異世界の朝
◇
気が付くと、舞台の上に立っていた。
コンサートホール。照明が眩しい。たくさんの老若男女が上質な席に座って俺のことを見ている。自分の身体を見下ろすと、スーツを着こんでいた。左手にはヴァイオリン。右手にはその弓。後ろを振り返ればグランドピアノがあり、大人の女性がその前に座っている。”先生”だ。ああそうか。これはコンクールだ。
振り返ったことが合図だと思ったのか、先生が鍵盤を叩きラの音を鳴らす。慌ててヴァイオリンを構え、A線を鳴らす。うなりは無い。チューニングは完璧だ。いつでも弾ける。……何を?
疑問に思ったのも束の間、先生が突然弾き始める。同時に弾くべき曲を思い出し、俺も慌てて弾き始める。この曲の名前は何と言っただろうか。思い出せない。だが身体が音と動きを覚えている。それに任せれば問題は無い。ほら、美しい音色を奏でられている。優勝も夢ではない。
だが、この曲を最後に弾いたのはいつだっただろうか。
練習もしていないのに上手く弾けるわけがない――そんな考えが浮かんだと同時に、演奏は崩れ始める。指板の上で指は彷徨い始める。音が外れる、濁る。こんな軽い音じゃない。こんな重い音じゃない。俺の演奏はこれじゃない。
立て直すことのないまま、演奏は終わる。ヴァイオリンを首から離し、礼をする。お決まりの拍手が俺に向けられる。
顔を上げたと同時に、両親を見つけた。じっとこちらを見つめる彼らの目に、一切の期待は感じられなかった。
◇
目が覚める。窓から入る光が眩しい。
しばらくぼうっとした後「ああ、夢か」と独りごちた。正確に言えば夢であって、夢ではない。ほとんどは夢だが、一部は事実なのだから。
それに対して異世界転移は、夢ではなかったらしい。昨日寝る前に見た時と変わらぬ天井が、そして部屋の内装が、それを証明している。
横になったまま昨晩のことを思い返す。
月神との出会いの後、この宿――というより、ホテルと言ったほうがいいだろう――に泊まった。
部屋は、最上級ではないだろうが、それでも、かなり広いものだった。この部屋代は誰が払ったのだろう。まさか、ラクマニン司教が立て替えてくれているのだろうか。
夕食はバイキング形式だった。司教の言った通り、どれもこれも美味だった。異世界らしく、夕食に出てきた物の中には、見たことのないような肉や野菜があった。ただし、主食は明らかに米やパンだった。見た目も同じで、米にいたっては日本のものと遜色無かった。
この時驚いたが、シフォンは明らかに、俺よりも食べていた。可愛らしい笑顔で。
――さて。
無事に目覚めたはいいが、何故か身体が動かない。正確に言えば、左腕と首以外が動かない。
まさか、これがかの金縛りだろうか? 今まで経験したことが無かったのに、異世界に来て経験するとは妙なものである。それとも、異世界という急激な状況の変化によるストレスが原因だろうか。
しかし、本当に金縛りなのだろうか?
首を動かして、状況を確認する。そして俺はとんでもないものを見た。
なんと、シフォンが俺に抱き付いていた。
彼女の腕は俺の胴体に回され、その両足は俺の足に絡められていた。そして彼女の頭は、まさに目と鼻の先にあった。
道理で体が動かないわけだ。しかし、いったいどうしてこうなった――ああ、思い出した。昨夜は確か、こんなやり取りをした。
◇
「寝る時だけど、シフォンがベッド使ってくれ。俺はそこのソファを使うからさ」
シフォンと同じ、この部屋で泊まる最大の問題点――それは、2つのベッドが、くっついて置かれている事だった。元々、金持ちが夫婦で来る事を想定しているのだろう。だが、俺達は出会ったばかりの男女だ。近距離で寝るのは、気が引ける。だが、
「ベッドは二人分あるでしょ。ケイタも、ベッドを使おうよ」
と、当のシフォンが反対したのだ。
「いや、でもくっついてるし。隣で寝るのはさすがに不味いと」
「私は問題ないよ。雑魚寝は慣れてるし。それにこのベッドふかふかだよ?」
と、彼女はベッドの上で跳ねながら提案する。この時、シフォンは寝間着に着替えていた。身体の輪郭がはっきりし、首回りの露出が増している状態だ。未だ純潔を保つ俺には、少々刺激が強い。
「ケイタも疲れてるし、ベッドで休んだ方がいいよ。なんなら、私がソファーで寝るよ?」
命の恩人を、嘘を許してくれた彼女をソファーで寝かせて、自身はベッドで寝る。これを何というだろうか。答えは明白。外道だ。
結局説得はしたものの、彼女は首を縦に振らなかった。そして、俺達は隣同士で寝ることとなった。
最初はどぎまぎしたが、俺自身、気づかぬうちに疲れていたらしい。布団に入った後の記憶がほとんどない。
◇
なるほど――思い出した。
つまり、彼女は寝ている間に、隣のベッドから転がってきたのだろう。よくもまあ、ここまで寝相が悪いのに、ベッドから落ちなかったものだ。
しかし、いったいどうしたものだろう。
