10 魔法を放つ魔女
今回は虫表現があります
いつの間にか腕を組んで歩いている状態に、クララは居心地の悪さを感じていた。
「窓から出てきた君は、いったいどうやって帰るつもりだったんだ?」
クララの胸中など知らないフィルストが面白半分に聞いてくる。
「もちろん、窓から。フィルスト殿下さえ黙っていてくれれば、衛兵たちは処分を受けずに済みますよ」
「降りるよりも、登るほうが難しいと思うが」
「スピリュティアでもよくやっていましたから」
王城のマシュリナの部屋によく忍び込んでいた。正面から向かって行っても問題はないのだが、距離の問題で。規模の小さい城とはいえ、いちいち回り込むよりは壁をよじ登ったほうが早ければ、だれだってそうするというのがクララの主張だ。
明け方にはあった数人の使用人たちの姿が今は見当たらなかった。王宮敷地内の奥であり、かつ建物内部ではないせいか衛兵の姿もない。
フィルストとの仲の良さを見せつけたいのならかなり悔しい状況だが、幸いなことに誰にも見られないほうがクララには都合がいい。
来た道を戻る。温室のあるエリアから中庭のあるエリアに差し掛かった時、逆なでにされるようなぞわりとする気配がクララの背中を這い上った。
足元から不気味な黒い影が立ち上る。
「危ない!」
フィルストが鋭い声をあげながら、クララを突き飛ばした。
次の瞬間、直前までクララが立っていた場所で、黒い影が実体を持つ。
突き飛ばされたものの、転ぶことなく体勢を立て直したクララは、実体化した黒い影を見上げた。
身長は王宮の建物の三階ほど。オス山羊のようにぐるぐると巻いた角に、毛むくじゃらの胴体、節足動物のような八本の足を持っていた。昆虫のような口が、ぎちぎちと不快な音をたてる。
「魔獣?」
不快な気配に眉をひそめながら、クララは言葉をこぼした。これほど巨大な魔獣は見たのは、初めて魔獣に出会った時以来だ。普通の魔獣はせいぜい人の背の二倍ほどだ。
魔獣は実体化と同時に硬い足をフィルストの上にたたきつけていた。フィルストは転がりながら、魔獣の攻撃をよける。
土埃を上げながら、地面が大きくえぐれた。
まともに食らっていれば、骨の一、二本、軽く折れていただろう。
フィルストは転がった反動で立ち上がり、すらりと剣を抜いた。
同時に救難信号が打ちあがる。
なるほど、剣を抜くのは非常事態だからそれだけで術が発動するようになっているのかとクララは感心した。
衛兵が駆けつけるまで、何とかしのげればいいか。クララも応戦するつもりで軽く手を振って、掌に収まる小さな剣を取り出した。
まったく殺気を隠していないのに、魔獣をはさんでフィルストの反対側に立っていたクララに、魔獣は一切目を向けない。
狙いはフィルストのみか。
「鋼の精霊!」
掛け声とともに、剣が通常サイズに戻る。嫁入り道具として持ち込むには物騒だったので、剣の形のお守りとして荷物に入れていたものだ。
師匠から託された剣の腹に触れ、鋼の精霊にもう一度命令をする。
「攻撃範囲の建物の強化を。あの魔獣の属性も鋼だから」
中庭のあるエリア、つまり建物がすぐそばにある。これほど建物の間近で戦闘が始まっては、中にいる者たちに被害が出る。クララはまず、非戦闘員の安全を確保した。
蜘蛛型の魔獣は、ただがむしゃらに足踏みをしているだけだった。そのいくつかがフィルストに打ち下ろされている。初撃以外は券で受け止めていたフィルストだが、その表情がだんだんと苦しそうになっていった。
クララの攻撃も、甲殻の表面をうっすらと傷つけるだけだった。
徐々に衛兵たちが集まり、蜘蛛魔獣に攻撃を仕掛ける。傷一つ追わせることなく弾き飛ばされた。七本の足に阻まれ、フィルストを助けに行くことすらままならない。
クララは魔獣の腹の下に体を滑りこませ、死角からフィルストの前に踊り出る。振り下ろされる黒い足めがけて、剣を突き出した。
鋼同士がぶつかり合い、火花を散らす。もう一度剣を払うと、足は弾かれるようにのけぞった。が、他の七本の足が巨体をうまく支えているので、倒れることはない。
「水の精霊!」
左手のひらを上に向け、クララは水を呼び出した。近くから水が集まり、クララの頭上で小象ほどの球体を作る。
「刃!」
