3 名乗る魔女
目の前に迫ったナイフと、十年前の魔獣の爪が重なった。
だがクララは、十年前の彼女とは違う。
本来この場にいるべき幼馴染のマシュリナの恋の落ちた瞬間までも思い出しながら、クララは反射的にナイフを蹴り上げていた。
長いスカートの裾がばさりと音をたてる。ナイフはきらきらと光を反射しながら宙を舞った。
かつての恩人であり、現在の剣の師匠でもあるビルドからお転婆はするなと何度も忠告を受けてはいたが仕方ない。身を守るのが最優先だ。
ナイフを弾かれたことに驚いている長身の男の腕を掴みぐいと引き寄せ、うつぶせに押し倒す。背中に膝を乗せて腕を逆方向にねじれば、「イタイイタイ」と訴える声が聞こえた。もちろんそれで力を緩めるほどクララも甘くはない。
顔を確かめてやろうとフードをはぐと、バチンいう魔術が解除される音ともに金色の髪がこぼれた。
それまでぽかんとした表情でクララの一人芝居を見ていたフィルストが、扉前に立つ衛兵を呼ぶ。
フードを外したことによって、目くらましの術が解けたのだ。彼の姿を見えないものにとっては、クララは変な行動をしているようにしか映らなかった。
部屋の外から衛兵が駆けつける。クララと、彼女が組み敷いている男を交互に見て、戸惑うようにフィルストに視線を向けた。
フィルストは深く息を吐きだしながら、首を振る。
「そこの愚弟が先に手を出した。姫君に何ら非はない」
愚弟? と首をかしげながら、クララは自分の膝の下にいる男を見下ろす。痛みに涙をうっすらと浮かべる目は、確かに金色だ。金髪金目。それはウィザダネス皇帝一家に顕著に出る特徴だ。太陽神の子孫だという彼らしか持たない色彩だ。今クララが押さえ込んでいる青年の髪はぼさぼさで、痛みで涙を浮かべている金色の目も情けなくて、到底皇帝に血を連ねるようには見えない。
フィルストは床に落ちているナイフを拾い上げ、三番目の皇子の傍らに立った。三番目の皇子から抵抗の意思を感じることがなかったので、クララはよける。皇子と知った以上、いつまでも組み敷いているのは失礼だろう。
立ち上がろうとするクララに、フィルストは手を差し伸べた。ありがたく手を添える。クララの手が触れた瞬間、フィルストの表情がピクリと動いた。剣を握る手だということがばれたのだろうか。知られたとしても、別にクララは構わない。大国の姫君ならいざ知らず、魔獣の危機を恐れる小国の姫君が自ら剣を握るのはままあることだから。
フィルストの表情に変化があったのは一瞬で、あとは先ほどの柔和な表情に戻っている。そのほほえみで、いったい何人の女性が勘違いすることか。そう思わせる甘い表情だった。
手を添えただけなのに、フィルストは軽く引っ張り上げただけでクララを立たせる。
立ち上がったクララは、そのまま数歩下がった。スカートの裾を踏んで転びそうになるが、何とかごまかす。
「まったく、ばかなことをしてくれたものだな、ラスター」
最後にあらわれた皇子を見下ろしながら、フィルストは冷たく言い放った。
クララから解放された皇子――ラスターは右肩をさすりながら体を起こした。片膝を立てて座り、挑発するように唇の端に笑みを浮かべる。
伸ばしているというよりは、切るのが面倒で放置していたというような、目にかかるほど長い前髪。襟足にかかる後ろ髪も長さがまちまちだ。まるで自分で切ったかのように。意志が強いを通り越して悪だくみしているのではないかと思うような鋭い目つき。三人が三人とも、確かに美形なのだが、このラスターだけは兄弟のわりにあまり似ていない。
「言っただろう? この縁談を最悪な方法でつぶすと」
低い声でラスターが言う。
ジークからも、この婚姻に納得していない気配を感じていたが、それ以上に納得していない人間がここにいた。今回の件は皇帝の勝手な申し出なのかもしれないが、せめて国内では意見を統一させてほしいものだとクララはあきれる。クララも納得してここに来たのではなく、自国のため、そして幼馴染のマシュリナのために仕方なく来たのだから。
