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月神のアルカディア  作者: 白魔術師
第三章:Numen adest ――神は、ここに――
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異世界の朝


 気が付くと、舞台の上に立っていた。


 コンサートホール。照明が眩しい。たくさんの老若男女が上質な席に座って俺のことを見ている。自分の身体を見下ろすと、スーツを着こんでいた。左手にはヴァイオリン。右手にはその弓。後ろを振り返ればグランドピアノがあり、大人の女性がその前に座っている。”先生”だ。ああそうか。これはコンクールだ。


 振り返ったことが合図だと思ったのか、先生が鍵盤を叩きラの音を鳴らす。慌ててヴァイオリンを構え、A線を鳴らす。うなりは無い。チューニングは完璧だ。いつでも弾ける。……何を?


 疑問に思ったのも束の間、先生が突然弾き始める。同時に弾くべき曲を思い出し、俺も慌てて弾き始める。この曲の名前は何と言っただろうか。思い出せない。だが身体が音と動きを覚えている。それに任せれば問題は無い。ほら、美しい音色を奏でられている。優勝も夢ではない。


 だが、この曲を最後に弾いたのはいつだっただろうか。


 練習もしていないのに上手く弾けるわけがない――そんな考えが浮かんだと同時に、演奏は崩れ始める。指板の上で指は彷徨い始める。音が外れる、濁る。こんな軽い音じゃない。こんな重い音じゃない。俺の演奏はこれじゃない。


 立て直すことのないまま、演奏は終わる。ヴァイオリンを首から離し、礼をする。お決まりの拍手が俺に向けられる。


 顔を上げたと同時に、両親を見つけた。じっとこちらを見つめる彼らの目に、一切の期待は感じられなかった。



 目が覚める。窓から入る光が眩しい。


 しばらくぼうっとした後「ああ、夢か」と独りごちた。正確に言えば夢であって、夢ではない。ほとんどは夢だが、一部は事実なのだから。


 それに対して異世界転移は、夢ではなかったらしい。昨日寝る前に見た時と変わらぬ天井が、そして部屋の内装が、それを証明している。


 横になったまま昨晩のことを思い返す。


 月神との出会いの後、この宿――というより、ホテルと言ったほうがいいだろう――に泊まった。


 部屋は、最上級ではないだろうが、それでも、かなり広いものだった。この部屋代は誰が払ったのだろう。まさか、ラクマニン司教が立て替えてくれているのだろうか。


 夕食はバイキング形式だった。司教の言った通り、どれもこれも美味だった。異世界らしく、夕食に出てきた物の中には、見たことのないような肉や野菜があった。ただし、主食は明らかに米やパンだった。見た目も同じで、米にいたっては日本のものと遜色無かった。


 この時驚いたが、シフォンは明らかに、俺よりも食べていた。可愛らしい笑顔で。


 ――さて。


 無事に目覚めたはいいが、何故か身体が動かない。正確に言えば、左腕と首以外が動かない。


 まさか、これがかの金縛りだろうか? 今まで経験したことが無かったのに、異世界に来て経験するとは妙なものである。それとも、異世界という急激な状況の変化によるストレスが原因だろうか。


 しかし、本当に金縛りなのだろうか?


 首を動かして、状況を確認する。そして俺はとんでもないものを見た。 


 なんと、シフォンが俺に抱き付いていた。


 彼女の腕は俺の胴体に回され、その両足は俺の足に絡められていた。そして彼女の頭は、まさに目と鼻の先にあった。


 道理で体が動かないわけだ。しかし、いったいどうしてこうなった――ああ、思い出した。昨夜は確か、こんなやり取りをした。



「寝る時だけど、シフォンがベッド使ってくれ。俺はそこのソファを使うからさ」


 シフォンと同じ、この部屋で泊まる最大の問題点――それは、2つのベッドが、くっついて置かれている事だった。元々、金持ちが夫婦で来る事を想定しているのだろう。だが、俺達は出会ったばかりの男女だ。近距離で寝るのは、気が引ける。だが、


