Sugarless Love
深夜の部屋に、くしゃみの音が響いた。うあーと情けない声を出しつつ、俺がティッシュに手を伸ばしたのは夜も夜、既に三時を過ぎたころだった。
「うー、さみぃ。……えぐしっ」
さっきより少々盛大なくしゃみ。涙で、ノートやらプリントやらの文字がにじんで見える。
試験三日前。徹夜二日目。冬の夜。ろくろく暖房の効かない部屋。まぁ、起きるべくして起こった事態だろうとは思う。二時間前の悪寒を感じたとき、やっぱりやめておくべきだったんだ。
うー……と、また手を伸ばし、ティッシュをつかみ出す。
だいぶ減ってきている。さっき開けたばかりだったのに。
消しカスや計算用紙も一緒にゴミ箱へ放ったついでに、壁の時計を見上げたそのとき、不意にドアが開いた。
――――誰?!
……と振り返ったって、こんな時間ノックもなしに入ってこようなんて人は、
「柚樹っ。えっ、あんた一体どういうつもりなのっ!」
……やっぱり。姉さんぐらいしかいない。しかもえらい見幕だ。
「うるさいったらありゃしない。さっきっからもう、せきだのくしゃみだのひっきりなしに、冗談じゃないわ。安眠妨害もいいとこよ。気になるったらない――――」
「すっ、すいませんッッ。でっ、でもあの落ちっ、落ち着いてください、声が大き……」
「何ですって?!」
反射的に謝ってしまったものの……やばい。怒ってる。勢いに押されて、思わず机と背中がべたっと張り付いた。
「落ち着けですって? だったらすぐ、すぐそのくしゃみを止めなさい。寝られやしない。試験だか何だか知らないけどいい加減に寝なさいよ。しかもこんな寒い中にそんな適当な防寒?! ふざけんじゃないわよ。わざわざ人を起こすような風邪ひいてまで何やってんの! そんな試験勉強なんて、今すぐ! 今すぐやめてしまいなさい!!」
「ねーさん、でもあの……」
「うるさいっ!!」
完全に怒ってる。いやまぁそれも当然なんだけど、でもだからってこんなに怒るなんて。正直言って予想外だった。ぶちまけたって、せいぜい嫌味の一つでも言っておわりだろうと思っていたのに。
やばい、やばすぎる。このままじゃとんでもないことにもなりかねない。いや今でも充分にやばいんだけど。
「いっ、いえあの……、ごめんなさい」
たぶん今の俺、思いっきり引きつった顔してんじゃないだろうか。そう思いつつも、とにかく謝る。これ以上に説教なんてされちゃかなわない。
……と。気が済んだのか、
「……ほら」
何やら寄越してきた。思わず受け取ると姉さんは、
「じゃね。早く寝なさいよ。やるにしたって、あんたその状態は効率悪すぎ」
言うだけ言って、さっさと自分の部屋に戻っていった。
隣のドアが閉まる音を聞いて、ホッと一息つく。台風一過。ようやく渡されたものを見る余裕ができた。
「……って、風邪薬?」
と、水。え、えーと……。なんで?
薬とコップを手に数分間、俺は思いきりパニくっていた。
え、なんだこれ。いや、風邪薬ってのはわかる。たしかこれって、いっつも買い置きしてあるやつだよな。うん、それはわかる。問題は、なんで姉さんがこれを持ってきてんのかってことだ。あんな元気な人が風邪ひいてるわけないだろうし、むしろ必要なのは今の俺にだろ。……って、だからってそんな、あの姉さんが居間にわざわざ行くわけもないし。でもじゃあこの薬はなんだ、現にここにあるじゃないか。まさか、いや、でもそんなバカな。そんなこと有り得ない。有り得ない……が、しかし。じゃあこのコップはどう説明する。これこそ台所にまで行かなきゃないはずだろ。って、え、いやでもそんなまさか、ねぇ。
……って、嘘だろ? そのまさかだったりするわけ?!
