絶体絶命
◇
月神が言うには、現在一人、アーラの家出少女がいるらしい。最近アイテールの首都の聖堂で、「娘が帰ってくるように」とよく祈られており、月神自身も少し気になることがあるという。
そこで、その少女にアイテールの案内をさせれば良い。月神のお願いと言えば、さすがに断らないだろう。
それはお願いではなく、命令ではないだろうか。そして無理矢理が過ぎないか。
そう疑問には思ったが、他にあてはない。司教曰く、アイテールに行くだけなら手間はかからないが、案内がいるならそれに越したことはないだろう、とのことだった。空中にあるのに手間がかからないとはこれ如何に。この世界に飛行機があるとは思えないのだが。
その後、ラナを出て、少女がいるという郊外の森の中にある村に向かっていたのだが――。
走りながら後ろを振り返る。熊型魔獣達との距離は少しずつ縮まっていた。
目的地は先述したようにまだまだ先である。距離が縮まっている以上、やはり振り切ることは不可能だ。
「ケイタ。先に、行って」
並走するシフォンが提案してくる。
シフォンの先ほどの発言を思い返す。こちらを守りながら戦うことは無理。裏を返せば、シフォン一人なら、戦える、かもしれない。
すなわち、俺が逃げ続け、シフォンは熊型魔獣を相手にする。二人が生き残る可能性はで最も高いのは、その選択だ。少なくともこのまま二人並んで逃げていれば、シフォンはともかく、間違いなく俺は死ぬ。
しかし、俺は逡巡してしまう。
原因は犬に食わせたはずのプライドと、シフォンへの心配。そして、そもそも足手まといになりたくないために力を欲したのに、この状況は何だ――という遣る瀬無さ。
後から考えれば酷いものだ。この思考によって、余計に足手まといになっている。
「ケイタ。返事を」
シフォンが急かす。熊との距離はより縮まっている。迷う時間はない。
決断前にもう一度振り返る。魔獣は2体。やはり、より距離が縮まって――。
「――残りの2体はどこいった!?」
疑問を口にした瞬間、追いかけてくる熊の両方が吠える。全身に悪寒が走る。前方に何かを感じたと同時に、シフォンが顔色を変えて叫ぶ。
「ケイタ! 避けて!」
言われるまでもなく、右――彼女とは逆の方向に跳んだ。次の瞬間には、そのまま走っていれば着地していたであろう場所に、それぞれ1本の土の棘が突き立っていた。
着地等は考えずの行動だったため、地面に頭から突っ込む。痛みに呻くがしかし、それを気にしている場合ではない。こんなものが刺さったら、今感じた痛みの比にはならない。
「なんだよ、これは!」
「土属性の魔術! 嘘でしょ……あいつら、魔術使ってる!」
シフォンの説明と同時に、自身が倒れている地面に再び魔力の感覚。咄嗟に横に転がれば、そこにも土の棘が生える。
視界の端で、彼女がこちらに駆け寄ろうとするのが見える。しかし、それも新たに発生した土の棘によって牽制されてしまう。そして、その背後には、魔獣が森から飛び出してきていた。居なくなっていたうちの1体だ。
「シフォン!――後ろ!」
「――っ! ……”燃え盛るは炎の柱”!」
シフォンは振り向きざまに飛び退り、以前みた魔術を即座に発動する。 シフォンの目の前に顕現するのは炎の柱。着地点に発動された熊型魔獣は回避することもできず絶命する。
「前は呪文を唱えてなかったか?」と、場違いなものの気になって尋ねれば、「今のは詠唱破棄……成功してよかった」と答えが返ってきた。どうやら博打だったらしい。失敗しなくてよかった。
しかし。
「やられた……回り込まれてる」
シフォンの言う通り、向かおうとしていた方向には既に熊が一体。おそらく、居なくなっていたもう一体だ。そして後方にも熊が2体。囲むという知能はあったらしい。何故最初からしなかったのかは疑問だ。いや、しないでくれて本当によかったのだが。
「戦うしかないってことか?」
立ち上がりながら、返事を返す。聖堂で魔力強化の一通りの手ほどきの時に、筋は良いと評価は受けた。しかし俺は確実に戦力外だ。それにもっと、重要な問題がある。
「土の棘から逃げながら戦うとか、洒落になってないぞ」
「……魔術を使えるのは、多分あの2体」
「……そうだな」
あの熊たちが2体吠えて、土の棘が2本。まだ魔術の知識はほとんどないが、あの2体がそれぞれ1本の土棘を発生させたのだろう。
「で、どうする?」
「ケイタは、森の中に逃げて。私が熊の相手をする」
今いる道は整備されていても、その左右は手つかずの森。確かに、逃げ込むにはそこしかない。だが、右も左も分からない森の中に逃げ込んで、逃げ切れるとは思えない。
「3体なら、なんとかなるかも。少なくとも、魔術を使うあの2体は足止めするから」
「……それだと1体は、俺の方に来てないかな?」
「死ぬ気で逃げて。必ず、私が後で追いかけるから」
まさか人生の中で、死ぬ気という言葉が、本当に命に関わる場面で使われるとは思ってなかった。
