東雲彗太は激怒した
彗太は激怒した。必ず、かの容姿端麗かつ邪智暴虐の神を涙目にさせなければならぬと決意した。
彗太には月神教がわからぬ。彗太はただの大学生である。適度に単位を取り、友と遊んで暮らしてきた。
けれども、残念なことに自身に為された邪悪に対しては、人一倍に厳格であった。
◇
「ケ、ケイタ!? どうしたの、いきなり」
「シノノメ様! 月神様に対してそのような無礼な暴言を吐くとは、いったいどういうおつもりか!」
唐突な俺の怒りに、シフォンが驚き、司教はたしなめる。しかし、怒りに染まりきっていた俺はそれらを「黙っとれ!」と一喝した。
後から思い返すと、司教はともかく、シフォンにまで怒鳴るとは大人げないものだ。
「うわあ。すごい怒り様だね」と、クソガキ――もとい、月神が引いた表情をしている。
「当たり前だろうが! 確かに俺は旅行には行きたかったがな。誰が! いつ! 異世界に行きたいなんて言った!」
「イセカイ? ……ああ、異世界ね!」
クソガキは一瞬首を傾げた後、にこりと笑った。
こいつに、俺の怒りは伝わっているのだろうか。
「だって『異世界に行ってみない?』なんて言葉を信じて来る人、普通いないでしょ? 仮にいても、そこまで脳内がお花畑な人を招くつもりなんて無かったし、仕方ないじゃない」
ああ、ダメだ。微塵も伝わってない。
「百歩譲って仕方ないとしてもな……魔獣の出る山中に放置するとは、いったいどういう了見だ!」
「それに関しては謝るよ。元々君の事は、この聖堂に転移させるつもりだったんだけど、失敗しちゃったんだ。異世界からの召喚は、さすがの僕でも難しかったみたい。魔力の無い君を探し出すのは不可能に近かったから、どうしようかと思っていたんだけど、君の方から来てくれるなんて思ってもみなかったや。無事で本当に良かった」
的外れで、謝罪にすらなっていないその言葉に、怒りのボルテージがさらに上がる。
「確かに無事だったがな……それは運よくシフォンがいたからだぞ! こいつがいなきゃ、俺は今頃あの熊の腹の中だ。とにかく、さっさと俺を元の世界に戻せ!」
「いやだよ。君をこの世界に呼んだのには、ちゃんと目的があるんだから。そんな簡単には帰さないよ」
「こんの、クソガキ……!」
月神に、悪びれる様子は微塵もなかった。
いくら外見が幼女とはいえ、もう殴っていい気がする。
……いや、ひとまず落ち着こう。
先ほどからクソガキと呼んではいるが、こいつはそれでも、この世界の神なのだ。このまま暴言を吐き続け、しかも暴力に訴えたら、どんな目に遭うか分かったものではない。
そもそも、現時点で帰る方法がこのクソガキ頼みしかないのだから、まずはその用とやらを聞かないと交渉も何もあったものでは無い。
それに、はたから見れば、今の状況は少女に大の男が怒鳴り散らしているという、非常に情けない光景のはずだ。司教はともかく、シフォンこんな姿などあまり見せたくない。最も、既に遅い気はする。
今更だが、少女の後ろにある月神の像の顔は、確かに彼女の顔とそっくりだった。
女神像が色の無い灰色の像だった。外道悪魔少女と月神の容姿の共通点を偶然と片づけた。などなど、理由は色々あるが、それでも、姿を見るまで気づかなかったことは、あまりに情けない。
「そろそろ落ち着いたかな?」
「……ああ、一応な。で、その目的ってのはいったい何なんだ」
一介の理系の大学生に、異世界で出来ることなど、たかが知れていると思うのだが。
「ようやく話を聞いてくれそうだね。それを説明するには、まずアルビテルについて説明する必要があるんだけど……どうやら君はその前に、ちょっと覚悟する必要がありそうだね」
月神はそう言いながら、視線を俺から、俺の左に移す。
いつの間にか近くに来ていたラフマニノフ司教が、少し怯えながら、同じ場所を見ている。左にいるのはシフォンのはずだが、いったいどうしたのだろうか。
「ねえ、ケイタ」
――おかしい。
シフォンの声は、その可憐な顔にふさわしい可愛らしい声であったはずだ。
左から聞こえたそれのように、さながら地獄の門の向こうから聞こえてくるような声では、断じてなかったはずだ。