「……マジかよ」
俺は、しばらく呆然としてた。まじまじと眺め続けてたその様子は、端から見たらこの上なく間抜けて見えたに違いない。頭の中は、思いっきりスクランブルだったけど。
とはいえ、そんな間にも体は冷えていってたようで。
「えぐしっ!!」
またくしゃみが出た。背筋がぞくぞくする。頭も痛い。やっぱし絶対エアコン壊れてるだろ、効きやしない。って今はそれどころじゃない。ここはひとつ、ありがたく……。
姉さんの厚意だなんて、未だに全く信じられないけど。
結局その後、俺はそのまま薬を飲んで寝た。熱は測ってないはずなんだが、三十八度の文字が見えた気がしないでもない。あれはたぶん、きっと気のせいだろう。
☆
試験前々夜。俺はどうやら、追い詰められても力が出ないタイプの人間らしい。風邪は治ったのに、もうどうにも無理っぽい。
――――今更やったって、なぁ……。
あくびついでに見上げた時計は、そろそろ日付が替わろうとしていた。きのうと似た、にじんだ視界。
「あきらめちゃおっかなー」
かなーとか言いながら、手はもうノートを閉じている。
というか、ここんとこの突貫工事のせいで今、そのツケが回ってきてたりする。なんていうか、つまり眠気ピーク。睡魔との勝負が現在進行形真っ最中で、少しでも油断したら「引きずり込まれ」てしまいそうだ。ま、もうしばらく我慢すれば抜け出せるとはわかってるけど……いや、でもほら。わかってるってのと実行するってのはまた別モノなわけで。ま、まだ明日あるしさ、全然だいじょぶだって。きのう結構やったし、明日少し遅くまでやっときゃ充分間に合うって。よゆーだって、うん。大丈夫……たぶん。
もごもごと口の中で言い訳しつつ、ふらふらと机の上を片付けてると……おや、ノックの音。
「はいはい。……誰? 母さん?」
いつもならもう寝てる人なのに、とドアを開けたら、
「ね、ねねっ、ねーさん?!」
予想外の人がいた。え、今日は俺、なにもしてないよ?!
「なに驚いてんの。別に取って喰やしないわよ」
怪訝な顔で、器用にも片方の眉だけを持ち上げている。
――――似たようなもんだよ。
とはサスガに言えず、出掛かった言葉をぐっと飲み込む。
え、もしか酒入ってんの? なんか顔赤いよこの人。髪に枯れ葉とかくっついてるし。……なにやってんだ、一体。
「いや、えーとあの、ちょっと意外で」
できるだけ当たり障りない言葉を探す。
「なんかコートから冷気出てるんだけど。今帰ったの?」
「だって母さん、今日に限ってなかなか寝ないんだもの。やっと電気消えたから、さっきね。ちょっと今日遅くなって十一時に家に着いたからさ、一時間中ずっと張り込みしてるようなもんだったわ。寒いったら、もう」
「は?」
どうもよくわからない。一体なんだってまたそんなことするんだ、素直に入ってくりゃいいじゃないか。
「だってさー、父さんほどじゃないにしても母さんだって遅いとかなんとか、あれこれ細かく言ってくるじゃない。いちいちほっといてよ、とか思うけどそうも言えないしさ。だからいっそ寝るのを待って忍び込もうかな、とね」
「忍び込もうかな、って、姉さんアナタね……。え、でも全然ドアの音なんて聞こえなかったけど」
「そーなんだよね。今日の出がけ慌ててたから、ついカギ忘れちゃって。しかもあんたまだケータイ持ってないしさ。うわーとか思って家の周りぐるぐる廻ってみたら、ラッキーなことにフェンス沿いの窓が開いてるじゃない。で、ちょっと高めだったんだけど、そこからなんとかね」
俺の姉さんて人は案外、ものすごく突飛な人なのかもしれない。もう俺は、へぇーとしか言えなかった。そんな理由で自宅侵入したりとか、普通はしない。と思うんだけど。
「ま、まぁいいんじゃないの? ともかく入れたんだし」
そんな俺に姉さんは、まぁね、とニヤッと笑って、
「で、あんたはもう寝るの? 机の上片づいてるけど」
ひょいっと部屋を覗き込んでそう言った。まーた勝手にこの人は、もう。こーゆーとこ昔っから変わってないな。
