上
この監獄は、不思議だ。
一面、白で覆われている。
時折、黒も混ざっているが、そのアクセントが言い表しようもないくらい気持ちが悪い。それでも、黒で縁取られた窓の向こうには、素敵な世界が広がっている。藍色に、澄んだ青に、橙にと、心地の良いくらい変化する世界。
そこには、純粋な白も黒もなかった。
いつも、絶えず色が混ざり合って、眺めているだけで心地が良い。だから、あの窓の向こうへ行ってみたかった。身を乗り出して、窓を越えたい。美しい世界に降り立って、裸足で走りまわりたい。
ここにいて、訳も分からぬモノトーンな奴から支配され、動かされるのはウンザリだった。
早く、こんなところから抜け出したい。抜け出して、解放されたい。そんな思いは、日に日に膨れるばかりだった。
……だけど、そんな自由は許されない。
「鍵さえあれば、窓から出られるよ」
いつもの女性が、そう告げた。
煙草を吹かす女看守は、白一色で覆われている。いや、輪郭だけは黒い。だから、存在を認知することが出来た。
「鍵は、どこにあるんですか?」
ダメもとで、いつも通り尋ねてみる。
たぶん、女看守は鍵のありかを知っている。だけど、女看守は硬い表情のまま首を横に振った。決まりきったやり取りに、今日も落胆する。女看守も、いつものやり取りに気怠さを感じているのかもしれない。うんざりといった声色で、それでも普段通りに答えてくれた。
「教えたら、出るのだろう?」
「当然です。僕は、免罪なんですから」
僕は、殺人を犯したことになっている。
血のつながった妹を殺したらしい。実際に、目の前で鮮血が飛び散る様も視たし、糸の切れた人形のごとく倒れるのも記憶している。信じられない、と大きく開かれた目から、ゆっくりと生気が消えていくさまだって、ありありと思い出すことが出来た。
うむ、間違いなくあれは実際にあったことだ。だけど、僕はやっていない。
「何度も言っているでしょう、看守さん。
僕は免罪です。あれは、あのウィリアム・ウィルソンが僕を操ったのです」
「操るねぇ」
女看守は、真剣そうにうなずいた。
でも、それは嘘だ。何度も話しているが、真剣に聞いているふりだけ。彼女は、他の人たち同様、僕を犯罪者だと信じ込んでいる。どんなに説得しても、彼女たちはのらりくらりとかわし、この殺風景すぎる刑務所に僕をブチ込んだ。
「だがなぁ、少年。ウィリアム・ウィルソンは……」
「存在するわけない、でしょ?聞き飽きました。
でも、実際にそうなんです」
半ば諦めの境地に立った僕は、ざっくばらんに言い返した。
僕が、あんなこと出来るわけがない。携帯音楽機のイヤホンを巧みに操り、彼女の首を絞め殺す。彼女の首が不自然な角度で曲がった瞬間に、隠し持っていたカッターナイフで、滅多ざしにするなんて、たんなる高校生に過ぎない僕に出来るわけがないのだ。
100%、あのウィリアム・ウィルソンが僕を操って犯した事件だ。僕は、犯していない。
どこをどうやって操られたんだって方法は、僕には説明できない。だけれども、操られていたのは事実だ。だから、認めるしかないのだ。
「君は……いや、いい。
鍵を探すのを、諦めろ。自由に動くことは認めているが、出ることは許されない」
いつも通りの決まり文句を残し、女看守は去って行った。
かたんっと軽い音を立てて閉じられた白い扉を一瞥すると、僕は再び色彩鮮やかな外を眺める。この風景だけが、僕の癒しであり……そして、救いだった。
「あのぅ……」
しかし、そんな居心地の良さを崩壊させる声が聞こえてきた。
僕は怒りに身を任せるように、振り返ってハッとなる。
そこにいたのは、窓の外の風景のような少女だった。髪は月光のように滑らかで、人形のように顔かたちが整っている。僕は、口をあんぐり開けて彼女を見つめた。
「何をなさっているのですか?」
いつのまにか、彼女の声が変化していた。まるで、鈴のように心地の良い。
ウサギのようにクリッとした眼差しを、惜しみなく僕へ向けている。ここにいるということは、彼女も何かしらの罪を犯したのだろうか?
