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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Grim Reaper

Grim Reaper - hands

作者: あると

目を閉じると、時計の音が気になった。気にしないようにしても、耳は針の刻みを探し求めてしまう。

時計の魔力である。

布団の中で魔の力に捕まったら、もはや眠ることができない。一秒が刻まれるたび、時計の存在が徐々に大きくなり、一時間に一度の自己主張を聞かせられる羽目になる。

私を見ろ。

ちゃんと働いているぞ。

口うるさい隣人の独り言は、朝まで続く。耳を塞いでも、頭の中に刻まれた律動は簡単には消えてくれない。無視することができなければ、拷問だ。

時計の魔力は静けさを好んだ。解放されるには、明かりを灯し、テレビでもつければいい。別の音で上書きすれば、たちどころに消えてしまう。

できないなら、破壊するしかない。


柏木秀樹は目を開けた。

すぐに夕日が目蓋を押し下げた。低い位置から入り込んでくる光が眩しかった。

赤く色づいた電車の座席にはゆとりがあった。細めた目で見回さなくても、車内が空いていることはわかっていた。

人の数だけ、音がある。

若い人、子供、老人。誰もが等しく、それぞれの音を刻んでいる。その音は、時計の秒針と似ていた。

音源のありかを探ることで、座っている人や車両を行き来する人間の位置がわかった。今、乗車率は半分といったところだった。

電車が線路のつなぎ目を通過するとき、車体がかすかに揺れる。人工的に作られたリズムは、乗客を眠りに誘う。寝息を立てている人の音は穏やかで、心を安まらせてくれるものだった。

