遅刻者の試験
なんだ。何か音が聞こえたような。近くに置いてあるはずの時計を手探りに押す。音がやんだ。目を開くと急激に頭が追い付いてくる。
「あぁ……朝か……」
まだうっすら寒い外気に気づき布団から這い出る難しさを復習し、布団の中で漂う。やることもないので再び目を閉じる。再び寝そうな状況に気づいて、それが可能かどうか時計を見つつ今日の予定を思いだす。四月九日月曜日、六時半。残念ながらそんな時間はないようだ。
昨日、日曜日などお構いなしに春休みの終了を宣言された。これから始まる新学年を乗り越え、実りあるものとするように、などとごちゃごちゃ言われ、将来への希望をドープされた僕は、新しい担任とクラス割の書かれた名簿を確認し、多少見覚えのあるクラスメイトとともに新たな教室に入り、新たな番号と新たな席を割りあてられた。
僕の学校は少子化の進む世間とは対称的な、いまどき珍しいマンモス校だ。一学年十クラス、一クラスあたり約五十人の、三学年合わせて千五百人という大所帯である。少子化のせいで生徒の集中が起きているのか知らないが、とにかく人が多すぎて同学年でも六割方は卒業までに会うことはない。その結果毎年行われるクラス替えでは、知っている人と再びクラスメイトになることはほとんどなく、よくて廊下で見た覚えがある程度、だいたいは初対面となる。
僕も例にもれず去年の同級生とはほとんど分かれてしまったので、近くの席の知らない人と探り探りの会話をし、友人の輪を広げていた。周りを見渡すと、 もうすでにあちこちで小さなまとまりができつつあった。ここの生徒の特長なのか初対面でも臆せず話しかける人が多い。実際そうしないと友達が周りから消えていくことになるので当然かもしれないが、そのおかげで気まずい感覚は四月のうちに大体なくなるらしい。
大体一通り話して話題が尽きそうになったところで、タイミングよく新しい担任が入ってきた。この学校は生徒数が多いだけに教員数も多く、会ったことのない先生も結構いる。今年の担任は去年他のクラスの担任をやっていたため名前は聞いたことがあったが、授業を受けたことはなかったためほとんど知らない先生だった。
先生からたいへん聞き覚えのある立派な御高説が始まった。しばらく聞いていたが、飽きてきたので窓の外をぼんやり見だした。廊下越しながらも二階から見える空はよく晴れており、雲が泳いでいくのがよく見える。ふと校門の方を見下ろすと新しい後輩たちがぞろぞろと出ていくところだ。僕らよりも早く終わったらしい。人数は多いのに離れているせいか、間隔が開いているせいかまったく声は聞こえない。
気づいたら担任の話は終わっていた。黒板に書かれた唯一の有意義な情報は恒例となっている休み明けのテストの通知くらいのものだった。それも時間と科目割程度のたかがしれたものだ。
担任の話が終わると翌日の試験のためにすぐに解散となった。聞き漏らしの無いように念のため担任の話を周囲の人に確認し廊下に出る。他のクラスを見るとまだどこも終わっていないようだ。
「早く終わっただけましなのかな」
小さくつぶやき、廊下の窓から改めて校門の方を見る。彼らをしばらく眺めた後、遠くのほうの教室から人が出てき始めたので、僕も階段を下りて彼らに紛れていった。
まだ眠い頭でゆっくりと思いだす。こんなことをしている場合ではないのだけれど、四月というのにまだ寒いことに加え、試験ということで憂鬱な朝だから、なかなか起きられない。どうやって起きるか頭の中でうとうと模索しているうちに母の呼ぶ声が聞こえてくる。その声を手掛かりに布団から出て制服に着替える。居間に出て朝食をとる。ふと時計を見ると、もう遅刻しそうな時間となっていたので、慌てて食べ、鞄に筆箱と机上の参考書を投げ込み駆け出す。母が何か言ってたが、聞き取ってる場合ではない。
家を出た瞬間に母の言いたかったことが分かった。雪だ。年度始めというのに雪が降っている。今開けたばかりのドアが閉まらないうちに、また開けて傘を取り出して家を出る。少し足を滑らせないように気を付けながら駅まで急いだ。
休み明けの弱った体にはつらいランニングを終えて、少し息が上がったところで駅に着いた。電車がいつ来るか調べようと袖を少し引き、腕時計を出す。外気に触れて腕が少しひんやりとする。
「あれ、無い」
時間を知ろうと目をやった手首には何もついてなかった。思い返してみると朝着けた記憶がない。どうやら急いで出たときに忘れてしまったようだ。