「ベッドは二人分あるでしょ。ケイタも、ベッドを使おうよ」


 と、当のシフォンが反対したのだ。


「いや、でもくっついてるし。隣で寝るのはさすがに不味いと」


「私は問題ないよ。雑魚寝は慣れてるし。それにこのベッドふかふかだよ?」


 と、彼女はベッドの上で跳ねながら提案する。この時、シフォンは寝間着に着替えていた。身体の輪郭がはっきりし、首回りの露出が増している状態だ。未だ純潔を保つ俺には、少々刺激が強い。


「ケイタも疲れてるし、ベッドで休んだ方がいいよ。なんなら、私がソファーで寝るよ?」


 命の恩人を、嘘を許してくれた彼女をソファーで寝かせて、自身はベッドで寝る。これを何というだろうか。答えは明白。外道だ。


 結局説得はしたものの、彼女は首を縦に振らなかった。そして、俺達は隣同士で寝ることとなった。


 最初はどぎまぎしたが、俺自身、気づかぬうちに疲れていたらしい。布団に入った後の記憶がほとんどない。



 なるほど――思い出した。


 つまり、彼女は寝ている間に、隣のベッドから転がってきたのだろう。よくもまあ、ここまで寝相が悪いのに、ベッドから落ちなかったものだ。


 しかし、いったいどうしたものだろう。


 冷静に思考する。

 そう、冷静にである。

 さあ、冷静にこの状況を切り抜ける方法を、考えようではないか。


 さて、そのためにまずシフォンをよく観察してみよう。


 寝間着の襟元から覗く鎖骨。布越しからでも感じられる柔らかい肌。そして、俺の右腕に押し付けられるつつましく膨らんだ胸。可愛らしく無防備な寝顔。さらには、艶やかな紅い髪から漂う女性の甘い香り――。


 縛られし内なる餓狼曰く、「先っちょだけならいいだろう」との評価だ。よし、いただきます――。


「いや待ておかしい」


 彼女に手を出してみろ。あの剛力と火炎で灰塵に帰すのは目に見えている。というか、恩を仇で返してどうする。


 仕切りなおそう。まず俺がしなければならないこと。それは、この少女を引き離すことだ。


 物理的に引きはがそうとすると、何だか変な誤解を生みそうだ。というか、寝ている彼女の柔肌に触れることに気が引ける。


 したがって、ここはもう彼女に起きてもらうことにしよう。


「シフォンさーん。起きてください。……本当にお願いします」


 早く起きてくれ。俺の理性はすでに息絶え絶えなのだから。


 声が聞こえたのか、彼女の瞼が震える。どうやら起きてくれるらしい――そう考えていたが、まだ甘かった。


「ん……うぅん」


 彼女の官能的な声を聴いた瞬間、内なる飢狼がフェンリルのごとく理性の鎖を引きちぎり、遠吠えをあげた。「いただきます」との評価だ。


「起きてくれ。お願いだから!」


「やらぁ……まだ寝たい」


 左腕で肩を揺すっても全く起きようとはしない。それどころか、揺するたびに声をもらすため、生殺しの状態だ。


 俺とは違い、魔獣を殴り飛ばしていたせいだろう。疲れた彼女はまだ寝足りないらしい。


 考えろ、考えろ、この状況を切り抜ける方法を。彼女を起こす手段を。何かなかっただろうか、彼女が飛び起きるようなものが。しかし、昨日出会ったばかりの彼女の事などほとんど――いや、一つだけあった。


