2 十年前の魔女
闇を引き裂くように、白銀の爪は振り下ろされた。
逃げに逃げ、けれど最終的には足がもつれて転んで、とうとうここまで追い詰められた。
クララは幼馴染に覆いかぶさり、少しでも彼女を守ろうとした。六歳の体では、たぶん盾にさえならなかっただろうけど。
背中に来るだろうはずの衝撃を待っても、いつまでたっても何も起きない。もしかしてもてあそばれているのだろうか。猫が追い詰めたネズミをいたぶるように。そう思っていると、幼馴染がクララの服を引っ張った。
クララは恐る恐る目を開ける。逃げる途中で作ったひっかき傷はあるし、銀色の髪は泥だらけだし、力の限り走ったので疲れ切った表情はしているものの、元気そうな幼馴染の顔が目の前にある。
「あれ」
そして彼女はクララの後方を指さす。その指す方向をクララは振り返った。
空を覆う分厚い雲のせいで、昼間なのにあたりは暗い。森の中であることも災いして、視界は狭かった。
それでも、その姿はよく見えた。先ほどまでクララたちを襲っていた魔獣の目には、深々と矢が刺さっている。その前に、鎧をまとった少年が剣を構えて立っていた。鎧に塗られた塗料の色は青。見習騎士を示すから、十ほど年上か。見習いではあるものの騎士団の一員であることに変わりはない。一気に心強さが増す。
クララは周囲を見回した。騎士団は通常複数で行動する。誰か、ここにクララと幼馴染が潜んでいることに気づいてはくれないか。クララはいい。せめて、幼馴染を安全な場所に連れて行ってほしかった。彼女はスピリュティアにとっては不可欠な存在だ。
けれど見習い騎士の彼のほかに姿は見えない。
クララと幼馴染の生死が、見習の彼の肩にかかっている。
意味がなかろうと少しでも災いから遠ざけようと幼馴染を背後にかばいながら、クララは息を潜めて成り行きを見守った。背中に張り付く幼馴染と自分の鼓動が、時に一つになり、時に離れ、そしてまた重なった。
あたりには血なまぐさい臭いが漂っている。その臭いが助けに入った彼のものではないことを祈りながら、クララは背後の幼馴染の手を握った。本当に、自分は彼女を守っているのか。幼馴染から守られているのは自分ではないのか。
誰かを助けに呼びに行くべきか。道なら知っている。だが、他にも魔獣はいないと言い切れるのか。普段は危険のない森だ。そもそもここからそう離れていないところにクララの住む小屋があるくらいだ。危険なわけがない。
だがいきなり空が暗くなり、魔獣が出現したのだ。森を包む空気もいつもと違う。
何より全力で走った後で、すぐには動けそうになかった。あとはただ、祈るのみ。券も握れず、魔法も使えない自分がただただ無力だった。力が欲しい。そう願った。
見習い騎士の剣は何度も火花を散らし、攻撃を防いでいる。時には反撃もしているようだったが、クララの目には追えなかった。わかるのは、彼のほうが押しているということだけ。鋭い爪を持つ魔獣との間に立つ背が、なんとも頼もしかった。
やがて、大きな岩が地面に転がり落ちるような轟音と揺れとともに、魔獣の巨体が倒れる。枯れかけの木が、巻き添えを食ってバキバキと音を立てた。大人の十倍はあろうかという魔獣がたった一人の少年によって倒されたのだ。
少年は剣を振ってこびりついた血を振り落とす。鞘に剣を収めると、ゆっくりこちらを振り返った。
何の天啓か、分厚かった雲が割れて太陽が顔を出した。天から降りてくる梯子のように、少年に向かって光が差す。
「君たち、大丈夫?」
特にこれと言って特徴のない顔だった。けれど、誰よりもたくましいように感じた。頬には魔獣の血がこびりついているが、それすらも勲章だった。
すとん。
クララはそんな音を聞いた気がした。
先ほどまで同じような鼓動を刻んでいた幼馴染の脈が、倍くらい早くなっている。
横を向けば、幼馴染の白い頬が紅潮し綺麗なエメラルドの目が極限まで潤んでいる。
クララの幼馴染、マシュリナが恋に落ちた瞬間だった。