「火柱や、さっきの火の壁でこいつらを倒せないのか?」
「これだけ近いと……ダメ。詠唱している間にケイタが襲われちゃう」
「さいですか」
そう答えた瞬間、再び魔獣達が吠え、足元に再び魔力の感覚。シフォンと反対方向に飛べば、成人男性の脳天まで貫ける程の土の棘が生える。
「ケイタ、逃げて!」
「わかってる!」
覚悟を決めろ、東雲慧太。
シフォンが炎を纏いながら魔獣達に突っ込むのを横目に、一目散へと森の中へ飛び込む。
シフォンの宣言通り、追いかけてくるのは一体。
魔獣との絶望的な鬼ごっこ、その第2弾が始まった。
◇
◆
ケイタを逃して早数分。私と魔獣の戦いは、佳境にさしかかっていた。
「これで――どう!?」
魔獣が私を狙って生やした無数の棘。その一つを利用して、魔獣の正面から、背中へと飛び乗る。飛び越えざまにその顔面を両手で掴み、出力最大の炎の属性付与。瞬く間に火は燃え移り、魔獣を火だるまに変える。
と思えば、すぐに魔力の感覚。どこから――とすぐに気づいて顔を反らせば、魔獣を貫いて土の棘が顔を掠めた。
もう一体の魔獣の仕業だ。あいつ、仲間ごと私を貫こうとしたんだ。
「仲間を何だと思ってるの……」
背から飛び降り、そいつを睨みつける。睨まれた魔獣は、一歩後退した。おそらく、群れのリーダーは今しとめたこいつ。一番身体が大きいし、何より、目の前の一体の魔獣が身を挺してかばっていた。
リーダーがやられて(とどめはこいつだけれど)1対1なら、こいつに負ける要素はない。
魔術を使ってくることには驚いたけど、分かった今では避けることは難しくない。こいつらの使う魔術は、発動までの時間が長すぎる。それこそ、素人のケイタが避けられるほどに。
それを理解していないのか、それとも理解していてもそれしかできないのか、魔獣は再び私の足元に魔術を発動する。飛んで避けた瞬間、魔獣は背を向けて逃げ出した。
「逃がさない! ――”放て炎の魔弾”」
炎の球を高速で飛ばす魔術――全属性にある(らしい)初級の魔弾程度なら私でも詠唱破棄には失敗しない。
威力はそれほどでもないけれど、散々私の炎を味合わせた相手。さらに満身創痍逃げ腰の相手ならこれでも十分な足止めになる。
尻を焼かれた魔獣が苦悶の声を上げて止まる。そして、それは狙いを定めるのに十分な時間。
火柱で魔獣を焼きはらう。
これで、足止めした二体の魔獣は倒した。”突発変異型”の魔獣にしては、妙に手強い相手だったと思う。そもそも、魔術を扱う”突発変異型”なんて聞いたことがない。
整備されていたはずの道は、既に魔獣が好き放題に生やした棘で見るも無残な姿になった。これって私のせいなのかな。あとで考えよう。
――早く、ケイタを助けなくちゃ。
休んでいる暇はない。
熊がケイタを追いかけまわす音、そして魔獣が通って行った跡。それを頼りに、彼の元へ駆ける。どうしようもなかったから、賭けではあったけれど、彼はきっと、まだ生きてる。
けれど、それも時間の問題。ケイタはまだ、魔力強化に慣れていない。
聖堂を出る前と出た後、一応魔力強化をして動く練習はした。身体能力が上がるとはいえ、コツを掴めば難しいことじゃない。弱い魔力強化なら、より簡単になる。そして、ケイタは筋がよかった。ラフマニノフ司教が、密かに驚くほどに。
でも、魔力強化の罠は慣れてきた時にこそ、牙を向く。
上昇した身体能力と、それを制御する集中力。簡単とはいえ、いつもと違う身体能力を制御するなら、意識する必要がある。魔力強化を使い始めた子たちは、ケガをしながらそれを学んでいく。私だってそうだった。
けれどケイタはそんな経験なんてない。彼が、もしも集中力を切らしてしまったなら――。
「お願い。無事でいて――!」
◆
◇
――さて、俺がシフォンから言われたことは「必死で逃げて」だった。無論、必死で逃げていた。顔に枝や得体の知れない虫が激突することも構わずに。
しかし、ここは整備などされていない足場の悪い森だ。そして森を駆けるという行為は、当然熊の方が慣れている。何より、身体能力は魔力強化込みでも奴の方が高い。
ようするに――
「Gaaaaa!」
「ひっ!」
「Groooo!」
「うわっ!」
――追い付かれて命がけで回避に徹していた。
ベアクローをしゃがんで、次の一撃に対しては横に飛び込み――熊は全く手を緩めない。シフォンとの距離はいっさい考えず、ただひたすらに、避けて、避けて、避けていた。魔力強化の恩恵か、意外と避けられる。それとも隠れた才能だろうか。帰ったらその道を目指すのもありかもしれない――帰れたら、だが。
シフォンは「必ず、私が後で追いかけるから」と言った。彼女ならきっと助けに来てくれる。信じて待つしかない。
木を陰に攻撃を防ぎ、時にはそれを目くらましとして急激に方向を変え、とにかく逃げ、避ける。お願いだから、早く助けに来てくれ。
――いや、本当にそれでいいのか?
