第1話 大自然の元気いっぱいの男の子
これは、今から約300年前の江戸時代中期が舞台のお話である。
その場所は、三河・駿河・信濃の3つの令制国(※)の国境にあるが、山林と急流に囲まれていることもあって、開拓があまり進んでいない場所である。しかし、開拓が進んでいないが故に、手付かずの自然がそのまま残っているのもまた事実である。
そんな手付かずの自然の中に、ある1軒の小さい家があります。その家は、外壁が少しボロボロとなっているのを除けば、どこにでもありそうな農家と変わりありません。
その小さい家の庭を挟んだところに便所があります。その便所は、板葺きの屋根で板張りの外壁という外観となっており、開き戸は全体を覆っている形となっています。そして、その中をのぞいて見ると、竹張りの床の真ん中に長方形の穴が切り抜かれています。床が竹張りとなっているので、歩いただけでギギッという音がかすかに聞こえることや、開き戸が閉まると薄暗くなることもあり、普通の子供だったら便所へ行ってもすぐ逃げ出しそうな雰囲気となっています。
山林と急流に囲まれた山奥にも、暑い夏がやってきました。
山奥の大自然の中にある小さい家から森の中へ入ってしばらくすると、目の前に切り立った岩壁があります。その岩壁の向かい側には大きな滝があり、滝から流れ落ちる大量の水は滝つぼの中へ一気に落下していきます。その滝つぼは、まるでエメラルドそして、岩壁は滝つぼよりもかなり高いところにあり、その高さは約60尺(約18m)もあります。この岩壁は、一歩でも足を踏み外したら、普通の人間だったら死んでしまう可能性も十分あり得るところです。
その岩壁があるところに、1人の男の子が駆け足でやってきました。その男の子は、金太郎みたいな青い腹掛け1枚だけつけています。そして、その腹掛けには「五」という漢字が記されています。
「よ~し! 今日もあの滝つぼまで一気に飛び込むぞ!」
男の子は、普通の大人でも二の足を踏んでしまう岩壁を自分の足で軽々と登りました。どうやら、岩壁からそのまま滝つぼのところまで飛び込もうとしています。
「お~い! 五助どの、滝つぼへ飛び込むのはやめてくださいませ…」
そこへやってきたのは、甚兵衛という50代ぐらいの少し年老いた男性です。甚兵衛の格好は、村に住んでいる武士が着ている和服を着用していますが、山林の中でも動きやすい服装をしています。どうやら、五助という男の子が滝つぼの中に飛び込むのをやめさせたいと考えているようです。
しかし、五助はそのまま岩壁から滝つぼに向かって飛び込みました。五助は、途中で1回転してから、滝つぼへ見事に飛び込むことができました。
滝つぼに飛び込んだ五助は、すぐに水面から顔を出しました。そして、水中へ飛び込みをすることに成功したので、明るい笑顔を見せながら喜びの表情を見せました。
すると、滝つぼに飛び込んだことを心配した甚兵衛は、慌てた様子で大きな滝があるところまでやってきました。
「五助どの、いくら泳ぐことが大好きなのは分かるけど、岩壁から滝つぼへ飛び込むのは非常に危険だから…」
「じいや、こっちへきてきて! ぼくは、今日も高い岩壁から滝つぼに飛び込むことができたよ!」
甚兵衛は、五助が岩壁からの飛び込みは非常に危険であると注意しようとしますが、五助は、うれしさのあまりに岩壁から滝つぼへ飛び込んだことを自慢しています。
「だって、こんなに暑い夏なんだから、ぼくは滝つぼの中で泳いだり遊んだりすると気持ちいいよ」
五助は、蒸し暑い夏真っ盛りの中で、冷たくて気持ちがいい滝つぼで泳いだり遊んだりするのが大好きです。水が大量に流れ落ちる大きな滝のところまで泳いでいった五助は、その大きな滝の水を両手ですくいました。
「うわ~い! いつもいっぱい飲んでいる滝の水は、冷たくておいしいぞ!」
「五助どの、こんなに水ばっかりいっぱい飲んでいると…」
「こんなに暑い時であっても、ここだったら冷たい水がいっぱい飲み放題だよ!」
五助は、両手ですくった滝の水をいっぱい飲み始めました。暑い夏真っ盛りの中、滝の水は冷たくておいしいので、五助は滝の水を何回も何回もすくいながら飲み続けました。
「やれやれ、五助どのは困ったことに無鉄砲すぎるんだよなあ。でも、山の大自然の中では、野生児のように元気いっぱいに育ったほうがいいかも」
これを見ている甚兵衛は、無鉄砲すぎる五助の行動に困った顔つきになる一方で、大自然の中では五助が野生児みたいな元気いっぱいの子供になってほしいという思いもあり、心の中では少し複雑な思いをしているようです。
