あわいの人間
十七の夏、俺は四日間だけ、俺じゃなかった。
こう書くと嘘くさい。でも、これより正確な言い方を、俺はいまだに見つけていない。だから順番に書く。八月十三日、盆の入りの朝からだ。
## 第一章 役目の家
盆提灯の組み立ては、火袋を潰さずに箱から出せるかどうかで八割が決まる。木箱の蓋を滑らせて、薄紙を剥いで、上下の輪に指をかけて静かに伸ばす。房の絡まりは先にほどいておく。吊るす位置は仏壇の左右、高さは鴨居から三寸下げる。うちのやり方だ。誰に習ったわけでもない。二年前の初盆のとき、親戚の手つきを横から盗んで覚えた。
二年前まで、こういうことは全部、兄貴の仕事になるはずだった。佐伯要。俺より二つ上。名前のとおり、うちの要だった。進学も、墓参りの段取りも、親戚の酌も、たぶん親父の会社のぼやきの聞き役も、ぜんぶあいつが引き受ける前提で、うちの家は組んであった。要は笑い方が大きくて、玄関で靴を揃えなくて、それでも通信簿の家庭欄にはいつも「弟の面倒見がよい」と書かれるやつだった。その要が十九で死んで、初盆の台所で、親戚の誰かが言った。「律くんがいてくれて、よかったわねえ」。
俺はその日から段取り屋になった。提灯、迎え火、棚経の時間の確認、墓の水汲みの順番、盆菓子の並べ方。要がやるはずだったことの目録を、誰に頼まれたわけでもなく引き継いで、二年かけて手順に磨きをかけた。手順は便利だ。手が動いているあいだは、仏間の遺影と目を合わせなくて済む。
台所からは水音と、油のはぜる音がしていた。廊下の奥で洗濯機が止まる。盆の入りの家は、ふだんより音の数が少しだけ多い。多いのに、話し声だけがない。うちは二年前から、盆のあいだ、必要なこと以外を喋らない家になった。
去年の盆に、祖母ちゃんが言っていたことがある。「お盆はねえ、生きてる人も死んでる人も、いっぺん役目を下ろす日なんだよ。下ろさないと、誰が誰だか分からなくなるからね」。意味は聞き返さなかった。祖母ちゃんの話は、聞き返すと倍の長さになる。それに、役目を下ろすと言われても、下ろした後に何が残るのか、当時の俺には想像がつかなかった。俺は提灯の房をほどく方を選んだ。
昼過ぎに墓に行き、夕方、玄関先で迎え火を焚いた。おがらを焙烙の上に井桁に組む。短いのを下、長いのを上。マッチは風に二本食われて、三本目で点いた。細い煙がまっすぐ立って、門柱の高さで折れた。要、こっちだ。口には出さずに、火が崩れて灰になるまで見ていた。玄関の中では、点けっぱなしのテレビが野球を流していた。
夜の十時過ぎ、拓真から電話が来た。
「律。ゆめさきランド、今夜いけるって」
「は?」
「警備のじいさん、盆で田舎帰ってんの。東っかわのフェンス、破れてるとこある。肝試し。メンツはあと二人」
「明日も朝から墓なんだけど」
「三十分だけ。観覧車見て帰る。……来ないの?」
来ないの、の語尾が、来るだろ、の形をしていた。行く理由は一つもなかった。ただ、部屋まで線香のにおいが上がってきていて、そのにおいの中でもう一晩、要がやるはずだった明日の段取りを頭の中でさらうのが嫌だった。「行く」と言って、俺は自転車の鍵を掴んだ。
ゆめさきランドまで自転車で二十分。二年前の夏に閉園して、取り壊しの話が出ては消えている遊園地だ。潰れた店とも更地とも違う。営業もしていないし、死んでもいない。夜のフェンス越しに見上げると、観覧車の骨組みだけが、街灯の届かない高さで、空より一段黒かった。
小さい頃、要と二人であの観覧車に乗ったことがある。てっぺんで要が窓に額をつけて、「見ろ、うちの屋根」と言った。どれだよ、と俺が聞いて、要が適当な一軒を指差して、あとで嘘だと分かった。方角からして、うちが見えるはずのない側だった。要はそういう嘘を、悪びれずにつく兄貴だった。
破れたフェンスをくぐると、中は思ったより静かだった。メリーゴーラウンドの馬にブルーシートがかけてあって、風のたびに端が浅く呼吸をした。園内放送のスピーカーには鳥の巣。券売機の窓口には色の抜けた貼り紙が残っていた。「長らくのご愛顧、ありがとうございました」。ありがとうございましたの足元で、雑草が改札を越えていた。
拓真の連れは同じクラスの男子が二人で、二人ともスマホのライトを顎の下から当てては笑っていた。じゃんけんは俺が一人で負けた。罰ゲームは、観覧車の一番下のゴンドラで十分。拓真たちは乗り場の柵の外からスマホを構えて、笑いを噛み殺していた。
