東雲慧太は決められない
この世界で無事に1年過ごせる自信など無い。たとえ無事に元の世界に帰っても、留年生となり、友人先輩後輩から生暖かい目で見守られる悲しい学生生活が待っている――そんな未来に絶望しかけたものの、次の彼女の言葉によって、後者の心配は霧散霧消した。
「あ。言い忘れてたけど、1年、いや、それ以上の時間がかかっても、旅が終われば元の時間に返してあげるよ。身体年齢の調整もしてあげる。つまり、ちゃんと元の生活に戻れるから安心してよ」
その意外な言葉に、うつむいていた顔を思わず上げる。
「それ、本当か?」
「神を名乗るんだから、それくらいできるよ。どう? コンビニの前で言ったように、ある程度の旅費も負担してあげる。そして旅行期間がいくら長くても、元の生活に支障はない。悪くない、むしろ、格別の好条件じゃないかな?」
シフォンが「コンビニって何?」とつぶやいているが、それは今は放っておこう。
月神の言う条件は、"旅行"としては破格の条件だ。金銭的負担も、時間の制約すらない、まさに夢のような条件。そもそも、帰れない時点で、採れる選択肢はアルビテル――シフォンと共に旅に出るか、もしくは出ないかの、いずれかのみ。そして、俺をアルビテルに参加させたい月神が、旅を拒んだ場合、生活を保障するとは思えない。下手をすれば、神に背く異端者として扱われかねない。
つまり、初めから選択肢は一つしかない。――だが。
「……一日だけ、返事を待ってもらえないか。色々と整理したいんだ」
どうやらこの返事は予想外だったらしい。月神は明らかに驚いていた。
「嘘でしょ。まだ悩むの?」
「魔術や魔獣の存在する異世界でいきなり旅しろって言われても、いきなり決心はつかないな」
他にもいくつか、理由はあるが。
「そう? むしろ、その要素は、旅をする動機になりそうだと思ったんだけどね……。異世界転生ってジャンル、君のいた世界では最近結構流行ってたじゃないか」
「実際当事者になって喜ぶのは、人間関係四面楚歌のぼっちか、お先真っ暗のニートくらいだろうな」
俺はあの世界の人間関係に満足している。魔術といった未知のものに興味がないわけではないが、全てを捨ててこちらで暮らす理由などない。
「まあ。確かにそうだね。それに、君魔獣に襲われかけたんだっけ。でもさ、君の世界には、銃器類を持つことが当たり前の国や、猛獣が闊歩する国だってあるじゃないか。それが、魔術や魔獣に代わっただけだと思うけど……まあいいや。明日、いい返事がもらえることを期待するよ。ラフマニノフ司教。明日も聖堂、空けておいてもらえるかな?」
月神に尋ねられると、司教は「仰せのままに」と答える。
神様とはいえ、白いワンピースを着た少女に、ローブを着たダンディな司教がこのような言葉を使っているのは、中々滑稽だ。もしも部外者であれば、確実に吹き出していた。
これで一応話はまとまった。要求を月神が受け入れてくれた以上、おそらく続きは明日になるだろう。
そう思ったものの、俺は重要なことを1つ聞き忘れていた。
「月神。なんで俺を選んだ?」
俺は社会制度に精通しているわけでもなく、一からロボットを組み立てられるほど、技術を習得している訳でもない。
この世界の間違い――どんな問題があるのかは知らないが、それらを、ただ見つけ出すだけでも、もっと適性のある人がいたはずだ。
だが月神の返答は拍子抜けするものだった。
「君である必要? ウォルタスさんと同じく、君にも適性があったからだけど、君を選んだ基準はそこまで厳しいものじゃない。あの世界の人であるだけで、ほとんどの条件はクリアしていたんだから。でも、一番の理由は、やっぱり、君が旅行をしたいって言ったから、だよね。絶対に君でなければいけなかった理由は、特にないよ」
「……ああ、そうですか」
やはりお祓いは必要なようだ。神社のお祓いは、異教の神も払ってくれるのだろうか。
「……そういえば、俺とシフォンが山の中であったのは、偶然か?」
1つで済ますつもりだったが、急に気になったので聞いてみる。
シフォンはアルビテルという使命を背負っていた。そして、この世界に飛ばされた俺は、山の中を歩いていて、偶然行き倒れているシフォンを見つけた。月神は元々、俺をこの聖堂に召喚するつもりだったと言った。だが、逆にそれが失敗した結果、俺はシフォンと出会っている。
