涙の理由
「ヒカリ? どうした?」
声をかけられて驚いてうつむいていた顔を上げる。
セイがまた迎えに来てくれていた。
けれど、彼は私の顔を見ると驚いた顔をして。
「おいで」
手を取ると、返事も聞かずに歩き出す。
連れられるままに車に乗り込んで。
だけど、セイはいったん車から離れてどこかに行ってしまう。
・・・あの後。
走って教室まで戻って、カバンを手にしてそのまま逃げるように校舎を出た。
だけど、その間も涙が止まらなくて。
教室にはまだ何人かクラスメイトが残っていて。
きっと不審に思われただろうな・・・と、ちょっと反省したけど。
でも、どうしても止まらなくて。
「ヒカリ、これ」
戻ってきたセイの声に見ると、水に濡らしたハンカチを差し出される。
「・・・ありがとう」
答えた声が完全に涙声で。
あ~これって、きっと顔も酷いことになってるんだなと思って。
受け取ったハンカチを目に当てる。
冷たさが沁みて、更に涙が出た。
「・・・ごめん、なさい。・・・なんか、止まらなくて・・・」
いきなり泣き続ける自分に、きっとセイだって戸惑ってる。
そう思って言ったのだけど。
「かまわないよ。・・・それに、泣きたいだけ泣いたらいいよ。我慢することないから」
どんな顔をして言ってくれてるのかと思って、ハンカチをずらしてセイの顔を見ると。
とても優しい顔をして、こちらを見ていたから驚いてしまう。
「もしかして、あの後から泣くのは初めて?」
聞かれて、あの後というのはきっと記憶をなくした後ってことだと判断して頷く。
「そうか・・・それならなおさら、泣きたいだけ泣いて、全部出してしまえばいいよ。・・・知ってる? 泣くっていうのは一番のストレス解消なんだって。実際、涙にはストレス物質が含まれてて、泣くと涙と一緒に出ていってくれるんだってさ」
言いながら優しく頭を撫でてくれる。
すごくホッとして、だけどまた涙が出た。
・・・そっか、私はずっと泣きたかったんだ。
最初はリュウへの苛立ちや、そのあとはわけのわからない感情に振り回されて涙が出たけど、今はちょっと違う。
あれからずっと不安で、周りの環境についていくので精一杯で。
リュウや母親が気遣ってくれていても、やっぱりどこか心細かった。
不安で不安で、だけどみんながヒカリを気にかけて心配してくれていることがわかっていたから、不安を口にするのすら我慢していた。
だって、言ったって泣いたって、現状は何も変わらない。
それどころか、周りのみんなを余計に心配させるだけだと思って。
けれど・・・。
セイに頭を撫でられながら泣いていたら、不思議と落ち着いてきた。
壊れたみたいに止まらなくなっていた涙腺も、気づいたら落ち着いていて。
現実はなにも変わっていないのに、なぜだろう、泣いただけなのにすごく気持ちが落ち着いた。
頭や背中を撫でてくれていたセイの手のひらの温かさがじんわりとしみこんだみたいに、心がホッとするのを感じる。
やっと止まった涙をハンカチでぬぐってセイを見ると、ふっと微笑まれて。
なんだろ、これ・・・セイの顔を見ると安心する。
「ありがとう・・・セイ」
笑みを向けると、ちょっと驚いたみたいに目を丸くして、ついでホッとしたように笑って。
「溜め込むのが一番良くないからね。・・・不安とか、不満とか、口に出すだけで楽になったりするんだよ。・・・なにかあるなら言ってごらん? 優しいお兄さんが、今なら出血大サービスだ。ただで聞いてあげるよ?」
少しおどけて言うから、おかしくはないけどその優しさにほっこりして、くすくすと笑みをこぼす。
・・・言ってもいいのかな?