こんなに美しくて、色彩豊かな少女が犯罪を犯すとは思えなかった。
「窓を眺めているのです。窓の外に世界は、美しいので」
「美しい、ですか?」
少女は、こてんっと首をかしげる。
「私には……よく分かりません」
「そうですか?」
「はい、分からなくて……ごめんなさい」
花冠を握りしめ、少女は気まずそうに俯いた。
白百合や雛菊、金鳳花で編まれた花冠も、白黒ではない。それぞれが自分を主張し、眩いばかりの色を兼ね備えていた。白百合の「白」だって、僕らの周りを囲む「白」と同じ名前でも、その暖かさが異なっている。陰鬱とした虚無のごとき「白」ではなく、純粋な楽を奏でそうな「白」だった。
僕は、ごくりっと喉を鳴らす。
窓の外と同じ豊かな色が、欲しくてたまらなかった。
「それ、くれませんか?」
気がつくと、僕は手を伸ばしていた。
少女は、びっくりした!と言わんばかりに跳びはねる。花冠を大事そうに抱えて、ゆっくりと一歩後ろに下がった。
「だ、だめです!これは、ダメです!」
「また編めばいいではないですか」
「編め……って?」
少女は、瞳をぐるぐると回している。どうやら、困惑しているらしい。
そんな反応ひとつひとつが新鮮で、僕を和ませる。少女を見つめることは、窓の外を眺める以上に、心が安らぐ気がした。
「えっと、その……」
「いや、いいんです。
それよりも、貴女はどうしてここに?」
気になっていたことを、尋ねてみる。
彼女みたいな美しい人が、どうしてここに送られてきたのだろうか?
「私が来た理由ですか?」
「はい」
「それは……私も不調をきたした●●●●です」
ノイズが奔る。少女の言葉の一部が、聞き取れない。
実際、少女の口元は動いている。だけど、それを聞き取ることが出来ないし、動かされた口元から言葉を読み取ることも出来なかった。
いや、読み取れたのだろうが、酷く分厚い靄が邪魔したようで、よく分からなかった。
「そうですか」
とりあえず、神妙に頷いておく。
何を言っているのか分からないけれども、今は……この人を引き留めておきたかった。
「それは、あなたが作ったのですか?」
花冠を指させば、少女はあからさまにホッとした顔になる。きっと、いま聞き取れなかった話題に、彼女も深入りされたくなかったのだろう。
「はい、もうすぐ雛祭りですので」
「雛祭り?」
「はい、流し雛をするために作りました。先生が、3月3日に川へ流しに行ってくれると言っていました」
それを聞いたとき、僕は一瞬目を潜めてしまった。
可哀そうな人だ。もしかしたら、彼女は狂人なのかもしれない。
どこからどうみても、その冠は雛人形に見えなかった。雛人形の面影は、かけらもない。
だけど、僕は話に乗ることにした。本当のことを言って、この少女が逃げてしまったら……きっと僕は後悔する。それだけは、避けなくてはならない。
「そうか、もうすぐ雛祭りなのか」
「もっとも、流し雛が払う『穢れ』という概念が私にはわかりませんが……きっと、美しいものなのでしょう」
少女は、少し遠い眼をした。
穢れとは、また難しい言葉を知っていたものだ。僕は感心してしまった。そして、この無知な少女に教えることにする。
「穢れっていうのは、払うもの……つまりは、穢れを溜めこみすぎると、壊れたり、病気になったりする。だから、払うんだよ。つまり、不調の原因とか、不調そのものってことなんじゃないか」
「不調は、穢れなんですか? ならば、それならば、私は……」
腕がふるふると震え、花冠が床に落ちる。
どうやら、今の僕の発言に、何か精神的な衝撃を受けたようだ。
「大丈夫?」
「『穢れ』が『不調』ならば、私は……私自身が流されなければ」
なるほど、ここは刑務所。
ココにいる人物は、精神的に不調をきたしていると言っても過言ではない。
少し言葉を選ぶべきだった。僕は反省して、彼女の肩を叩いた。見た目の割には、どことなく固い肩だった。女の子の肩とは、もう少し柔らかいものだと思っていたが……幻想だったようだ。少しだけ、失望する。もちろん、そんな邪な表情を顔に出さずに、にっこりと笑った。
「問題ないよ。君は普通じゃないか!」
「そうでしょうか?しかし、私は欠陥品です。だから、ここに送り込まれました」
「しかし、君が欠陥品には見えないけどな」