げんなりとした思いで兄弟を見ていたクララは、穏やかなフィルストの表情が変化するのに気付いた。
太陽さえも凍らせそうな、凍てつく表情に。
――本気で殺すつもりだったのか。
眼だけでフィルストはラスターに問う。いや、実際にそんなことを言ったわけではないが、クララにはそう聞こえた気がしたのだ。
「さてね」
それに対し、おどけた口調でラスターは答える。なんともひょうひょうとしている。一瞬前まで、クララにナイフを向けていたとは思えない。
いや、ひょっとしたら向けていなかったのだろうか。
クララにナイフを向けていた彼からは殺意を感じなかった。だからクララは、ナイフが迫る直前までどう対応するべきかわからず、正しく動くことができなかったのだ。
「懲罰房に入れておけ。一晩反省しろ」
フィルストに命じられ、衛兵はラスターを連れていく。特に抵抗もせず、ラスターは衛兵に従った。俯いて連行されるラスターの横顔は、満足そうに笑っている。それを見て、クララはわずかに目を見開く。もしかすると、ラスターの目的はこうして衛兵にとらわれることだったのではないか。でもなんのために?
彼の姿が完全に消えるのを見届けてから、フィルストはクララに視線をよこした。
「弟が無茶なことをしてしまってすまなかった。もう少しで取り返しのつかないことになるところだった。本当にどう詫びればいいのか」
深く頭を下げて謝罪する。クララはしおらしい態度で首をふった。
「どうか頭をお上げください。見ての通り、怪我一つ負っていませんのでお気になさらずに。それよりもお見苦しいところをお見せしてしまってこちらこそ申し訳ありません」
相手の不手際を責めることも可能だったが、クララ自身もやりすぎたところがあるから、謝罪する。確かに彼らの弱みを握りたいが、この程度ではまだ足りない。貸しを一つ作ったつもりぐらいの余裕で応じる。
「いや、正直なところ、自衛してくれて助かった。ラスターは兄弟の中でも飛びぬけて魔力が強く、さらに扱いもうまいと来ている。あいつが使う魔術は破ることが難しいんだ。君はよほど魔術の素質があると見える」
フィルストは満面の笑みを浮かべた。近年、ウィザダネスは魔力産業に力を入れている。魔力を動力源にした機械を開発しているのだ。そのため、魔力の強い人間は歓迎される。今ので、クララは目をつけられてしまっただろうか。だがそれは、逆に好都合だった。
クララはわざとらしく、困ったような笑みを浮かべる。
「残念ながらわたくし、魔力は一切持っておりません。案外、それが原因でラスター殿下のお姿を見ることができたのかもしれませんね」
「魔力がない?」
にわかには信じがたいのか、フィルストは呆然とつぶやいた。アデラと雪花もクララの発言に面食らった顔をしている。フィルストの背後に立つ、存在が空気と化したジークも。
「精霊の加護を受けるということは、持っている魔力のすべてを精霊に捧げるということ。ゆえに精霊の加護を受けたものは魔力を失うのです」
精霊にいての文献は世界的にみても数が少ないため、加護を受けると魔力がなくなることは、あまり知られていないのかもしれない。
ウィザダネス帝国がスピリュティアの花嫁を欲した理由が、精霊の守護が欲しかったからだったとしたらたぶん当てが外れたことだろう。これから魔力産業を発展させていくつもりなら精霊の加護は余計だ。
もしそうなら、思った以上に早くクララの目的が達成できるかもしれない。
「では、改めましてわたくしの名を。クララ・シルワ・スピルテュデウス。スピリュティア精霊国の王の娘でございます。以後お見知りおきを」
クララは内心で不敵な笑みを浮かべ、うわべでは柔らく微笑み、恭しく淑女の礼を取った。