唐突に不安がよぎる。シフォンがいると思しき方向からは、微かに熊の吠える声や戦闘の音が聞こえる。つまり、まだ彼女は無事だ。
――否。注目すべきところはそこではない。
「まだ戦ってるのか……!」
つまり、まだ彼女は助けに来れない。そもそも、倒し切ったとして、彼女はすぐに来れるのだろうか。そもそもどれだけ離れた? 彼女は追ってこれるのか?
「――Gaa!」
「――っ!」
間一髪で、地面に叩きつけられる一撃を避ける。
熊の動きが明らかに鋭くなっている。一撃必殺だっただろう大振りから、多少威力は控え目(それでも多分死ぬが)でも正確な攻撃に代わってきている。
今の一撃も間一髪。おそらく、当てられるまでに時間はあるまい。
やるしかないのか、と独りごちる。
月神からもらった腕輪もある。あの時とは、シフォンと出会ったときとは違うはず――ならば。
次の一撃を横によけ、木を陰に方向を転換。熊のがら空きの横顔が、そこにある。
「これでも――食らえ!」
その横顔にテレフォンパンチ。魔力強化を乗せた成人近い(いや、この世界だと成人か)の男性の殴打。華奢に見えるシフォンでさえ、熊を吹っ飛ばす威力を発揮した。であれば、この殴打はそれに等しい、いや、それ以上の威力を発揮するはず――だった。
「……嘘だろ?」
渾身のパンチ。それは熊の顔を反対方向に向けるだけで終わった。首が折れてくれればよかったのに、そんな様子はない。熊はすぐに振り向き、こちらをより一層、敵意のこもった目で睨んだ。
なぜ? どうして? まさか月神のやつ、ケチったのか?――そんな思考に一瞬支配されてしまう。そして、それによって生じた集中力の途切れは、決定的な命取りになった。
熊の怒りのこもった大振り。それは避ける。しかし、勢いがありすぎた。受け身を取れずに、したたかに尻を打つ。それだけでは止まらず、ごろごろと転がる。
急いで体勢を立て直し起き上がって見れば、熊が視界の中にいない。見回してもどこにもいない。いったいどこに。まさか逃げた?
「ケイタ――」
シフォンの声。視界の端にシフォンが駆けてくる姿が映る。もしかして、向こうの熊は倒しきったのだろうか。ならばもう安心だ――。
「――避けて!」
「え」
シフォンの絶叫の直後、右からとてつもない衝撃。逃げたわけがなかった。熊はわざわざ、視界から外れ、身を隠した上で、突進してきていたのだ。
「ぷけっ」等という間抜けな声が、口から洩れる。体がくの字に曲がりながら、吹き飛ばされる。そして勢いよく地面にたたきつけられ、それで止まることはなく、体中を打ちつけながら転がり、木へと叩きつけられた。
「ぎ、あ」
痛い――そんな言葉すら言えないほどに痛い。骨や内臓が無事かも分からない。視界はぼんやりとし、三半規管がやられて、立つことすらできない。
そして、視界が回復したと同時に、シフォンの悲鳴が上がる。
「――あ」
それは真っ赤な口を広げて、頭蓋を噛み砕かんと跳びかかってきていた。
シフォンは遠く、熊の攻撃は止められない。
俺では熊を傷つけることすら叶わない。そもそも、動けない。
つまり――認めたくないが、今度こそ死ぬ。
◇
◆
慌てて魔弾を放つけれど、当たっても魔獣は止まらない。まるでケイタだけは必ず仕留めるとでもいうように。
この距離じゃ追い付けない。火柱の詠唱破棄を試みたけど――失敗して不発に終わった。
「やめて!」
不安だったアルビテルに、一緒についてきてくれると言ってくれた彼を。
二度と嘘をつかないと、私に約束してくれた彼を。
「お願い、誰か――」
助けて。
◆