冷や汗を垂らしながら、ゆっくりとシフォンの方を向く。
昨日俺は、この心優しき少女のことを聖母だと思った時があった。
しかし今、彼女から発せられる気配はまさに般若のそれだ。心優しき魔法少女シフォンは、今明らかに、猛烈に怒っていた。
「ケイタと月神様の話は全然分からなかったし、イセカイって何のこととか、なんでケイタが月神様にあんな暴言を吐いたんだろうとか、色々疑問はあるんだけどね」
目の錯覚だろうか? シフォンが全身に炎を纏い始めた。
怒りを描写する時、それを炎として表すことは古来より漫画的表現として使われる。
だが、いつからその炎は現実にも顕現するようになったのだろうか。それともここが異世界だからだろうか。
「でも、一つだけ分かったことがあるの」
「は、はい。何でしょう……?」
いったい彼女は何故ここまで怒っているのだろうか。
順当に考えれば、怒りの原因は月神へのあの暴言だろうが、それでここまで怒るだろうか。月神教の事を詳しくは知らないが、神様とはいえ、初めて会った人物のためにここまで怒るのは不自然に感じるが――
「ケイタが記憶喪失っていうのは──嘘だったの?」
「……あっ」
――完全に忘れていた。
炎の大きさと勢いが増す。シフォンの紅い瞳が怒りを持って俺を射抜く。
シフォンの怒りの原因は、俺がついていた嘘だった。
考えてみれば、俺をまだ異世界人だと理解していない彼女からすれば、俺は記憶喪失という嘘で彼女の優しさにつけ入り、衣食住にあやかった外道に他ならない。
心配して同じ部屋にまで泊めた相手が、自分を利用した詐欺師だった。
だから、彼女は今、猛烈に起こっている。
だがこれは非常に、いや、とんでもなくまずい状況である。一刻も早く誤解を解かなければ、彼女に焼き殺されかねない。
「落ち着くんだシフォン。記憶喪失と言ったのは、自分の安全を確保するためというか何というかで、別に決して悪気があったわけじゃ」
最後まで言い終わる前に、火炎球が顔のすぐ左を通過していった。ラフマニノフ司教が、慌てて消火しているのが見ていなくても分かる。
「もう一度聞くよ。嘘だったの?」
「はい、そうです」
おかしい。命とは嘘一つで飛んでいく程、軽いものだっただろうか。
「へえ。嘘だったんだ」
未だ炎を纏っているが、シフォンのその目はとても冷たい。見つめた所が凍てついてもおかしくない程に冷たい。実際この世界なら出来そうであるから恐ろしい。
俺は、これから彼女の業火で豚のごとく丸焼きに処されるのだろうか。それとも、彼女の瞳で本当に凍らされるのだろうか。
誰だ命の危険が去ったと言った阿呆は。楽観にも程があるぞ。
「まあ、落ち着いてよウォルタスさん。彼だって好き好んで君を騙そうとしたわけじゃないんだから」
何を思ったのか、月神が弁護をしてくれる。彼女に助けられるのは癪だが、この状況では贅沢は言えない。
「でも、この人が嘘をついたことは事実ですよね」
呼び方がさりげなく「ケイタ」から「この人」に格下げされていることが、非常に心にくる。
「仕方なかったんだと思うよ。突然見知らぬ場所に来ちゃったんだから。それに、彼が君を助けたことも事実でしょ? まずは彼の話を聞いてあげてくれないかな」
シフォンは月神に返事はせず、俺のことをやはり冷たいままの目で見つめ続けた。
万事休すかと思ったが、彼女は「それもそうですね」と言って、纏っていた炎を消した。助かった――ひとまずそう安堵したものの、すぐに彼女はこう言った。「正座」と。
「え?」
「正座して。嘘つきは、正座」
「いや、俺の話を聞いてくれるんじゃ」
「正座しないと燃やすよ」
「すみませんでした」
どうやら彼女は、嘘をつかれることが、とても嫌いであるらしい。
◇
想像してほしい。少女の前で正座をさせられている男の姿を。極寒の眼差しで見下されているその姿を。いったい彼はどんな悪行を働いたのだろう。きっとその状況に相応しい卑劣な事をしたに違いない。
問題なのは、その男がまさに現在の俺自身であることだ。
「えっとですね。つまり、こういうことですか?