「シフォンさん! 朝食の時間です!」


「ほんと!?」


 彼女が飛び起きる。そして、ポカンとしている。彼女は周りを見回した後、俺の顔を見下ろした。


「おはよう、シフォン」


「んん……? あ、おはようケイタ。朝食どこ?」


 それを聞く前に、昨晩とは明らかに異なるこの位置関係について、尋ねたりしないのだろうか。


 とにかく賭けに勝った。やはりこの少女、食に対しての執着が強い。


「朝食は食堂だろ。ほら、起きて着替えよう」


 時計をみれば、7時過ぎ。先ほどはシフォンを起こすためにああ言ったが、ちょうどいい時間だったらしい。


 着替えを持ってシフォンが見えない位置に移動する。寝間着を脱ぎながら、ふと、月神にコンビニの前で騙されたことを思い出した。あの時のやり取りを、「連れて行ってもらおうかな」と言ってしまった時の月神の目を。


「――そうか。期待されたからか」


 酷いものだ。あの時の優しさも、騙された理由も。


 彼女に聞こえないように、静かに自嘲した。



「……もう決心したんですか?」


 そう言ったのは、ラクマニン司教だ。


 朝食後、俺達は聖堂に来ていた。だが、俺はまだ、月神の要求に対して頷いてはいない。


「いや、ただの観光です」


「そうですか……」


「昨日は疲れたり、驚いたりで、あまり聖堂のこと見られなかったので……」とシフォン。彼女は聖堂の美しさに目を輝かせていた。彼女は「ちょっと周ってくる」と言って、俺と司教から離れて聖堂内を鑑賞しに行った。


 この聖堂の美しさは、確かに目をみはるものだ。だが、クソガキ――もとい、月神を崇めていると知った今では、純粋に感動できない。


「同行するのか、しないのか。いずれにせよ、数日以内には決めてもらいたいですよ。私の財布だって、無限ではないのですから」


 司教が嘆息する。


「部屋代は司教持ちだったんですね……」


 まさかとは思っていたが、本当にそうだったとは。


「立て替えているだけです。資金の使用用途とか、結構厳しいんですよ。……とにかく決断するなら、早くしてください。ウォルタス様にも迷惑ですから」


「そう……ですね」


 アルビテル――俺が同行するがしまいが、シフォンがこの世界を旅することに変わりはない。彼女がしばらく、ラナにいると決めたのは、俺の決断を待っているからだ。本当に優しい子だ。


「それにしても、異世界……ですか。シノノメ様、あなたの元いた世界のことは口外しないで頂きたい」


「……何故ですか?」


 昨日、月神から「異世界人は君が初めて」と言われた以上、大っぴらに公言することはもう無いが。


「”13の教え”に矛盾するからです。内容は知っていますか?」


「ええ、シフォンから聞きました」


 俺の答えに、彼は声をひそめて、続ける。


「教えの一つは、こう言っています。『結界の外に出ようとしてはならない。外は混沌であり、何人も生きられない』、と」


 結界――月神は言っていた。この世界は、彼女が張った結界”アルカディア”の内部に存在すると。彼は続ける。


「月神様自身、あまり気にしているように見えませんでしたが……結界の外は混沌。そこでは、最後の教えのように『罪を犯し生まれかわれなかった魂が、月神様に許されるまで、混沌を彷徨っている』だけのはずなのです」


「そうでしたね……うん?」


 司教の言葉にはっとする。彼は俺の反応を見て、頷いた。


「気づきましたか。この教えでは、異世界という存在は有り得ないんです。こことは異なる世界――それは、混沌の向こう側を意味してしまいますから」


「つまり、俺の存在って、かなりまずいんじゃ?」


「ええ。昨晩、あの後に気づきました。あなたが記憶喪失だと主張してくれたことは、幸いでした。でなければ……きっと、まずい事態になったので。最も、ウォルタス様は気づいていないようですし、教えを深く考えなければ、大丈夫でしょうが……」