誘眠のテンポが遅くなり始めた。電車は駅に着こうとしていた。夕日が屋根に遮られ、しばしの間を置いて、車内の電灯が点る。

突然、秀樹の意識がこじ開けられた。

耳障りな音が耳朶を打った。進みたくないのに、進まざるを得ない。無理矢理に背中を押され、前に行くことを強要される。そんな時計の悲鳴が聞こえた。

秀樹は耳をそばだてる。車内では聞こえなかったものだから、駅の構内のどこかに音源がある。

電車のドアが開くと、秀樹は乗車待ちの客の間をすり抜けた。階段を駆け上る。

「美羽さん」

見知った女性の後ろ姿を見つけた。彼女はエスカレータを足早に上っていた。秀樹の小さな呼び掛けに気づいた彼女は、焦燥を浮かべた表情で頷いた。

「あっちよ」

彼女もまた、音を聞くことができる人間だった。秀樹が聞いた音源を、彼女も察知していた。

美羽に追いついた秀樹は、自分の耳が確かなことを知った。迷うことなく走る彼女の行き先と、秀樹が捉えた音の方角が同じだった。

錆び付いたギアがこすれる。止まりそうで止まらない嫌な音は、高音に辿り着いた。耳を覆いたくなるほどの大きな響きは、胸を騒がせるほど不快だった。

「待って!」

美羽の悲痛な叫び。

乗り換えホームへの階段を踏んだ矢先、警笛の音と衝撃音がした。

それからは、狂おしい叫び、意味不明の喚き、暗く無力感を感じさせる悲鳴の数々が降ってきた。

「間に合わなかった」

時計の音は、もう聞こえない。

ひとつの命が消えてしまった。

「自殺」

誰かが口にした。

秀樹の足は重かった。立ちすくんだ美羽の腕をつかみ、脇に引き戻した。彼女は真っ直ぐにホームを見ていた。

逃げ出してきた人たちに道を空ける。見学に行こうとする人間たちにも道を空けた。二人には、もう関われない世界だった。

嫌な音は、壊れかけの時計の断末魔だ。生きる希望を失った自殺者の悲鳴でもあった。

壊れてしまえば、音は消える。


コーヒーの香りの向こうに、年上の女性の沈んだ顔があった。小柄な身体は、高校生の秀樹よりも小さい。細い肩に乗った髪は艶が少なく、彼女の疲れた表情と似ていた。

「美羽さん、砂糖は」

「ひとつ」

顔をあげた美羽の大きな目が潤んでいた。視線が合うと、彼女はそっぽを向いた。涙ぐんでいると知られたくないのだろう。秀樹はミルクポットを手に取った。

「ミルクはどうしますか」

「多めに」

美羽は鼻をすすった。秀樹がティッシュを探し出すよりも先に、彼女は自分で鞄から出していた。

「そういえば、コーヒーは苦手だったわ。秀樹が飲んで」

「紅茶を頼みますか?」

「アイスミルクティー」

コーヒーと紅茶どころか、ホットとアイスの好みまで気が回っていないようだった。自殺者を救えなかったことが、よほどこたえているのだろう。

ガムシロップ少々とミルクをたっぷり入れたグラスを美羽の前に置き、秀樹は二杯目のコーヒーに口をつけた。

「しかたなかったと思います。いつも助けられるとは限りませんし」

氷に挟まれたストローが斜めに傾いだ。美羽は「そうね」と頷いた。

「自殺は、年間三万人を越えているそうです。一日に八十人以上が死んでいる計算です。僕たちが居合わせることなんて希ですし、間に合うかどうかを考えると、更に確率は低くなる」