シノノメ様はこことは違う世界から来た者。つまり異世界の人であり、月神様が召喚した。しかし、その召喚が失敗した結果、シノノメ様は山の中に放り出され、彷徨った結果、ウォルタス様と出会い、そして現在に至る――と」
ラフマニノフ司教が、月神と俺から聞いた話を要約すると、月神が「それであってるよ」と肯定する。
「だからあなたは、月神様にあれほど怒っていたんですね……」
司教が同情の視線を送ってくる。いくら正当な理由があるとはいえ神を冒涜した者に、聖職者である彼が同情してくれるのは意外だ。
「で、一番の疑問なんですが、何故あなたは記憶喪失なんて陳腐な嘘をついたんですか?」
「陳腐は余計ですよ……。まず、この世界で、異世界人がどんなふうに扱われるのかが分からなかったからです。場合によっては殺されるかもって思ったんですよ」
「ええ……? あなた、意外と心配性なんですね」
「そうですか?」
最悪な事態を想定して動くのは、俺が考えた処世術の基本だ。
最も、普段からできているとは言い難く、どちらかというと心構えのようなものだ。それに、できていなかったから、こんな状況に置かれているのだが。
「で、次に異世界人ってものが知られていない場合、『異世界人です』なんて言われて信じますか?
この世界の常識も全然分からなかったし、二つの理由から考えて、記憶喪失で何も分からないというのが、一番無難かなと思ったんですよ」
「はあ……まあ、後者に関しては一理ありますね。私も違う世界から来た人なんて、初めて見ましたから。というか、今まで聞いたこともないですよ、そんな話」
ラフマニノフ司教が月神に話を振ると、彼女は意外な事を言った。
「それはそうだよ。異世界から召喚したのは君が初めてだからね」
「は?」
月神の発言に思わず唖然とする。つまり何か。俺はあの旅行詐欺の異世界召喚において、記念すべき一人目となったわけか。
何たる不幸だ。やはり帰ったらお祓いを受ける必要がありそうだ。
しかし、一人目にしては少し疑問がある。
「一人目にしては、この世界、やけに自分の世界との共通点が多いんだが?」
言語、物の名前、そしてこの聖堂の構造。ここまで似通った文化が一から創られたとは考えにくい。これまでに月神が何回も召喚し、その結果、俺の世界と似るようになったと考えた方が筋が通る。
「ああ、それは……僕のせいだね。この世界を創るときに、君のいた世界を参考にさせてもらったから」
「参考にした? というか、創った?」
「うん。その話はアルビテルと関係してくるから、そろそろそれについて話したいんだけど……ウォルタスさん、そろそろ彼を許してあげてくれないかな」
月神がそう言いながら、シフォンの方を見る。
先述した通り、彼女は相変わらず俺を、それはそれは冷徹な目で見下している。嘘をついた理由についてはちゃんと説明したのだが、それでも許してくれないのだろうか。嘘も方便という慣用句は、彼女の辞書にはなさそうだ。
「ウォルタス様。シノノメ様があのような陳腐な嘘をついた理由には、一応筋の通った理由がありますし、そろそろ許してあげてはいかがですか?」
ラフマニノフ司教が説得に加わる。今更だがこの司教、俺に対して毒舌が過ぎないだろうか。
しかし、二人の説得に関わらず、シフォンは「まだ」と答える。これ以上いったいどうしろというのか。この場の誰もがきっとそう思ったが、その言葉には続きがあった。