ゴンドラの扉は、拍子抜けするほど素直に開いた。座席は湿っていて、ライトを向けると、窓の内側が結露とも埃ともつかない膜で曇っていた。腰を下ろす。金属の匂いと、雨のにおいの古くなったやつ。十分。目をつぶってやり過ごすつもりだった。
「あんたも、役目、下ろしに来たの?」
向かいの席に、少女が座っていた。
夏服のセーラーで、膝の上に古いスクールバッグを抱えていた。ライトの光は届いているのに、影の落ち方だけが薄い。悲鳴を上げるより、扉に手を伸ばすより先に、俺は反射で彼女の目を見てしまった。
落ちた、と思った。座ったまま、床が抜ける感じがした。視界がすとんと低くなって、肩から重さが消えて、それから、胸の奥でずっと鳴っていたはずの音がやんだ。心臓の音がしない。自分の心臓なんて意識したこともなかったのに、消えた瞬間にだけ、鳴っていたことが分かった。
向かいの席で、俺の体が糸の切れた操り人形みたいに傾いで、窓に頭を預けた。曇った窓ガラスの中で、俺の顔が、他人の顔つきで俺を見ていた。
## 第二章 他人の朝
「おい」と言ったつもりだった。出た音は、知らない高さをしていた。喉の細いところを通って出てくる、軽い、湿った声。俺は口を押さえた。押さえた手が細かった。指が細くて、爪が短く整っていて、手首に古い日焼けの境目があった。頬に髪が触れる。重い。髪というのは、こんなに重いのか。
外で拓真たちの声がした。「律! おい、律!」。ゴンドラの扉が乱暴に開けられて、俺の体が引きずり出される。三人がかりで地面に寝かせて、頬を叩いて、水、水持ってるやつ、と騒いでいる。俺は——彼女の体の俺は、その真横に立っていた。拓真は一度、確かにこっちを見た。見て、視線が滑った。石ころの上を通るのと同じ速さで、俺の顔の上を通過して、俺の体に戻っていった。
俺の体が咳き込んで、起き上がった。「……だいじょうぶ。立ちくらみ」。俺の声がそう言った。俺じゃない言い方で。語尾を切り捨てる、平たい言い方で。拓真たちは心底ほっとした顔になって、帰ろうぜ今日はもう、と口々に言った。俺の体は素直に頷いて、それから一瞬だけ、俺の目でこっちを見た。あとで、と唇が動いた。
彼女の名前を、このときの俺はまだ知らない。知るのは最後の日だ。だから、ここから先は先回りして書く。ミオ。俺の体を借りたそいつは、拓真たちがフェンスの向こうに消えるのを待ってから、面倒くさそうに口を開いた。
「戻すのは送り火の夜。このゴンドラで、もう一回目を合わせる。それで戻る」
「今戻せよ」
「戻んない。開く夜と閉じる夜、境目の日にしか入れ替わらないの。今日が開いた日。閉じるのは十六日。それまでその体、あんたが留守番」
「留守番って——待て、なんで俺なんだよ」
「知らない。二年ここにいて、ゴンドラで目が合ったの、あんたが初めて」
ミオは俺の体の肩を回した。借り物の服の袖を確かめるみたいに、俺の腕を眺めた。それから事務的に続けた。
「その体、腹は減らない。心臓も動いてない。眠くはなる。汗はかかない。あと——鏡は、あんまり見ないであげて」
「あげて、って何だよ」
「あたしの顔でしょ。あたしが見られたくないの」
言い返せなかった。俺だって、いま俺の体の中にいるそいつに、風呂で電気を点けてほしくない。そういうことか、と思ったら、そういうことだった。分かった、と俺は言った。彼女の声で言うと、分かった、はやけに素直に聞こえた。
「一人称は好きにすれば」とミオは言った。「どうせ、誰もあんたを覚えてないから」
意味を聞き返す前に、ミオは俺の自転車にまたがった。おい、と掴みかかったが、俺の体は俺より力が強い。当たり前だ。「どこ行く気だよ」「あんたの家。学生証入ってたし、財布も」「おい——」。俺の体は俺の自転車で走り出した。ペダルの立ち漕ぎまで、俺と違う癖で漕いだ。
追った。走ってすぐ分かった。歩幅が短い。地面が遠くない。腕を振っても空気を掴む量が少ない。髪が視界の端で跳ねて、視界の情報が一割増える。速くない。この体は、速く走るようには使われてこなかった体だった。自転車はあっという間に角を曲がって、テールランプも見えなくなった。
家までは道を知っている。着いた頃には、門灯の下に俺の自転車が停まっていた。玄関の引き戸が開いて、光の長方形が伸びて、俺の体がその中に入っていった。戸が閉まって、光が消えた。俺は塀の外に立っていた。自分の家の、外側に。中からは、くぐもった話し声がして、それも間もなくやんだ。
その夜のうちに、一度だけ試したことがある。帰り道の拓真を追いかけて、コンビニの前で呼び止めた。
「拓真」
振り向いた拓真は、知らない女子に呼び捨てにされて、分かりやすく半歩引いた。