冷静に思考する。
そう、冷静にである。
さあ、冷静にこの状況を切り抜ける方法を、考えようではないか。
さて、そのためにまずシフォンをよく観察してみよう。
寝間着の襟元から覗く鎖骨。布越しからでも感じられる柔らかい肌。そして、俺の右腕に押し付けられるつつましく膨らんだ胸。可愛らしく無防備な寝顔。さらには、艶やかな紅い髪から漂う女性の甘い香り――。
縛られし内なる餓狼曰く、「先っちょだけならいいだろう」との評価だ。よし、いただきます――。
「いや待ておかしい」
彼女に手を出してみろ。あの剛力と火炎で灰塵に帰すのは目に見えている。というか、恩を仇で返してどうする。
仕切りなおそう。まず俺がしなければならないこと。それは、この少女を引き離すことだ。
物理的に引きはがそうとすると、何だか変な誤解を生みそうだ。というか、寝ている彼女の柔肌に触れることに気が引ける。
したがって、ここはもう彼女に起きてもらうことにしよう。
「シフォンさーん。起きてください。……本当にお願いします」
早く起きてくれ。俺の理性はすでに息絶え絶えなのだから。
声が聞こえたのか、彼女の瞼が震える。どうやら起きてくれるらしい――そう考えていたが、まだ甘かった。
「ん……うぅん」
彼女の官能的な声を聴いた瞬間、内なる飢狼がフェンリルのごとく理性の鎖を引きちぎり、遠吠えをあげた。「いただきます」との評価だ。
「起きてくれ。お願いだから!」
「やらぁ……まだ寝たい」
左腕で肩を揺すっても全く起きようとはしない。それどころか、揺するたびに声をもらすため、生殺しの状態だ。
俺とは違い、魔獣を殴り飛ばしていたせいだろう。疲れた彼女はまだ寝足りないらしい。
考えろ、考えろ、この状況を切り抜ける方法を。彼女を起こす手段を。何かなかっただろうか、彼女が飛び起きるようなものが。しかし、昨日出会ったばかりの彼女の事などほとんど――いや、一つだけあった。
「シフォンさん! 朝食の時間です!」
「ほんと!?」
彼女が飛び起きる。そして、ポカンとしている。彼女は周りを見回した後、俺の顔を見下ろした。
「おはよう、シフォン」
「んん……? あ、おはようケイタ。朝食どこ?」
それを聞く前に、昨晩とは明らかに異なるこの位置関係について、尋ねたりしないのだろうか。
とにかく賭けに勝った。やはりこの少女、食に対しての執着が強い。
「朝食は食堂だろ。ほら、起きて着替えよう」
時計をみれば、7時過ぎ。先ほどはシフォンを起こすためにああ言ったが、ちょうどいい時間だったらしい。
着替えを持ってシフォンが見えない位置に移動する。寝間着を脱ぎながら、ふと、月神にコンビニの前で騙されたことを思い出した。あの時のやり取りを、「連れて行ってもらおうかな」と言ってしまった時の月神の目を。
「――そうか。期待されたからか」
酷いものだ。あの時の優しさも、騙された理由も。
彼女に聞こえないように、静かに自嘲した。
◇
「……もう決心したんですか?」
そう言ったのは、ラクマニン司教だ。
朝食後、俺達は聖堂に来ていた。だが、俺はまだ、月神の要求に対して頷いてはいない。
「いや、ただの観光です」
「そうですか……」
「昨日は疲れたり、驚いたりで、あまり聖堂のこと見られなかったので……」とシフォン。彼女は聖堂の美しさに目を輝かせていた。彼女は「ちょっと周ってくる」と言って、俺と司教から離れて聖堂内を鑑賞しに行った。
この聖堂の美しさは、確かに目をみはるものだ。だが、クソガキ――もとい、月神を崇めていると知った今では、純粋に感動できない。
「同行するのか、しないのか。いずれにせよ、数日以内には決めてもらいたいですよ。私の財布だって、無限ではないのですから」
司教が嘆息する。
「部屋代は司教持ちだったんですね……」
まさかとは思っていたが、本当にそうだったとは。
「立て替えているだけです。資金の使用用途とか、結構厳しいんですよ。……とにかく決断するなら、早くしてください。ウォルタス様にも迷惑ですから」
「そう……ですね」
アルビテル――俺が同行するがしまいが、シフォンがこの世界を旅することに変わりはない。彼女がしばらく、ラナにいると決めたのは、俺の決断を待っているからだ。本当に優しい子だ。
「それにしても、異世界……ですか。シノノメ様、あなたの元いた世界のことは口外しないで頂きたい」
「……何故ですか?」
昨日、月神から「異世界人は君が初めて」と言われた以上、大っぴらに公言することはもう無いが。
「”13の教え”に矛盾するからです。内容は知っていますか?」
「ええ、シフォンから聞きました」
俺の答えに、彼は声をひそめて、続ける。
「教えの一つは、こう言っています。『結界の外に出ようとしてはならない。外は混沌であり、何人も生きられない』、と」
結界――月神は言っていた。この世界は、彼女が張った結界”アルカディア”の内部に存在すると。彼は続ける。