「まだ、嘘をついたことを、謝ってもらってません」
……。
そういえばそうだった。
「すみませんでした」
正座を保ったまま、土下座にはならない程度に頭を下げる。確かに、どんな理由にせよ、嘘をついたなら謝るのが筋である。
顔をあげれば、シフォンは不機嫌な表情ではあるものの、先ほどまでの剣呑な雰囲気は無くなっていた。
「ねえ、許す代わりに、一つ約束して」
「はい、なんでしょう」
もう許してもらえると思ったのだが、これでもまだ終わりではなかったらしい。
ここまで落ち着いて話してきたものの、その実、足のしびれがもう限界に達している。それを知ってか知らずかは分からないが、仮に知っているとしたなら、ここで約束を要求する彼女は相当な策略家である。
そして彼女の言った約束はそんな悪魔じみた策略とは程遠い、けれど、簡単には頷けないものだった。
「二度と私に、嘘をつかないで。絶対に」
「……それは」
どういう意味かと問おうとして、シフォンは先手を打つように言葉をつづけた。
「どんな些細な事でもダメ。私はもう二度と、嘘はつかれたくないから」
――それは一見簡単そうで、けれど、非常に難しい。
人は日常的に、簡単に嘘をつく。そして、嘘の対象は、場合によっては親や親友でさえ例外ではない。
話を合わせる時、触れられたくない事を誤魔化す時、そして友人を守る時。
他にも理由は様々なれど、優しい嘘は日常に満ち溢れている。悪意ある嘘は論外であるが、しかし、嘘が嫌いと言う人は数多くあれど、全く嘘をつかない人間などこの世にいない。少なくとも、俺はそう考えている。
俺は悪意を持っていた訳ではないが、シフォンを騙したことは事実だ。だから、どうせなら誠意をもって答えたい。
しかしそれ故に、シフォンの提示する約束を了承することはできない。その約束は、どれほど守ろうと努力したところで、いつか必ず嘘になる。きっと彼女は、例え優しい嘘でも、許しはしない。
答えに困っていると、シフォンが「約束しないなら許してあげない」と脅してきた。つまり約束しなければ、永遠に正座させられるということか。
嘘が嫌いだから「嘘をつかない」という嘘を強要するとは、酷い矛盾だ。彼女はこの矛盾に気付いているのだろうか。それとも、気づいていてなお、この約束を要求しているのだろうか。
もし後者だとしたなら、いったい彼女の過去に何があったのだろう。
困り果ててシフォンの目を見る。真剣な赤い瞳が、俺を射抜いていた。
「……わかった。約束する」
少々長い沈黙の後、彼女と約束を交わした。
月神の用が済めば、元の世界に帰るのだ。ならば、おそらくこの世界に長居はしないだろう。その間だけでも守れるよう努力することもまた、彼女への誠意だ。
「約束だよ」と念を押される。破ったなら最後、今度こそ彼女の業火で灰となるだろう。
念を押すとシフォンはこちらに手を差し伸べる。やっと許してもらえるらしい。これでようやく、正座から解放される。
ところでだが、しびれる程長い時間、正座をし続けた後、突然それから解放されたらどうなるかはご存じだろうか?
俺は命がけの緊張から解放されたことで、あまりそれを考えていなかった。安堵の余り、足のしびれも忘れていた。
シフォンの手を取ると、彼女はにっこりと笑った。そして、俺を勢いよく引き上げた。そして。
そして俺はしばらくの間、先程までとは桁違いの足のしびれに悶絶した。