本当に、これは偶然なのだろうか。まるで意図しか感じない。
けれど、月神はそんな疑惑をよそに即答した。
「うん。偶然」
「……本当か?」
「本当だよ。でも、おかげで助かったよ。ウォルタスさんが君と出会わなければ、魔力切れで体力が無いままだったら、魔獣に襲われて命がなかっただろうからね。逆も同じ。君がウォルタスさんと出会わなければ、生きていなかっただろうね。件の魔獣に食べられて。
改めて君に、お礼を言うよ。ありがとう」
「ああ……どういたしまして」
事実は小説より奇なりとは、このことか。
「今日のお話はここまでにしておこうか。君の決心がつかないと、話が進まないし。それじゃあ、また明日」
そう言うと、月神は再び蒼い魔法陣を展開して、どこかに消えた。
「……終わり方が唐突過ぎないか?」
「……うん。私もそう思う」
思わず漏らした感想に、シフォンが同意した。
あまりに唐突過ぎて、話が終わった実感がない。あの少女、マイペースすぎないだろうか。それとも、その性格は神故なのか。
「全く……観光シーズンであるのに、聖堂を閉めなければいけない私の身にもなってくださいよ。しかも、明日もですか」
ラフマニノフ司教が、深い溜息をついている。どうやら俺達のあずかり知らぬところで、中々苦労をしているらしい。ほとんどが月神のせいだが、明日に延びたのは、明らかに俺のせいだ。
「なんか、すみません」と謝ると、司教は恨めし気な視線をこちらに向けた。
「本当ですよ。今日中に話を終わらせてくれればよかったのに。……しかし、あなたも被害者ですもんね。いくら気まぐれとはいえ、月神様も少しを自重を――」
「僕がどうかした?」
「――え?」
あろうことか、自らの宗教の主神に対する愚痴を吐き始めた司教。その後ろに、先ほど話を終わらせたはずの月神が、何故か再び現れていた。
ああ、司教の顔が面白いくらいに青ざめていく。
「つ、月神様!? お帰りになられたはずでは?」
「ちょっと、東雲君に渡すものがあってね。忘れてたから戻ってきたの。で、僕がどうかした?」
こうは聞いているものの、月神は間違いなく分かっている。その証拠に、彼女の顔は、とてもにやついている。
「い、いえ、なんでもありません。何も言ってません。ええ、ありませんとも!」
「本当かなあ?」
繰り返しになるが、ラフマニノフ司教は中々ダンディなおじさまだ。そして、月神の見た目は、白いワンピースを着た少女である。それらがあいまって、彼の慌てっぷりが非常に面白い。もちろん、本人からすれば笑いことではないだろうが。
司教が必死に月神の意地の悪い追及をかわしている中、それに同情したのかシフォンが「助けてあげようよ」と提案してくる。
司教の毒舌の自業自得であるし、放置しようと思っていたのだが、シフォンに頼まれるのならやぶさかでもない。可愛い女の子の頼みを聞くのは、男の義務だ。
「わかった……月神。渡すものって何だよ」
「ん? ああ、ごめんごめん。これを渡そうと思ってたんだ」
月神が、司教からこちらに向き直る。彼女が渡してきたのは、一冊の薄い本だった。歴戦の戦士たちが買い求める薄い本ではなく、正真正銘、文字通りの薄い本である。紙質は元の世界のものと大差なく、大きさはA5サイズ程だ。
「僕特製の、この世界の旅行ガイドだよ。この世界の常識をまとめたもの。神話や魔術、あと種族については、それを読めばだいたい分かるはずだよ」
「へえ……それはありがたい」
つまり、これがあれば、旅に出たときシフォンに一々聞かずに済む。いや、まだ旅に出ることには頷いていないのだが。
「じゃあ、今度こそまた明日。ラフマニノフ司教、本音を漏らすのは時と場所を選んでね?」
若干脅迫紛いな事を司教に言うと、月神は再び消えた。
「えっと……ケイタ。話も終わったし、ご飯食べない?」
シフォンに言われてスマホを見てみると、時刻は12時を回っていた。異世界人であることが問題ないと分かったので、堂々とこれを扱える。後で缶コーヒーも消費しておこう。
「そうだな。そうするか」
気が付けば腹もすいている。昼食をとるため、シフォンと共に聖堂を出ることにした。
余談だが、ラフマニノフ司教は壊れたように「助かった」と連呼していたので放っておいた。己の毒舌をしっかり反省するが良い。