「試験だというのに時計を忘れるとは……」
仕方がない。家に戻る時間なんてないので諦める。教室にも時計はかかってるから大丈夫だろう。そう思って、駅の時計を見る。えっと次の電車は……あれ? もうだいぶ過ぎてるな。次に来る電車は三十分ほど前に出ているはずだ。不思議に思ってあたりを見渡す。よく見るとなにやらいつもより人が多い気がする。何かあったんだろうか。周囲を見て原因を探っていると、構内放送がかかった。
「現在、雪の影響で一部電車に大幅な遅れがでております」
「遅延証明書は改札わきの職員から配布します」
母が言っていたのはこっちのことだったかな? などと思いながら、改札を通り抜けてプラットホームまで歩く。少し待って来た電車は当然満員で、どうせ遅れるならと思い何本も飛ばして空いてきた電車に乗って学校に行った。
学校に着くと、当然試験中だったので遅延証明書をみせることもなく、別室に送られた。どうせ雪なんだからもう少しゆっくり来たらよかったな、なんて思って大教室に入る。ここは一学年全員が入れるサイズの教室で、めったなことがないと入ることがない。
入って見ると他クラス・他学年の生徒がばらばらの席に少し離れて座って静かに試験に取り組んでいる。遅刻者に対して教室がだいぶ大きいせいでスカスカだ。昨日見たようなやつ、見覚えのある先輩、明らかに慣れてない後輩。可哀そうに、入学早々試験に加えて、雪まで降られて。周りの色んな生徒を見ながら、黒板の指示に従って空いてる席を適当に選んで座る。少し遠くに去年のクラスメイトが何人か見える。鞄を置いたらまた立って、前の先生のところに行き、昨日貰った新しい学年と番号を伝える。先生から僕の受けるべき試験をもらう。座席を聞かれたが意味が分からず、少し詰まって答えると、座席表に時間がメモされる。なるほどこうやって時間を管理しているのかと感心していると試験開始を伝えられる。とりあえず自分の席にもどって昨日聞いていた試験を解き始める。周りを見ると何人もの先生がさっきの座席表から生徒の時間をみて個別に答案の回収をしているようだ。
「試験時間はみんなばらばらというわけね」
じゃあ時間には気を付けないとなぁ、なんてなんとなく思いながら僕は試験を始める。
たいして準備をしてなかったが、それなりに持てる力を発揮し、あらかた問題を片付ける。残る問題はどうしたってあんまりどうこうなりそうにないなぁと思ったところで残り時間が気になる。今日は時計を家に忘れてきてしまったので黒板の方に視線を向ける。怪しまれない程度に目線を動かし時計を探す。ない。普段の教室と違い、大教室には時計は掛かっていないようだ。まずい! 時間がわからない! 周りを見てみると、時計を机上に置いてる人ばかりだ。まぁ試験だからそうだよねと思いつつ、一瞬借りられないかなと文字盤を見つめるが、離れているせいで時間はわからない。それ以前に、問題をもらったときに伝えられた試験時間を忘れてしまったから、時計があってもいつまで試験を続けられるかわからない。
「いや~まいったなぁ」
小声で軽くつぶやくと本当に笑えてくる。年度初めでわりかしどうでもいい試験だからだろうけど、こんなアクシデントは面白い。
開き直って、のんびりと問題を見つつ、ちらちら周りの様子を見てみる。どうでもいいとは言ったがさすがにカンニング扱いされるのは面倒なので、怪しまれないように注意しながら周りを見る。
先輩も後輩も同級生もみんな黙々と試験を続けている。この大教室で、これだけの生徒の中で、時計が無くて試験を終えてるのは僕だけかと思うと、やはり面白い。自分だけが深く沈みこんだ水の中から、顔を出して息をしているような感覚。まわりのみんなはまだ潜っている。苦しそうな彼らを後目にさっさと上がりたいが、救助隊が来るまではこの水から出れない。
冷えないように体を動かしたくて、きょろきょろする。斜め前にどこかで見た先輩がいる。どこだったか……思い出した。図書館だ。多分図書委員なんだろう。貸出手続きを何回かしてもらった気がする。別に話したりしたことはないが、妙な親近感がわいたので少し悪趣味な気もするがしばらく観察することにしよう。