「秀樹は勉強家ね。確率なんて、私にはわからないわ」

秀樹は口をつぐんだ。学校の成績は良いほうだ。美羽が揶揄しているのに気づいた。

「死んでしまいそうな人がいたら引き留めたい。話を聞いて、思いとどまってくれればいいのよ。何人救うとか、勉強とは違うの」

トゲのある言葉だった。生徒に言い聞かせるような口調が、秀樹の頭に血を上らせる。

「学校とは関係ないですよ!」

コーヒーカップの震えを見て、美羽は言い過ぎたことを謝った。

秀樹も溜飲を下げる。目の前で人が死んだことで、美羽が動揺しているのはわかる。普通なら口走らないことを言うのはそのためだ。

秀樹も多少なりとも心が乱れていた。何人もの死を見てきて慣れはしたが、衝撃がなくなることはない。美羽ほどの感受性はないのか、最近は鈍感になりつつあった。

「ねえ、初詣にはもう行った?」

美羽はいきなり話題を変えた。自殺者のことを考えたくないのだとわかった。

「人が多いところは、行かないですから」

音の氾濫に押し流されてしまいかねない。普段の生活には支障ないが、数万の人が訪れるような場所は、どうしても苦手だった。

「浅草寺とか、明治神宮とか、有名どころじゃなくてもいいのよ。私は、地元の小さな神社が好きなの。これから、一緒に行こうか」

返事を待たず、美羽は伝票を取った。財布を出そうとした秀樹の手が押さえられる。

「お姉さんのおごりよ」

「ありがとうございます」

氷の入ったグラスに触れていたためか、美羽の指先は冷たかった。秀樹はコーヒーを二杯飲んだおかげであたたかかった。

手を握れば、二人ともちょうど良くなるだろうか。

秀樹は美羽の手を見つめた。合理的と言われるかもしれないと思い至る。

いつの間にか、美羽は手袋をつけていた。


美羽の住む町に来るのは初めてだった。よく下町と称される地域だが、特別な雰囲気はなく、どこにでもある町並みが広がっていた。

「ここのお煎餅屋さんの胡麻煎餅がおいしいのよ」

指の先の店は、まだ正月休みらしく、シャッターが降りていた。

「あそこの中華料理屋さんは、小学校の同級生の家なの」

ひとつひとつ紹介する美羽の顔が明るかった。

「デートみたいね」

「デート、ですか」

初詣に行こうと切り出したときと同じように、唐突な会話だった。

「お姉さんは嫌?」

美羽と秀樹の年は離れている。二桁近く違えば、男女というより姉弟だ。

「好きとか嫌いとか、わかりません。大切な、仲間です」

音を聞くことのできる人間は他に知らない。だから、彼女は特別な存在だった。

「あ、そう」

そっぽを向きながら、美羽は秀樹の肘を抱きかかえた。

「仲間って言うなら、敬語なんてやめちゃいなよ」

くだけた科白を押しつけてくる美羽に、秀樹は返事を詰まらせた。

「ええと……じゃあ、初詣のあとで、ラーメンでも食べようぜ」

ため口で言ってみる。姉に甘えているようで、恥ずかしかった。

「いいわ。でも、あそこは餃子がおいしいの」

笑った顔があどけなかった。秀樹は落ち着いているとよく言われる。遠目からは、二人が同年代に見えるかもしれない。仲の良い姉弟ではなく、親しい男女だ。

美羽はくしゃみをした。秀樹はティッシュを差し出した。

「ありがとう」

美羽は手袋を取って鼻をかんだ。

まだ、手は冷たいままだろうか。

ポケットの自分の手はあたたかかった。美羽の様子を窺った。寒そうだったら、温度を分けることができる。

あわてて目を逸らした。

彼女は泣いていた。涙は見えなかったが、肩が泣いているようだった。

「ありがと」

春の朗らかさをたたえた声に、秀樹は驚いた。泣いているはずなのに、やわらかく優しかった。泣いていると感じたのは、幻覚だったのだろうか。

「どうしたの」

ぼうっとしている秀樹に、美羽はすり寄った。恋人たちの距離だった。

体温を感じる。だが、彼女は震えていた。心が、震えていた。

「忘れられない?」

落ち着かない距離に、秀樹は心に留めておこうとした質問をしてしまった。

「……うん」

隠すはずと考えた返事は、素直なものだった。

「そのままでいて」

戸惑うほどの女性の匂いが近づいた。秀樹は背筋を伸ばす。美羽の髪と上着がこすれる音を聞いた。

人気の少ない通りは、街灯が冷え冷えと点っていた。工事現場の看板を後ろにしていると、にやけた通行人が反対側の歩道を通り過ぎた。

恥ずかしいと思ったが、美羽の頼みを中断するわけにはいかない。

腕の中の彼女は震えていた。泣いている。誰かに支えて欲しかったのだろうか。デートと言って秀樹を誘ったのは、そばにいることを期待されたのかもしれない。

「僕は、忘れないでいいと思う」

美羽は自殺者のことを忘れようとしていた。だが、簡単に忘れられるわけがない。秀樹も忘れられるとは思っていなかった。

美羽が頷いた。その手が動き、秀樹の手と触れた。

冷たかった。

秀樹はしっかりと握りかえした。

「今日は、ずっと一緒にいますよ」

支えきれるかわからなかったが、落ち着くまではそばにいてあげたかった。年下の男は頼りないだろうが、一人でいるよりはマシだと思った。

「お姉さんをからかわないの!」

胸をぶたれて、呼吸が止まった。怒られた理由に気づいた秀樹は、あわてて首を振った。

「あの、そういう意味ではなくて、落ち着いて考えましょう」

「あなたこそ、落ち着きなさいよ」

しどろもどろになる秀樹を見て、美羽は笑った。

「何をしたいのかな? 男の子だものね」

秀樹は逃げようとしたが、美羽と手を繋いでいたことに気づいた。美羽は強く握って逃がさない。

「お姉さんがいろいろ教えてあげましょうか」

「勘弁してください」

「嫌なら外せばいいでしょ。私、そんなに握力ないよ」

嫌かと聞かれると、そうでもないのが正直なところだった。

「嫌じゃないの?」

「……はい」

「よろしい」

美羽はおかしそうに笑った。

その笑いは本物のようで、秀樹は安堵した。

「行こう」

二人は手を繋いだまま、歩き始めた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 悲しみを打ち消すかのような明るさ、こういうのも、いいですね。
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