる。
少年の脈が早鐘のように早くなった。
「このままだといずれ、闇の精霊に食い破られるだろうから、とりあえず、封印だけしましょうか?」
少女の提案に、少年は頷く。
「もちろんこれは、根本的な解決になっていないわ。人間嫌いの闇の精霊に負けないように、だれも憎悪しない、恐怖もしない。絶望もしない。できる?」
できなくとも、するしかない。少年は力強くうなずいた。
少女はにっこりと笑うと、少年の輪郭をなぞり始めた。綺麗に爪が磨かれた白い指に、色とりどりの光が宿る。
「この地を守護する森の精霊よ。彼を守護する太陽の精霊よ。お願いだから私に力を貸して。彼の中に閉じ込めた闇の精霊を眠らせ、彼の姿をもとに戻して」
歌うような声とともに頭の痛みと吐き気が引いていく。
「術者を探して解除させるか、より強い術者を見つけて、引きはがしてもらって。それまで、あなたは綱渡り状態。きっと心が休まるときはないでしょう」
王宮はこの森を抜けたところよ、と少女は少年の背後を指した。
去ってしまうのだ、ということが分かった。何とか少女を引き留めたくて、少年は手を伸ばした。
いつの間にか人間に戻っていた手が、少女の手をつかんでいた。剣を扱う、手のひらの固い手だった。
「いかないで」
「それはできない。私を待っている人がいるから」
「じゃあせめて名前を」
「それもできない。でもそうね、次に会うことがあれば教えるわ。必ず」
少女は人差し指を唇に当て、本気とも冗談ともつかぬ口調で笑った。
ばさりと服の裾を鳴らし、少女は飛び上がる。まるで鳥のように、彼女は消え去った。
「魔女の君……」
少年は、熱っぽくその言葉を唇に乗せた。
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暗闇の中、彼は目を開けた。
やけにのどが渇いている。ベッドの上で身を起こして水差しから水を入れようとすれば、視界に濃紺の髪が見えた。
「ああ。今日は新月か」
暗い室内でぽつりとつぶやく。
道理で体が重いわけだ。日中は平気でも、夜になることのざまだ。
新月になると体の内側から闇が侵食してくる。できるだけ人を恨まぬように、絶望を抱かぬようにしているのに。
久しぶりに、昔の夢を見た。あれから、もう十年も経つのか。
忌まわしい過去であると同時に、甘く切ない感情を思い出してしまう。
あの後もちろん、彼女を探させた。けれど国民に該当者は一人もいなかった。
今も時折、望んでしまう。いつかまた、めぐりあってあの笑顔で癒してくれるのではないかと。
それはもう、かなわない願いなのに。
少年を助けた少女の目の色ですが、アースアイという実在する目の色です。
よろしければ調べてみてください。