先輩は試験がよっぽど大変なのか、なかなか苦しそうに見える。確かに僕のようにわりかしどうでもいい試験じゃないだろうからハードなんだろう。さっきから何度も時計を確認している。もうそろそろ終了なのだろうか。ちょっとうらやましい。満足いく答案ができる前に試験が終わるのは、とくに後ろから見てわかるほど焦るような、大切な試験だから、一層つらいんだろうけど。
なんて勝手に同情していると、突然先輩は答案に消しゴムをかけ始める。もう時間はそんなに残ってなさそうなのに、やけになったか、賭けにでもでたのか。試験で賭けに出た時点でやけになってる気もするが。あっ、腕が時計にあたって時計が落ちる。先輩は全くそれを気にしない。一気に消し終えて、一心不乱に答案を書きなぐっている。とてつもない速度でなにか書いている。なんの科目をやってるか知らないが結構な量を改めるつもりのようだ。間に合うだろうか。
少し心配しながら見つめていると、コツコツと足音が聞こえてくる。顔を上げると先生が前から近づいてきた。先生も大教室で試験監督するとは思わなかっただろう。靴と床の相性が悪いのか、聞きなれない足音が近づくにつれてよく聞こえてくる。机間巡視だと思いたかったが、先輩の席の近くに立ち、腕時計をみながら時間を確認する。まだ少し時間があるのか答案は回収しない。目の前に死神が見えるのなかなかに嫌な光景だろう。
先輩は必死に答案を作っているようだったが、間に合うことはなく、無情にも先生に終了を宣告され、答案は回収されていった。先輩はもう試験がないのか、鞄に筆箱をしまい、落としていた時計を拾って、教室から出ていった。後ろ側に座っているのでその表情は見えなかった。
先輩に続いて遠くでもだれかが答案を回収された。もういい時間なんだろう。電車の遅延だから、みんな似たような便で来ていたのかもしれない。学年が一緒だったら同じ試験時間だから、意外と似たような時間に終わりが来るのかもしれない。
先輩は多分僕より前からいたから、僕の試験終了はもう少し先かな。周りの同級生を見ていればなんとなくタイミングはつかめるだろう。まぁ試験をすでに降りている僕にとっては大した意味を持たないが。
何人か続けて回収されてみんな退出していくので、ドアのあたりは少しにぎやかだ。廊下を歩く試験明けの笑い声も聞こえてくる。先生が注意する声も一瞬聞こえる。
なんだか随分と長いことにぎやかだなぁと思っていると、先輩の座っていた席に別の生徒が座った。後輩だろうか。今から試験というのは大変だろうに。科目が複数あったのかな。色々と想像を巡らせるが、よくわからない。彼もみなと同じように先生のところに行き、試験をもらってきて解き始めている。こんなに遅くなることもあるのか……
そう思っているうちにまた遠くのほうでコツコツと足音がなる。離れたところにいる同級生のところに行き答案を回収していた。彼は満足いく答案ができたのかな。
あちこちから足音が聞こえてきて、答案を回収する先生とこれから帰る生徒たちで足音は大きくなる。
おそらく僕よりも早く来た同級生たちが答案を回収されているのだろう。僕ももうそろそろだろう。
もう足音は聞き分けられるほど少なくなかった。僕はこちらに向かってくる足音を楽しみに待っていた。
作者的には「人の死とか人生の終わりってこんな感じじゃないかな?」ってつもりで書きました.
先輩のようにまだやりたいことがあっても,それを終えることができない人もいれば,あるいは主人公のようにもうやることもなく,時間を持て余して早く終わらないかなと思っている人もいる.
時間制限のわからない試験みたいに突然終わる.そんな感じなのかなと思い書きました.
投稿前に読んでもらった方から「主人公がどういう人かよくわからない」という質問を頂いたので,補足しておきます.
主人公は試験に間に合おうと急いで駅に向かう割に,遅れるとわかるとゆっくり行こうとするなど,真面目なのか,不真面目なのかよくわからないという質問でした.
簡単に言うと主人公は人目を気にするというか,自分を正当化する人だと思います.彼は「色々手を尽くしたけど,仕方ないね」みたいな状況にしたがる人で,始めから手を抜いていくと後ろめたい.かといってそれほどやる気もない.そこで言い訳を用意するかのようにやってみて,できないとなったらすぐに手を引くのだと思います.
作者的にはそういう人なんだと思います.
他にも感想・質問などありましたら,ご連絡ください.時間はかかるかもしれませんができる限り返答したいと思います.