5 花を贈られる魔女
「フィルスト殿下……?」
青い花束を抱えて立っていたのは、フィルストだった。
戸惑っていると、控えの間に下がらせていた侍女が音もなく室内に入ってきて、てきぱきとお茶の準備を始める。その顔は非常に晴れやかだ。彼女たちだって、まさかフィルストが現れるとは思っていなかったはずだ。なぜなら、クララは三番目の花嫁。一番役に立たないと思われている花嫁だから。席順からも、自己紹介を求められた順からも、あてがわれているこの部屋の位置からも、誰の目にも明らかだった。
皇子の花嫁の侍女という名誉ある職ではあるが、その中で三番目はやっぱりやる気が続かない。と思っていたらまさかの展開で。侍女たちはいきなりやる気全開だった。
あっという間に小さなお茶会の準備ができる。
クララはフィルストから花束を受け取り、席まで案内せざるを得なかった。
花束に使用されている花は、いろんな種類があった。バラにカスミソウだけではない。青スミレに青コスモス、青ユリ。薄い青もあれば、空のような澄み切った青もある。深い深い青は濃紺に近い。顔をうずめるように香りを嗅げば、肺いっぱいにすがすがしい香りが広がった。
「ありがとうございます」
いきなりの訪問に驚きはしたが、花をもらってうれしくない女性はいない。クララだってその例に漏れない。素直に礼を言って、すぐに生けるように侍女に命ずる。
「今日は日差しも穏やかで、風も心地よかったので」
そういって別の侍女は二人をバルコニーに案内した。
向かい合う形ではなく、庭も眺められるように、隣り合うように椅子が置かれている。
必要以上に距離が近いのでは? とクララは思ったが、この機会に二人の仲を近づけようという侍女の魂胆がありありと伝わってきた。
もともとクララに仕えている侍女ではなく、所属はこの王宮にある。部下のしつけはどうなっているんだというつもりで、クララはフィルストを仰ぎ見た。
フィルストは愉快そうな笑いを顔に浮かべていた。
「まあ、いいのではないかな」
そう言って、クララとために椅子を引く。この配置のまま、お茶会を始めるつもりのようだ。ここで突っぱねても意味がない。手を借りながら、クララは椅子に腰を下ろす。
バルコニーからは、中庭が一望できた。綺麗に刈られた緑に、季節の花が咲き乱れている。見える範囲に、青い花はなかった。鮮度から言って、庭に咲いているのではないかと思うのだが。
「いただいた花はどこに咲いているのですか?」
「城の裏手に温室があってね。そちらで先ほど摘んだばかりだよ」
「どおりでまだ生き生きしていたのですね」
微笑みながら答えるフィルストに、クララは笑顔を返す。
隣に並べられた椅子に、フィルストは腰を下ろす。侍女は手際よくお茶を注ぎ始めた。茶菓子も前に置かれる。柄にリグの実の彫刻がされている銀のフォークとナイフが添えられていた。リグの実は、豊作と繁栄の象徴なので食器によく使われる。
白いお皿に置かれているケーキを見下ろし、クララはさてどうしようと考える。スピリュティアもフォークとナイフの文化圏だが、マナーまで一緒とは限らない。普段ならマナーなどお構いなしで手づかみだ。
フィルストのほうを見れば、器用にナイフとフォークで切り分けながら食べていた。もちろん、食器がぶつかる音はない。
「食事の際、特に守るべき作法はありますか?」
見よう見まねで食べることもできたが、マナーには何か意味がある。その意味を知らねばいつか失敗をするから、クララは思い切って聞くことにした。
フィルストが不思議そうな顔をする。まるで、庶民がマナーを訪ねているようだったのか。確かにクララは、貴族の身分制度で言えば庶民だ。身分を与えられてしまうと、行動が制御されてしまうのであえての庶民だ。だがスピリュティアでは王女マシュリナの姉妹のように扱われていた。
クララは肩をすくめ、言い訳を開始した。
