下
ひな人形が、怖かった。
闇に沈んだ和室の片隅に、ぼぅっと白い顔が浮かんでいる。
血のような絨毯に鎮座した15人の幽霊が視界に入った途端、お腹の底から冷たいモノが広がっていった。覚束ない行燈なんて、火の玉みたいに恐ろしい。だから私は、和室に背を向けて歩いていた。お前とは、かかわるものか!と念じながら夕飯を噛みしめたのをよく覚えている。
でも、昼間のひな人形は好きだった。
陽向の香りに沈みながら、ひな人形を眺める。
赤や緑の彩錦を纏い、珊瑚を装飾した黄金の冠をつけた女雛と、普通は目をむけない裾にまで刺繍を織り込まれた男雛に惚れ惚れとし、子どもながらに豪華な衣装だと感心したものだ。
桃色の装束をまとった三人官女が凛、と背を伸ばしている姿に、あんな大人の女性になりたいな、と憧れを抱いた。ほんのりと頬を赤く染めた左大臣は、優しい祖父の顔を思い出して、子どもながら懐かしい気持ちに浸る。3人仕庁の顔は、それぞれ近所の人にそっくりで吹き出してしまいそうだ。
目を閉じて耳を澄ませれば、5人囃子の奏でる楽が聞こえてくる。
そのうちに、本当に桃園に御呼ばれしている気持ちになってきた。
和室に漂う香りに包まれて、夢うつつを彷徨う。
あぁ、なんて心地の良いのだろう。
だけれども夜が訪れた途端、どの雛も幽霊へと変わってしまう。
昼間は温かかった和室も、ふすまを滑らせ覗く気にもなれない。電気をつけて、『幽霊』という幻想を壊す気にもなれなかった。
ふすまをビシッと閉めて、寄り付かないように背を向け続けていた……。
これは、私が心に秘めた『雛祭り』の思い出だ。
他の職員たちと人形を取り出しながら、ふっと顔がほころんでしまう。
「先生、笑っていますね」
顔の整った少女が、よたよたと近づいてきた。
記憶をたどるまでもない。手先の訓練ということで、一緒に紙雛を作成した少女だった。
「あぁ、私の雛人形について思い出していたんだ。
かなり骨董品、といってもおかしくない雛人形だったんだけどね。とっても美しかった」
今でも瞼の裏に浮かんでくる。
覚束ない行燈の中、象牙の杓を構えた男雛と、その隣に慎ましく鎮座する女雛。
右近の橘に左近の桜も静かに栄え、蒔絵の箪笥も、金箔に螺鈿を散りばめた屏風も、怪しげに浮かんでいる。
……和室のあの一角だけ、異世界だった。
『幻想的』とは、まさにあのことを言うのだろう。
子供の頃はただ『怖い』と感じていたが、それが『美しい』と感じたのは何時のことだっただろうか?きっと、人形を人形だと認知したから、『美しい』と感じたに違いない。自分で納得しながら、作業を続ける。
「美しくて、怖かった?」
「……お前、何故そんなことを言うんだい?」
私は、少女に尋ねた。
すると、少女は淡々と
「303号室の方から聞きました。雛人形とは、美しく怖い。両立する感情が湧き上るものなのだ、と」
その返事に、私は大きくため息を吐いてしまった。
「あの303号室に行くな、と私は命令したはずだぞ?」
少女の固い頭を叩き、インプットさせるように強い口調を心掛けた。
この少女は、もともと介護用だった。だから、巡診機能が付いている。いまだに他の病室へ尋ねに行く機能が抜けないらしい。いや、別に他の病室を訪ねるくらいはしてもいいはずだ。でも、あの303号室だけはだめなのだ。
「あそこの患者が、おかしいからですか?」
「まぁ、そうだ。うつるといけないだろ?」
「不調が伝染する、ということですか?」
「まぁ、そんなところだ」
物わかりがイイことは、この少女の利点だろう。
私は、小さく息を吐いた。
「いくらアンタ達が『ロボット』だからといって、303号室の不調は伝染する可能性があるからね」
少女たちロボットに、感染症はない。
この『国立ロボット病院』は、不調を起こしたロボットを社会に更生するために作られた施設だ。
簡単に言えば、壊れた機能を修理する『手術』をメインとした『病院型の工場』だ。
例えば、この少女は手先の電子神経が切れてしまった。いまでこそ、折り紙を折れるほどまでに回復したが、ここに輸送されてきた時には手を使えないといっても良かった。
そろそろ、元々彼女が働いていた病院に送り戻しても問題ないだろう。
「303号室の不調は何なのですか?」
看護ロボットらしく、303号室の病状が気になるのだろう。
もともと、あのロボットの製作者は『私』であり、あのロボットの管理のために、私はこの病院へ移籍したといっても過言ではないから、別に話したところで問題ない。
「あぁ、あれは『感情機能障害』さ」
「感情機能?」
「元々は優秀な療法ロボットだったんだ。
アニマルセラピーを知っているか?動物と触れ合うことで、精神的な回復を図る療法さ。