「月神様自身、あまり気にしているように見えませんでしたが……結界の外は混沌。そこでは、最後の教えのように『罪を犯し生まれかわれなかった魂が、月神様に許されるまで、混沌を彷徨っている』だけのはずなのです」
「そうでしたね……うん?」
司教の言葉にはっとする。彼は俺の反応を見て、頷いた。
「気づきましたか。この教えでは、異世界という存在は有り得ないんです。こことは異なる世界――それは、混沌の向こう側を意味してしまいますから」
「つまり、俺の存在って、かなりまずいんじゃ?」
「ええ。昨晩、あの後に気づきました。あなたが記憶喪失だと主張してくれたことは、幸いでした。でなければ……きっと、まずい事態になったので。最も、ウォルタス様は気づいていないようですし、教えを深く考えなければ、大丈夫でしょうが……」
もしも最初から異世界人だと主張していたら――秘密裏に処理されていたかもしれない。そんなもしもを想像して、背筋が震えた。
「結構危なかったんですね、俺……ところで司教、大丈夫ですか?」
「何がですか?」
「いや、その……信仰、とか」
俺に注意している間、彼の表情は曇っていた。
言ってから、失言だったかなと思う。しかし、彼は特に怒ることもなかった。
「私は月神様を信じるだけです。今までに混沌の向こうから、人が来たことも、帰ってきたこともありません。もし、混沌の向こう側にあなたの世界があったとしても――それはきっと、月神様が手引きしなければ、到底届かないような場所なのでしょう。そもそも、教えの中に異世界の存在を明示する必要など、全くありません。今までとは何も、変わりませんよ」
「そう、ですか」
多少、無理やりな主張ではある気もする。おそらく、自身を納得させるためのものでも、あるのだろう。彼は司教だ。この世界の一般人とは違い、月神に対して、より忠誠を誓い、そして生きてきた人だ。今更否定など、できないのだろう。
「……どうしたんですか。二人とも暗い顔して」
「あ、シフォン」
気づけば、彼女はすぐ近くに来ていた。聖堂内を一周し終えたらしい。
「シノノメ様に異世界人のことを口外しないよう、頼んでいただけです。ウォルタス様も、お願いしますよ」
「はあ……分かりました」
少し疑問に思っている様子だが反論もなく、彼女は受け入れた。
「ところで……ウォルタス様。暑くないんですか?」
司教が突然、話題を変えた。
シフォンの今の服装は、司教と共通の黒いローブだ。そして、こちらの世界も今は夏。元居た世界よりも少し涼しい気はするが、しかし暑いことに変わりはない。
「確かに、暑いです……」とシフォン。
「え、そうだったのか」
「そうだよ。昨日は本当に暑かったんだから」
昨日はいくら歩いても、全く暑そうなそぶりを見せなかったから、平気なのだと思っていた。それに、彼女は火属性が得意だと聞いた。熱には慣れていると勝手に思い込んでいた。
「でしたら、服を買ってはいかがですか?」と司教が提案する。
「え。でも、これは月神教の正装ですよね……」
「暑さで倒れたらどうするんですか。アルビテルはまだ始まっていない。それに、あれは言わば、抜き打ち検査のようなもの。正装をしなくとも良いと思いますよ」
「……でも、お金が」
「お金なら出発前にもらったでしょう? 多少自分のために使っても、月神様は許してくれますよ」
「えっと……」
司教に言われても、彼女は躊躇っていた。そんな彼女に、俺は――。
「シフォン。買いに行こう」
「えっ」
「あいつは勝手に旅を強制してるんだ。おしゃれしたって、文句は言われないだろ」
シフォンは優しい。そして自分のことを後回しにしている。そんな姿が少し、嫌だった。
「……ケイタ、月神様に不敬だよ。でも、そっか。そうだよね」
シフォンの表情が明るくなる。説得は成功したらしい。
「私は服に詳しくないので、案内もお勧めもできませんが……商店の方にいけば、いくつかはあるでしょう。観光しながら、じっくりと選ぶとよいですよ。あなたに似合うものを」
司教の顔も先ほどより明るい。彼も、気が紛れたのだろうか。
「ありがとうございます。じゃあ、行こう。ケイタ」
「ああ」
シフォンが先に駆ける。俺は司教にお礼を言って、彼女に着いていく――。
が、肩が、がしっと掴まれた。振り返ると、やはりその手は司教のものだった。
「……なんですか?」
なぜだろう。彼から妙な圧を感じる。
「いえ、昨日言い忘れていたのですが……ウォルタス様に手は出していませんよね」
「出せると思うんですか?」
そんなことをすれば、ハンバーグになるのがオチだ。
「確かに、そうですね。……一応伝えておきます。もしも、ウォルタス様を無理やり襲おうものなら――問答無用で異端審問にかけますからね」
「絶対に手出ししないことを誓いましょう」
この世界での命の危険が、魔獣に加えて一つ増えた。