慰めの言葉も、少女には無意味だったらしい。
少女は、静かに首を横に振るばかりだった。
僕は少女に元気を取り戻してほしかった。必死に記憶回路に電気を走らせ、考えを巡らせる。
「雛祭りと言えば、僕の幼い頃……こんなことがあったな」
「貴方の幼い頃、ですか?」
そうだ、と頷き返す。
まったく話題を変えてしまおう。自分の思い出話を話すことで、感情ベクトルを別の方向へ向けるのだ。
僕は自慢げに、自分の記憶を語り始めた。
「僕の家には、雛人形があったんだ。
目利きしたら、どの雛人形よりも高価な奴さ。7段飾りの立派な雛人形でね、それはそれは美しかった。でも、それと同時に怖かったんだ」
「美しい?怖い?それは、両立しない感情ですよね?」
少女は、困ったように首をかしげた。
僕は笑った。たしかに両立しない感情だ。だけど、両立しないように視えて、実は同じところに存在する感情でもある、と僕は知っている。
「装飾がね、ハッと目を惹く美しさなんだよ。
赤や緑で織られた十二単、珊瑚の冠、凛々しい人形たちのたたずまい。そのすべてが、美しかった。
飾られている和室も……暖かくてね、昼間はそこでまどろんでいたものさ。
でも、夜になると一変した。 安寧の空間に、幽霊が現れるんだよ」
「幽霊?非科学的現象のことですか?」
少女は口を挟む。
非科学的現象、確かにその通りだ。でも……
「ただの比喩さ。あの時は、幽霊だと思ったんだ。
暗い和室の中に、ぼぅっと浮かぶ15体の人形の顔がね、あまりにも白いものだから間違えたのさ。
もちろん、電気をつければ幻想は消える。でも、電気をつける勇気もなかったんだね。
僕は、夜の雛人形を拒絶したんだ。
『悪魔よ、され!』と言わんばかりに、背を向けてね。ははは、不思議だな。
何も変哲のない雛人形だって分かっているのに。箱にしまう時だって、特に何も感じないのに。
ただの人形が、視る側の状況によって姿を変えるのさ。
時に美しく、時に寂しく、時に恐ろしく、時に優しく……変わっていく。
たぶん、アメリカや中国で雛人形を見ても、また違った感想を抱くんだろうね。いや、人種によっても捉え方が違うかもしれない。とにかく、1人1人違う感想を抱くってことさ。
あぁ、僕の雛人形は、いったい今どうしているのだろう?
それを確かめるためにも、ここから出たいのに。
ところで君は、鍵を持っていないかい?
ココから出るための鍵が必要なんだ。僕は無実で、全てウィリアム・ウィルソンの奴がやったことなんだ。だから、君が鍵を見つけてきてくれるだけでいい。
この白い世界から出て、外に行かないといけないんだ。よかったら、君も一緒に出よう!
君は不調なんかない。流される必要はない。一緒に、外に出て逃げ出そう!」
僕は、少女に手を伸ばした。
だけど、少女は動かない。 くるりとした黒い瞳を、黙って僕に向け続けている。
「……」
「…………」
白い世界に、沈黙が続く。
少女は、僕に頭を下げた。
「ごめんなさい、私はあなたをココから出すことが出来ません。
私はここにいなければなりません。不調が治るまで、ここにいなければならないのです」
少女は、静かに拒絶の意を告げた。
僕の差し出した手は、宙をかいてしまう。
「何故ですか?
この刑務所から、出たいと思わないのですか!?」
少し熱がこもってしまう。
でも、少女は無機質な声で告げた。
「ここは刑務所ではないですよ。私は、犯罪を犯していません。ただ、不調になっただけです」
それでは、と少女は去っていく。
小さな背中は、白い世界から消えて行った。後に残されたのは、僕だけ。
僕は膝を抱えた。少女に嫌われてしまった。どこで間違えたのだろう?
もしかしたら、彼女はココから出られないプログラムになっているのかもしれない。でも、それは間違いだ。鍵さえあれば、ここから出ることが出来る。そう、あの彩色満ちた光の空間へ旅立つことが出来るのだ。
では、彼女を縛る敵は誰だ?
「そんなこと、決まってる」
あの看守たちだ。
あの看守たちがいなければ、僕たちは自由になれる。
こんな薄気味悪い白い世界から、出ることが出来る。そうだ、なぜもっと早くに考えつかなかったんだろう?非人道的な白い刑務所から出るためだったら、1人や2人気を失わせたところで問題ないはずだ。
僕は静かに、看守の足音を待った。