「スピリュティアは地形的に鎖国しているような状態ですから、他国のマナーは入ってきません。食事中に音をたてないといった一般的なことは分かりまずけど、細かいことは気にしないんです。だから、例えばスープを飲むときに手前からすくうのか、奥からすくうのかとか。フォークは外側から使うのかとか内側から使うのかとか、パンだけは手で食べなくてはいけないのか、パンもフォークとナイフを使わなければいけないのか、一枚肉で出てきたステーキは先に切り分けてから食べないといけないのか、食べるときに切らないといけないのか。そのようなことは一切、わかりかねます。もう、とにかく参考文献が古すぎたり言ってることが違ったりして、どれを信じていいのか。ああこんなものもありました。麺類を食べるときだけは音をたてるのがマナーだと」
クララは一気にまくしたてた。
言っている途中でこれは失敗だと気が付いたが、ここまで来たならいっそのこと最後まで言い切ったほうがすがすがしい。こんな変な嫁はいらないといってくれれば、それはそれでいいではないか。その結果が、戦争では困るが。
花嫁を差し出さなくては、ウィザダネス帝国と同盟国が攻め込む。それが、ウィザダネスの脅し文句だった。巨大な軍事力を持つ帝国に攻め込まれては、スピリュティアはひとたまりもない。できれば穏便に事を進めたかった。
ある種の覚悟をしていたクララの耳に、くっ、という音が届く。音のする方向へ目を向けると、フィルストが震えながら笑いをこらえていた。
「私、何かおかしいことを言いました?」
「いや、何もおかしなことは……」
そういいつつも、ツボにはまったのかフィルストはナイフとフォークを完全において腹を抱えている。
「すまない。言っていることはなにもおかしくはないのだが、君のイメージとは合わなくてね」
「いったいどのようなイメージを私にお持ちなんですか」
クララが尋ねると、それまで何とか笑いをこらえていたフィルストの表情が引き締まった。金色の目が、じっとクララを見据える。
「そうだな。いまだに精霊なんてものを崇め続ける頭の固い国の王女だから、お高く留まっているのかと。ラスターの襲撃のあの瞬間まで君はまるで天上から下々のものを見下ろす神であるかのように、周囲を見下しているように見えたから」
フィルストの言葉は、クララにとっては心外だった。緊張で表情はこわばっていたかもしれないが、周りを見下してなどいない。
「君はあの場で最も神々しく見えたよ。声をかけるのもためらうほどに。だから、まさかマナーのことで悩むこともあるとは、意外過ぎるだろう?」
「私としても、フィルスト殿下がこんなにも気安いお方であるとは、意外でした。小国のものとは口もきけぬほどの方かと。ウィザダネス帝国はもはやこの世界において右に出るものもない大きな国。いくら隣の国とはいえ、スピリュティアは取るに足りない国でございましょう? しかも、いまだに精霊を信仰している古い国なのですから」
フィルストの言葉を嫌味と受け取り、クララも嫌味で返す。ある程度は相手のご機嫌を取らなくてはいけないが、あまりに卑屈すぎてもいけない。なめられては、故郷を守ることができないのだから。
「なるほど、一筋縄ではいかないようなのは、当初の印象とは変わらないようだ」
「私を丸め込む必要もないのでは? フィルスト殿下の本命のお相手は雪花姫でしょう?」
東方の大国赫陵。ここと縁を結べば、ウィザダネスはもう怖いものなしだ。植民地も含めると、世界の三分の二を手中に収めたのと変わらない。逆に、スピリュティアを手に入れたところで、世界的には何ら影響はない。せいぜい、古い神もウィザダネスの存在を認めたと主張できるくらいか。とは言っても、いまだに精霊信仰が続いている国は一部の部族くらいで、その彼らとてスピリュティアの精霊を信じているのではなく、彼らの精霊を信じているから、やはり世界的にみて何の意味も持たない。
「決まってないから、今回のような形をとっているのだが」
「ジューンメイーデュと天秤にかけているだけでは? ウィザダネスと国交のない国とのつながりを持っていますし、海運技術も抜きんでている。それに商人国と呼ばれるだけあって、貿易がうまい。ウィザダネスにとってはおいしい国ですよね」