 もしも最初から異世界人だと主張していたら――秘密裏に処理されていたかもしれない。そんなもしもを想像して、背筋が震えた。


「結構危なかったんですね、俺……ところで司教、大丈夫ですか?」


「何がですか?」


「いや、その……信仰、とか」


 俺に注意している間、彼の表情は曇っていた。

 言ってから、失言だったかなと思う。しかし、彼は特に怒ることもなかった。


「私は月神様を信じるだけです。今までに混沌の向こうから、人が来たことも、帰ってきたこともありません。もし、混沌の向こう側にあなたの世界があったとしても――それはきっと、月神様が手引きしなければ、到底届かないような場所なのでしょう。そもそも、教えの中に異世界の存在を明示する必要など、全くありません。今までとは何も、変わりませんよ」


「そう、ですか」


 多少、無理やりな主張ではある気もする。おそらく、自身を納得させるためのものでも、あるのだろう。彼は司教だ。この世界の一般人とは違い、月神に対して、より忠誠を誓い、そして生きてきた人だ。今更否定など、できないのだろう。


「……どうしたんですか。二人とも暗い顔して」


「あ、シフォン」


 気づけば、彼女はすぐ近くに来ていた。聖堂内を一周し終えたらしい。


「シノノメ様に異世界人のことを口外しないよう、頼んでいただけです。ウォルタス様も、お願いしますよ」


「はあ……分かりました」


 少し疑問に思っている様子だが反論もなく、彼女は受け入れた。


「ところで……ウォルタス様。暑くないんですか?」


 司教が突然、話題を変えた。


 シフォンの今の服装は、司教と共通の黒いローブだ。そして、こちらの世界も今は夏。元居た世界よりも少し涼しい気はするが、しかし暑いことに変わりはない。


「確かに、暑いです……」とシフォン。


「え、そうだったのか」


「そうだよ。昨日は本当に暑かったんだから」


 昨日はいくら歩いても、全く暑そうなそぶりを見せなかったから、平気なのだと思っていた。それに、彼女は火属性が得意だと聞いた。熱には慣れていると勝手に思い込んでいた。


「でしたら、服を買ってはいかがですか?」と司教が提案する。


「え。でも、これは月神教の正装ですよね……」


「暑さで倒れたらどうするんですか。アルビテルはまだ始まっていない。それに、あれは言わば、抜き打ち検査のようなもの。正装をしなくとも良いと思いますよ」


「……でも、お金が」


「お金なら出発前にもらったでしょう? 多少自分のために使っても、月神様は許してくれますよ」


「えっと……」


 司教に言われても、彼女は躊躇っていた。そんな彼女に、俺は――。


「シフォン。買いに行こう」


「えっ」


「あいつは勝手に旅を強制してるんだ。おしゃれしたって、文句は言われないだろ」


 シフォンは優しい。そして自分のことを後回しにしている。そんな姿が少し、嫌だった。


「……ケイタ、月神様に不敬だよ。でも、そっか。そうだよね」


 シフォンの表情が明るくなる。説得は成功したらしい。


「私は服に詳しくないので、案内もお勧めもできませんが……商店の方にいけば、いくつかはあるでしょう。観光しながら、じっくりと選ぶとよいですよ。あなたに似合うものを」


 司教の顔も先ほどより明るい。彼も、気が紛れたのだろうか。


「ありがとうございます。じゃあ、行こう。ケイタ」


「ああ」


 シフォンが先に駆ける。俺は司教にお礼を言って、彼女に着いていく――。


 が、肩が、がしっと掴まれた。振り返ると、やはりその手は司教のものだった。


「……なんですか?」


 なぜだろう。彼から妙な圧を感じる。


「いえ、昨日言い忘れていたのですが……ウォルタス様に手は出していませんよね」


「出せると思うんですか?」


 そんなことをすれば、ハンバーグになるのがオチだ。


「確かに、そうですね。……一応伝えておきます。もしも、ウォルタス様を無理やり襲おうものなら――問答無用で異端審問にかけますからね」


「絶対に手出ししないことを誓いましょう」


 この世界での命の危険が、魔獣に加えて一つ増えた。


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