甚兵衛が五助に対して複雑な思いをしているのは、五助にはまだ何も言っていないある秘密があるからです。
実は、この五助という男の子は、有力大名である山久保義友の実の子供であり、また同時に長男であることから義友の後を継ぐ立場にあるのです。しかし、五助を産んだのは義友がまだ正式に結婚する前のことです。
もし、結婚前の出産が江戸幕府に知れ渡ると、義友が持っている自分の領地が取り潰しになる可能性があることから、義友はかつて自分の家臣であり、現在はこの山奥で暮らしている甚兵衛に五助を育ててほしいと懇願しました。甚兵衛も、かつて義友に仕えていたこともあり、父親代わりとして五助を育てることを決心しました。
それ故に、五助は実の父親である義友の顔も名前もまだ知りません。五助にとっては、甚兵衛が自分にとって唯一の肉親だと思っているそうです。ただ、甚兵衛が元々武士であったことから、五助は立派な武士になるための様々な稽古を毎日行っています。
「えいっ、えいっ、えいっ」
「五助どの、いつものように相撲の稽古に励んでいるなあ」
五助は、山奥にある小さい家のそばにある大きな木で、てっぽうの稽古をしているところです。その大きな木で、五助は右手と左手の突っ張りを繰り返しています。
「じいや、ぼくの右手と左手の突っ張りはこの形でいいのかな?」
「突っ張りのやり方は、五助どのがやっているやり方で問題ないと思うぞ。これだけ稽古をすれば、一度わしとここで相撲を取ってみないかな?」
「じいやがそう言ってくれるなら、ぼくもいっしょにお相撲をしてみるよ!」
五助は、甚兵衛に突っ張りの稽古でアドバイスをもらおうとしましたが、甚兵衛は自分が教えなくても五助のやり方で問題ないとやさしい口調で言いました。そして、甚兵衛は自分と相撲で勝負しないかと五助に呼びかけました。五助も、甚兵衛の呼びかけにすぐに反応すると、すぐに地面に木の枝を使って丸く書いて簡単な土俵を作りました。
「どれどれ、五助どのがどんな相撲を取るのか、今から楽しみだなあ」
「じいやには絶対に負けないぞ!」
五助と甚兵衛は、お互いに見合いながら相撲の取組みが始まりました。
「はっけよい、のこった」
「じいや、えーいっ!」
五助と甚兵衛は、土俵上でぶつかり合いますが、五助は「えーいっ!」と力強い声を上げながら甚兵衛を軽々と上手で投げました。五助に投げられた甚兵衛は、そのまま土俵の外へ投げ出されてしまいました。
「やったぞ! じいやにお相撲で勝ったぞ!」
「五助どのがこんなに強くなっているとは、こりゃあ頼もしいお侍さんになれるぞ!」
甚兵衛に相撲で勝った五助は、とても大喜びしています。五助のあまりの強さは、甚兵衛自身も感じているようです。甚兵衛は、心の中で五助が立派な大名の後継ぎになれるかもと感じているようです。
「でも、このお布団を見る限りだと、五助どのは9歳になってもまだまだ子供っぽいですなあ」
甚兵衛は、物干しのところに干してあるお布団を見ています。そのお布団には、大きな薄黄色のシミが浮かび上がっています。これを見ると、どうやら五助はお布団におねしょをしていたという証拠であるようです。
「じいや、ごめんごめん。でも、きょうのでっかいおねしょもすごいでしょ!」
「五助どのは便所へ行くのと妖怪を見るのが非常に恐がっているし、夜中に便所へ行っても恐がってそのままお布団の中にもぐりこんだままで朝を迎えるからなあ」
あれだけ元気で強い男の子である五助にとって、便所へ行くことと妖怪を見ることを非常に恐がっているそうです。夜中におしっこするために便所へ行っても、すぐ恐がって部屋の中にすぐ戻って布団にもぐり込んだままで朝を迎えます。
そして、朝を迎えた五助のお布団と青い腹掛けには、見事にでっかいおねしょの地図をやってしまったのです。子供っぽさのシンボルであるおねしょをやってしまった五助は、いつも恥ずかしがりながらも元気な笑顔を甚兵衛に見せています。でも、甚兵衛はおねしょしちゃった五助を叱りつけることは決してありません。
五助がおねしょしちゃっても、甚兵衛はやさしい言葉で接しながら、五助のおねしょ布団を物干しに干しているのです。五助のおねしょ布団は、子供っぽさがまだ残っている一方で、五助がいつも健康で元気いっぱいである証拠です。
(※)三河は現在の愛知県東部、駿河は現在の静岡県、信濃は現在の長野県のことを指します。