その二つの国とスピリュティアがなぜ肩を並べているのか、クララには不思議だ。
「勘違いしないでくださいね。私はスピリュティアを愛しております。この命を懸けてもいいほど。けれどやっぱり、なぜ我が国なのか理解できません」
三人の皇子に同時に嫁をあてがうのであれば、別にスピリュティアでなくともいいはずだ。大国とは呼べなくとも、ウィザダネスにとっておいしい国はもっとある。
「本当に? 本当にスピリュティアの魅力を理解していない?」
フィルストが金色の目でクララの顔を覗き込んだ。息がかかりそうなほど間近に迫った目に、偽装したクララの目が映りこむ。鮮やかな緑だ。スピリュティアでは森の色と呼んでいる。スピリュティアの森と言えば、王国の北側に広がる森を指す。神の庭。あるいは還らずの森。精霊の住処で、その奥に行くと人ではない世界に通じているという噂もある。クララが模倣したマシュリナの目は、そんな色だった。
「まさか、還らずの森が目的なんですか?」
「正確には、そこに眠るだろう資源が。……そういえば、耳飾りが片方ないようだが、どうしたのかな」
言いながら、フィルストはクララの左耳に手を伸ばした。耳には触れず、つけたままの耳飾りをかちゃりと鳴らす。反対の耳飾りは先ほど精霊と契約するために使ったので、今はない。
「壊してしまったので」
「そうか。ガラスの中身がきれいだから、一目見た時から気にはなっていたんだ。壊れてしまったのなら、新しいものを君に贈ろう」
この話の流れで考えるのなら、ガラスの中身が還らずの森の資源だと認識しているだろう。それがどんな力を持つかも知らずに、けれど世界の覇者にのし上がっていくためには、欲しいのだろう。
地形的に鎖国状態とは言っても、スピリュティアは本当に鎖国しているわけではない。国を滅ぼそうという悪意のあるものは精霊の加護のおかげで事前に知ることができるので、国境越えについては審査が甘い。当然、ウィザダネスも諜報員くらい送り込んでいるだろう。世界最高峰レベルの山脈さえ超えられれば、いくらでもスピリュティアに入れる。
スピリュティアは国土の南から東にかけてウィザダネスと接しているが、その国境には山脈が横たわっていた。
国の北側は還らずの森。西側は年に数日しか凪ぐことのない荒れ狂う海。天然の要塞に囲まれ、スピリュティアは今まで他国の侵略を逃れてきたのだ。それも、あと数年のことだろう。
近年のウィザダネスの技術革新はすごい。山脈を恐れなくなった時、軍事力を持たないスピリュティアはその名を歴史から消すだろう。
クララがウィザダネスに嫁ぐのは、最後の悪あがきだ。次期国王を花嫁として外に出すわけにはいかない。そして、負けがわかっている戦争を起こさないために、クララは自ら望んで生贄となった。
クララは静かな気持ちでフィルストに笑いかけた。
「贈り物は夫が正式に決まった時に、その方からいただきます」
「……まさか、断られるとは思いもしなかったな」
困ったように目じりを下げつつ、フィルストは弱弱しい笑みを浮かべた。相手に非があるとはけして言わないものの、罪悪感を抱いてしまいそうになる。天然なのではなく、計算済みだろう。だからこそ、クララは不敵に返す。
「どれほど有能な方でも、女心とはすぐにつかめるものではないのですよ」
「なるほど。参考になった。では装飾品ではなくてもいい。今何か欲しいものはないか? ……ああ、警戒しなくていい。これはほかの姫君にも聞いていることだ。故郷を離れて生活習慣も違い、何かと不便だろう。少しでも慰めになれば、と」
「どんなものでもご用意いただけるのですか?」
「わが国が手に入れられるものならば、どんなものでも」
「さすが帝国のお力ですね。ご安心を。難しいものではありません。今私が欲しいものはただ一つ。ラスター殿下からの、直接の謝罪です」
クララは、飛び切りの笑顔を見せた。