短い命令とともに左手を前に突き出すと、水はいくつかの円盤状の刃となり魔獣へと飛んでいく。いくつかは硬化させた建物にあたり弾けた。
命中した水刃は八本の足を切り落とす。低い地響きとともに魔獣の巨体が地面に落ちた。本体に傷は一つもついていない。
短くなった足をバタバタと動かす魔獣を見て、クララは顔をしかめた。
悔しいが、クララの手に負えるものではない。
「ラスターを連れてこい」
肩で大きく息をしながら、フィルストが言う。彼の前に立っていたクララは、背後を振り返った。
フィルストは右肩を抑え、額にびっしり脂汗をかいていた。
「しかし、殿下」
「一夜明けた、懲罰房から出すのに、問題はないはずだ。何よりこれは、ラスターの案件だ」
ぞくりと這い登ってくる悪寒に、クララは魔獣へと視線を戻す。
身動きの取れなくなった魔獣が、今度は口からシュルシュルと糸を吐き出した。
「早くしろ!」
フィルストの鋭い命令に、衛兵が慌てて王宮内に向かう。他の衛兵は持っている武器と未熟な魔術で何とか魔獣を食い止めようとする。
「殿下もお逃げになっては」
クララはフィルストをかばうように剣を構えながら言った。
「いや、たぶん今君の後ろにいるのが安全のようだ」
足をふらつかせながら、フィルストは答える。
クララがフィルストを抱えて逃げる一番良いのだろうが、この魔獣を相手にして守りつつ逃げるのは、クララにはやや荷が重い。
フィルストに向かって吐き出される糸を剣で切りつけながら、クララは魔獣の弱点を探した。やがて、魔獣の背中が波打っていることに気が付く。背中の部分は毛に追われていて見えないが、毛の下は柔らかいのだろうか。水の刃は毛に阻まれて、そこまで到達しなかった。
魔獣の後方で攻防を繰り広げていた衛兵の一人が、何とか背中に上りきる。魔力をまといつかせた剣をその背に突き立て、知りに向かって一気に引き裂いた。
「ダメ!」
糸を切り捨てながらクララは叫ぶが、もう遅い。
空気を切り裂くように魔獣が叫び声をあげたかと思うと、避けた部分がもこりと膨らんだ。そこから小さな魔獣が無数に飛び出す。
小さいといっても、人と同じくらいの大きさだ。幼獣であっても成獣と同じ形をした魔獣は、固い外殻を持つ。
クララは歯噛みした。水刃は使えない。衛兵たちを巻き添えにしてしまうから。
だが、このままでは魔獣が王宮を覆いつくしてしまう。
クララは決心し、左手を上げた。
「風の精霊! 突風!」
突然巻き起こった風は、クララが切り刻んだ蜘蛛の糸を舞い上げた。子魔獣と衛兵たちにべたべたと張り付いて、動きを封じていく。体の軽い衛兵たちは後方の建物に、体重が重くて風で巻き上げられなかった子魔獣は地面に。
大魔獣は悔しそうにキチキチと口を鳴らした。暗い複眼に、クララの姿が映し出される。排除すべきはクララと認識したようだ。胴体をくねらせ、クララに向かってくる。
魔獣が次に吐き出したのは、緑色の液体だった。地面に触れるとどろりと解ける。通り道にいた、自分の子さえも溶かしながら、魔獣はゆっくりクララに近づいてきた。
走れば逃げられる速度だった。標的がクララに代わった今、フィルストを放置していても問題はないだろう。だがクララは逃げずに、魔獣と向かい合った。
倒さねばならない。
これと同じタイプの魔獣が、いつスピリュティアに現れるかわからない。ここで確実に仕留める方法を見つけておかなくてはいけない。
眼を見開き、クララは剣を構える。
そのクララの横を金の光が奔った。矢のように飛んだ光は、やすやすと魔獣に突き刺さる。
魔獣の断末魔が空気を揺るがした。
可聴域をはるかに超えるような音に、魔獣に集中していたクララでさえ、剣を落として耳を抑える。
やがて、魔獣はぴたりと動きを止めた。
クララは、矢が放たれたほうに視線を向けた。苦戦など何一つしていないのに、クララよりもよれよれの恰好をしたラスターが立っていた。肩に担いているのは、弓矢ではなく金に光る剣だ。
「ぼさっとするな。まだ終わっていないぞ」
ラスターはそういって、地面に張り付けられた子魔獣を顎で指す。クララは足もとに落ちていた剣を拾い上げ、子魔獣に向かった。光の矢がそうしたように、口から剣を差し込み、体内の核をつぶしていく。
ラスターと協力してすべての魔獣を倒し、壁に貼り付けたままの衛兵を助け出すころには、太陽が一番高い位置に来ていた。