しかし、ペットだと糞や尿、餌の処理が大変で年寄り向きじゃない。そこで、感情を備えたロボットの開発が急がれた。
303号室は……最初の成功例だった」
しかし、壊れてしまった。
人間と同じ『心』を持ったロボットは、脆くなってしまった。
303号室のロボットは、心に不調を起こし、妄想に取りつかれるようになってしまった。
「303号室の感情や記憶に関するデータを提供したのは、私だからね。
このまま処分するのももったいないと思い、少しでも直せないかとあれこれ手を尽くしてみたんだが……」
他のロボットとは違い、『美しい』や『怖い』を感じることが出来るロボット。
改良化が進めば、涙を見せることだって可能だろう。
だけど、そうすればそうするだけ、ロボットは脆くなっていく。もともと、『美しい』や『嬉しい』という感情の類は、人間が脆いからこそ生まれる。ただ電子知能を突き詰めたロボット……たとえば、目の前にいる少女型看護用ロボットには、そんな機能が備わるはずがない。
「感情を持ったまま、脆くならないロボットを開発しなければいけない」
それが、私たちに課せられた課題だ。
だからこそ、あの303号室のロボットを研究しなければならない。心を治す方法は、まだ見つかっていない。
古い文献を紐解けば、第二次世界大戦の頃に『ロボトミー』という前頭葉を削ることで治そうとする研究があったらしい。極めて分かりやすく、単純かつ当然の発想だ。呼吸が荒くなれば、肺という器官を調べればいい。虫歯になれば、歯を治療すればよい。だから『心』が悪くなれば、『心』を作り出す器官を治せばいいだけのことだ。
しかし、そんな骨董技術は『非人道的』『治る可能性の方が少ない』。ゆえに、人間の脳をいじくる研究は皆無と言ってよかった。
では、どうやって『心』という器官を治すのだろうか。薬物投与に伴う『人体実験』も『非人道的』と叫ばれ、今ではカウンセリング療法の研究が進められている。カウンセリングも被験者を使った人体実験が行われているというのに、皮肉な話だ。
だが、感情が芽生えたとはいえ、あれはロボットだ。
少しくらい壊れるような真似をしたところで、修理すればいい。
いや、むしろ壊れてもいい。誰もが恐れる人体実験では得られない研究データを、私は手に入れることが出来る。そう、もともとそのためにロボットがいるのではないか?
「あのロボットは、この病院を刑務所と誤認していましたが?」
少女は、尋ねてくる。
私はプラスティック製の嫁入り道具を飾りながら、小さく笑った。
「303号室の記憶や感情データは、元を正せば人間のモノだ」
「それは分かります」
「だから、自分を人間だと勘違いしているのさ。 深く考えるな、飲み込まれるぞ」
「分かりました。詮索機能を停止させます」
ぷつん、という音とともに少女は、303号室のロボットに関する詮索を辞めた。
「手伝いましょうか?」
「いやいいよ。いくら扱いやすくなったとはいえ、雛人形は高級な品だからね。
それに、もう終わったから」
7段飾りの雛人形。
どことなくのっぺりとした顔は、オリエンタルな雰囲気を醸し出していた。
でも、幼い頃に感じた『美しさ』や『怖さ』を感じ取ることが出来ない。
鑑賞時の心理状態や周囲の環境によって、人形から受け取る感情が違うと思っていたが……もしかしたら、人形そのものの本質によって、受け取る感情が違ってくるのかもしれない。
そこそこに高級な雛人形のはずなのに、薄っぺらく感じてしまった。
ただ行儀よく座った15人の人形を、なんとなく眺めていると部下の技術者が駆け寄ってきた。
「先生、そろそろ午後の巡診の時間です」
私は小さく頷くと、雛段を熱心に見つめる少女型ロボットを振り返った。
少女の目は、燃えているみたいだった。何かを感じ取ろうと、必死になって見つめている。 ロボットのあのような眼は、初めて見る。あのロボットは、感情機能がないはずなのに……。
私は、少し目を細めた。あのロボットに興味がわいてくる。私は、ゆっくりと少女に近づこうとした。 しかし、時間は待っていてくれなかった。部下は私の袖を乱暴に引くと、面倒くさそうに時計を差す。
「先生、時間ですよ。早く行きましょう。それとも、何かありましたか?」
「……いや、なんでもない。さっさと行くか」
私は部下を連れて、廊下を歩き始める。
それっきり、私は少女を振り向かなかった。彼女のことは一先ず忘れることにした。 半ば機械的に、かなり大股で、自分の仕事へと戻っていく。
そろそろ、もう少し踏み入った治療を行うべきかもしれない。 人道的な人体実験では危険すぎる薬物の投与を、あの303号室のロボットで模索してみようか……と思考しながら。
夕暮れ時の静かな廊下。
かつん、かつんと、時を告げる足音が響き渡った。