こんなバカみたいに泣き続けた自分を受け止めてくれたセイなら、もしかしたらずっと不安に思っていたあのことも、おかしいと思わずに聞いてくれるかもしれない。
言ったって、解決するものではないだろうけど、でも言うだけでも楽になるなら聞いて欲しいとも思った。
・・・でも。
「・・・言ったら、セイの負担にならない?」
セイは一瞬、目を丸くして本気で驚いた顔を見せて、そして苦笑する。
「・・・そんなことは気にしなくていいんだよ。こんなときくらい、素直に甘えなさい」
ぽんぽんと頭を撫でられて。
なんか、すっごく子ども扱いされている感じがして、恥ずかしくなってうつむく。
泣いて、慰められて、じゅうぶん甘えてる気がするんだけど・・・。
でも、甘えついでに言ってしまってもいいのかもしれない。
・・・本当は、もう一人で抱えるのは限界だったから。
「あのね、セイ。・・・私、自分が・・・ヒカリだとは思えないの」
「・・・は・・・え?」
よほど予想外の言葉だったのか、セイはちょっと間の抜けた声を出した。
本当に意味がわからないという顔をされて。
「・・・だから、今の私は記憶がないって言うんじゃなくて、本当はぜんぜん別の人間の人格がこの体に入っちゃっただけみたいな・・・うまく言えないんだけど。・・・とにかく、私はヒカリじゃないの!」
伝わらないことがもどかしくて、最後はちょっと言葉が荒くなる。
ああ、やっぱりこんなの絶対にヒカリらしくないよ。
「・・・ああ、なるほど、そういう意味か」
ようやく言いたいことが理解できたのか、小さく呟くように言うと、じっとこちらを見つめてくる。
どこか観察するような視線に思わずたじろぐ。
いきなり、『ヒカリじゃない』なんて言ったんだから、そのくらいの視線を向けられるのはしかたない。
視線を受け止めて、ごくりと唾を飲み込むと。
セイはくすりと笑みをこぼして。
「まったく、面白いことを考えつくもんだね。・・・まあ、らしいといえばらしいか・・・」
呟くように言われた言葉は、独り言なのか、意味が良くわからない。
「・・・セイ?」
「それで、君は記憶が戻ったら、今の自分はどうなると思ってるの?」
「え? ・・・わからないけど、・・・きっと、ヒカリが戻ったら・・・いなくなると思う」
どこにいってしまうかはわからないけど、ここにはいられないんだろうって漠然と思っていた。
「そっか、じゃあ・・・自分がいなくならないために、本当は記憶を取り戻したくないと思ってるとか?」
真顔で、思ってもみないことを言われて慌てる。
「そんなことないわ。・・・だって、私はあくまでも偽者で、ここに居ていい理由なんてない。・・・みんなが望んでいるのはヒカリが戻ることでしょう? ・・・リュウだって・・・」
ヒカリのことを待っているはずだ。
こんなまがい物の自分を、それでもヒカリだからと、ずっと守ろうとしてくれている。
・・・早く本当のヒカリに戻ってきて欲しいって思ってるはずなんだから。
ここに、私の居場所なんてないんだ。
また、泣きそうになってうつむく。
そこに、セイの大きいため息が落ちた。
びくっとして、おそるおそる顔を上げると。
「本当に、君は・・・」
ぽんぽんと頭を撫でられて、驚く。
苦笑交じりに呟いた、その顔が、すごく優しくて。
ホッとするのと同時に、少しどきっとした。
「もしかして・・・今回、泣くきっかけになったのも、それと関係あるの?」
聞かれて、少しためらってから頷く。
結局、話し出したらごまかすのも難しくなって、事の顛末を洗いざらい・・・リュウに八つ当たりみたいにどなりちらしたことまで白状させられた・・・うう。
「・・・なるほどね」
話を聞いたセイは、少し考え込むように腕を組む。
その表情は思案気で、ぜったいにからかわれると思っていたからちょっと驚いた。
「セイ?」
ずっと考え込んでいる様子に不安になって声をかけると。
「うん、ああ・・・ごめん、なんでもないよ」
言って、ごまかすように笑顔を見せる。
気にはなったけど、セイは最初からそんな調子だったから、きっと訊いても答えてはくれないだろうなと思った。
「で、君はリュウ君とケンカしちゃったわけだね・・・明日からは本当に一人で登校するつもり?」
聞かれて、少し後ろめたい気分になってうつむく。
「ケンカっていうか・・・一方的に私が八つ当たりしただけだし・・・」
落ち着いて思い返せば、リュウはだたヒカリを心配していただけで、なにも悪いことなんてしていない。
今の私が蔑ろにされてるなんていうのは自分の勝手な言い分だ。
それなのに、怒って泣いて困らせて・・・逃げるように先に帰るなんて、ひどいことをしてしまった。
「私、リュウに謝らないと」
顔を上げていうと、セイは少しホッとした顔を見せて。
「それがいいよ。それに、実は明日はちょっと迎えにこれそうにないんだよね。・・・君がしっかりしてるのはわかっているけど、やっぱり記憶がちゃんと戻るまでは、外ではできるだけ一人になって欲しくはないな。・・・昨日みたいに急に倒れる可能性もあるしね」
言われて、はっとする。
リュウには一人で大丈夫とか大きな事を言ったけど、昨日はセイにも母親にもすごく心配をかけた。
本当は、今朝登校するときに、母親がすごく心配そうな顔をしていたのにも気づいていた。
それでも、なにも言わずに送り出してくれたのはリュウが一緒だったから。
それに、もしかしてセイが昨日に引き続きこうして迎えに来てくれたのも、昨日の事があって心配してくれていたからなんじゃ?
そんなことすら気づかなかったことに落ち込む。
だけど、落ち込んでばかりも居られない。
落ち込む暇があるなら、早くヒカリの記憶を取り戻さないと。
たとえ、今の自分が消えてしまっても、それが本来あるべき姿なんだから。
「・・・うん、わかった。ちゃんとリュウに謝って、明日からも一緒に登下校してもらうわ」
セイはちょっとホッとした顔をして。
「でも、無理はしないこと。・・・今日みたいに泣きたいときも遠慮なく頼ってくれていいからね」
優しい言葉に気持ちが落ち着く。
自然に笑みが浮かんで。
セイと居ると楽だなって思った。
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