「え? あぁ、明日遅めまでやっとけばいいかと思って」
「ふーん、そう。ま、具合も良くなったみたいだし好きにすれば? まだ寒気する? 熱測ったでしょうね」
「へ? あ、うん。なんか大丈夫っぽい。平熱だったし。別に寒気もない」
「あっそ。ま、せいぜいお大事にね。じゃ」
葉っぱをつけたまま、姉さんは部屋に戻っていった。やっぱりあの人のテンポは、いまいちよくわからない。
明日の支度をせねばとカバンを開けた俺は、眠気が醒めていることに気付いた。いつの間にピークが過ぎたんだか、すっかり頭がクリアになっている。今更眠れるわけもなく、しょうがないから明日のものを詰めるだけは詰めて、もう一度机に向かうと、またノックの音がした。
いや、ノックじゃない。少し低い音。たぶん足で蹴っ飛ばしてでもいるんだろう。乱暴だな、もう。
「ちょっと柚樹ー。まだ起きてんでしょ。早くドア開けて」
もとい、なんて横着な人だ。
「はいはい、ただいま。なんですか……っと」
自分で開ければ? だの、今まで勝手に入ってきた癖に、だなんて言ったら後が怖い。我が身大事。こーゆー場合は黙って従っとくに限る。
ドアを開けたら、やっぱり両手のふさがった姉さんが立っていた。ただ、その、持ってるものが意外で。
「なによ。文句でもあるの?」
「いや別に。でも聞いていい? なにそれ」
「ケーキとコーヒー。見てわかんないの?」
いや、わかるけども。そういう問題じゃないです。
「あ、紅茶の方がよかったですか」
いやいや。そういう問題でもなくて。
「別に、ただの『お見舞い品』よ。……遅れたけど」
軽くそっぽを向きながら、姉さんが言う。
「さっきあんた見て、どうせもう少し起きてんだろうなって思ったのよ。実際いつまで経っても電気消えないしさ。別に明日渡したってよかったんだけど、ナマモノだし。傷んだら大事と思って、さっさと渡しとこうと思っただけよ」
ほら、と皿とマグが押しつけられた。コーヒーが熱い。
ケーキは、俺の好きなチーズケーキだった。
コーヒーは、少し濃いめに淹れてあるようだった。
その二つを持った俺は、じゃ、といったそっけない挨拶で閉められたドアに向かって「はぁ、どうもそれは」なんて言って、ずっと立ちつくしていた。
買ったばかりのケーキが、そんな急に傷むわけないことぐらい、考えなくったってわかってることだった。
二日後、試験一日目、数学・日本史・現代国語。
二日目、英語・生物・古典。
案外、終わってしまえば試験なんてあっけないものだ。
☆
答案が返ってきて、悪夢の「答え合わせ」がやっと終わったころ、今度は姉さんのほうが忙しくなってきたらしい。
「ま、いんじゃないの? 別に私には関係ないし。今の私には、そんなことに関わってる余裕なんてないの」
成績の報告にそう返されたのは、たしか一週間前。ここ最近の姉さんは、夕食もそこそこに部屋に戻る。
隣の部屋からはエアコンの稼動音にプリンタの印刷音。CDはエンドレスに流れ続け、ベランダ越しの明かりは俺の起きている間に消えるのを見たことがない。なんでも、「レポート提出とゼミ発表が重なった」らしい。きのうの夜、ちらっと見た姉さんの机の上は、山ほどのプリントと資料にパソコンが埋もれんばかりだった。
「うー……。もう無理かもしんない。レジュメはなんとかなったんだけど、レポートあと二つも残ってんだわ。週明けの明日が提出なのにどうしろってのよ〜〜〜。絶対これヤバイって」
姉さんがコーヒー片手に、台所のテーブルでつっぷしていたのはその翌朝のことだった。今朝も徹夜明けらしく、目の下には隈ができている。
テーブルにぐたりとへばりついて、
「そんなに大変なんだったら、もっと早くからやっとけばよかったんじゃないの?」
「風邪ひいてまで徹夜してたアンタが言えるの?」
じろりと睨みつけてきた目は、正直ちょっと怖かった。
「ま、なんとかなるっしょ。まだあと一日あんだと思って書けばいいじゃん」
「あんたヒトゴトだと思って……」
「だってヒトゴトだもん」
ふふんと笑って部屋を出る。恨めしそうな視線が背中に痛かった。
「もうイヤだ〜〜〜!!」
その日の夜。そろそろ寝ようとしていたら、どこからかそんな叫び声が聞こえてきた。少しばかり声に必死さが混じっているような気がする。音源はパソコンとCDのほうって、なんだ。姉さんか。
もう落としちゃおうかな〜だの、やっぱ昼寝しすぎたか、だのという、なんとも情けない声が歌詞の合間に聞こえる。こないだの飲み会帰りとは、えらい違いだ。
聞かなかったことにしてベッドに潜り込んだ。いちいち気にしてなんていられない。
「はぁ。ごくろーさまです」
まぶたが重く、大きくあくびを一つして、寝ることにし……たのだが。
「ちょっ、もう無理だって!! 間に合わないって!!」
「…………」
寝ようとしてから数時間。俺はまだ一睡もしていない。うとうとするたびに、ご丁寧にも隣人の声が邪魔してくる。
なんだこの壁。こんな薄かったっけ? しかもさっきよか声必死じゃないですか。
――――よっぽど切羽詰まってでもいるんだろうか。
どうにも気になってしょうがない。レポートってそんなに片づかないものなわけ?
「…………。ったく、もう」
舌打ちを一回して起き上がった。
「うー……、さみぃ」
背中がぞくりとする。やっぱこのまま寝てたいかも。
「ったく。踏んだり蹴ったりじゃんかよ」
しょうがねぇな、と廊下に出ると、フローリングの床がぺたりと足に冷たかった。
☆
午前四時、外はまだ暗い。
きっとそのうちに、カーテンの隙間もうっすら明るくなってくるんだろう。あぁ、時間がない。いや、下書き原稿はできたが一体清書するのにどのぐらいかかるものか。間に合わなかったらどうしよう、単位がもらえない。教授め、なんだ、いまどき「レポートは手書き以外は受け付けない」って。
パソコンのプリンタからレポートの原稿が出てくるのを見て、私がそんなことをぐったりと考えていたそのとき、ノックの音がした。
不機嫌なまま、返事もせずにドアを開ける。
「……俺だけど」
腕組みした弟が立っていた。
「そんなの見りゃわかるわ。なんの用よ」
「あのね姉さん。うるさいんだ、いい加減寝てよ」
呆れたようにこっちを見やってくる。
「うるっさいわね。まだ清書があんのよ。それやんなきゃ終わんないの!」
「いや、そんなの俺には関係ないし」
即答、しかも正論。肩すかしを食らって、なんだか妙に腹が立った。いっそ言い争う気でいたのに、リズムが狂う。
「…………。冷たいわね、あんた」
予想外の動揺を隠して、短く言い捨てる。
「いーえー、そんなのお互いさまなことじゃありませんか。なにを今更」
にこやかな上っ面に比べて、口調はひどくそっけない。
なんだか空しい気分になって、わけもなく泣きたくなった。
「それよか、なに、清書終われば寝てくれるわけ?」
慇懃な笑いは引っ込めて、同じ口調のまま聞いてくる。……弟の前で泣くなんてそんなみっともないこと、できるわけがない。
「うん。……清書が済むまで、ごめん。我慢して」
声が震えて聞こえたのは、きっと気のせいに決まってる。せめて目を合わせないようにして答えたら、
――――清書なら、俺が書いてやるから。
なんだか、とんでもないセリフが聞こえたような気がした。
「は?」
思わず振り向いてしまった。出掛かった涙が引っ込む。
まじまじと柚樹の顔を眺めたら、
「大丈夫、字はまともに読めるほうだし」
普通に真面目な顔だった。……って、そうじゃなくて。
「徹夜続きなんだろ? あんまし体に悪いんじゃないの?」
いやいや、そういうことでもなく。どうしたのさ急に。
「言ったっしょ? 俺はね、姉さんに早く寝て欲しいの」
あっけにとられた私に向かって、柚樹はニヤッと笑ってそう言った。
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