「俺だよ。律。さっき観覧車で、その、入れ替わって——」
俺、と言った瞬間の拓真の顔を、俺はたぶん忘れない。怖がってはいなかった。困っていた。目の前の情報の置き場所がなくて、困っていた。そして、話している途中で、拓真の目がまた滑った。焦点が俺の顔の上で像を結ばなくなって、拓真は首をかしげた。
「……わり。誰かと、間違えた?」
間違えたのはお前じゃない。そう言う前に、拓真は自動ドアの中に入っていった。ガラスの向こうで雑誌の棚を眺める拓真は、もう一度もこっちを見なかった。街灯の下で、俺は自分の——ミオの手を開いて、閉じた。細い指が、言われたとおりに閉じた。
行くあてがないので、遊園地に戻った。ほかに思いつかなかったというより、足がそう決めた。ゴンドラには彼女のスクールバッグが置きっぱなしになっていて、悪いとは思ったが、開けた。手がかりが要った。
中身は、こうだ。倫理の資料集、付箋だらけ。二年前の日付の新聞の切り抜き、「ゆめさきランド 三十一年の歴史に幕」。写真が一枚、どこかの居間で、母親らしい人と知らない男の人が中央で笑っていて、画面の端に、半分見切れてミオが写っていた。単三電池が四本。電池式のランタン。それから、二年前の「家庭訪問のお知らせ」のプリント。宛名の名字はインクが滲んで読めなくて、住所の欄だけがはっきり残っていた。
ランタンを点けてみた。ゴンドラの中が、オレンジ色のちゃちな光で満ちた。膝を抱えて座ると、座席は一人分にちょうどよかった。この体はこの明かりの点け方を知っていて、つまみを絞る指が勝手に一番暗いところで止まった。電池を保たせる暗さだった。
四日。四日でこいつの用事を突き止めて、片付けて、体を返してもらう。それだけだ。俺は住所のプリントを畳んで、バッグの一番上に戻した。
ランタンのつまみを最後まで絞ると、窓の外で、観覧車の骨が夜より黒く立っていた。心臓の音のしない胸の中で、何かがずっと、静かに正座している感じがした。俺はそれに名前をつけないまま、目を閉じた。
## 第三章 名前のない街
十四日の朝、ミオの家の前に立った。プリントの住所は市営住宅の三階で、表札は「篠田」だった。写真の男の人の名字だと見当がついた。ベランダに男物のシャツと、小さな子どものシャツが並んで干してあって、網戸の向こうから幼児の笑い声とテレビの音がしていた。
インターホンの前で、指を持ち上げた。押す直前、体が勝手に踵を返した。膝から下が、来た階段を降りていた。俺の意思が「押す」を選ぶより早く、この体が「この家に近づかない」を選んだ。階段の途中で立ち止まって、もう一度上がった。同じことが起きた。三回やって、三回とも、体が先に決めた。四回目はやめた。俺の根性の問題じゃない。この体は、この扉の前で回れ右をする練習を、たぶん何十回もしてきている。
昼の街を歩いた。歩く以外にすることがなかった。
コンビニで水を買った。買う必要はないが、財布に小銭が残っていて、何かを買うという行為がしたかった。「ポイントカードはお持ちですか」と店員が言い、俺が首を振ると、「お嬢さん、袋は」と続けた。会計の三十秒間、俺は「お客様」で「お嬢さん」だった。自動ドアを出た瞬間に、店員の中の俺は消える。振り返ると、店員はもう次の客にポイントカードの話をしていた。
交番の前も通ってみた。何も起きなかった。夏休みの平日の昼に制服で歩く高校生なんて、呼び止める理由の筆頭みたいなものだと思っていたが、若い警官の目は俺の上を素通りした。名字も学校も持たない人間には、呼び止める理由すら発生しないらしかった。
誰にも呼ばれない一日は長い。長いというのがどういう仕組みか、俺はこの日に知った。時間は、呼ばれるたびに区切られていたんだ。佐伯、次これ頼む。律、ごはんよ。おい律、ちょっと来い。区切りがなくなった八月の午後は、プールの底から見上げる水面みたいに、どこまでも同じ明るさで続いた。自由というのはこれのことか、と思い、三十分後には、これを二年続けたやつがいることを思った。
午後、暑さで髪が首に貼りついて、鬱陶しくてかき上げたら、手がそのまま動いた。手首のゴムを外して、指が三回ひねって、二重にして、ひとつ結びが出来上がった。五秒もかからなかった。やったことのない動作だった。なのに、指が全部知っていた。
体の記憶だと言えばそれまでだ。でも、結び終わったとき、俺は「懐かしい」と思った。これは説明がつかない。体の記憶なら、懐かしがるのは体のはずで、懐かしがったのは俺だった。初めてのはずの動作の中に、初めてじゃない感触が混ざっていた。誰かに見られたわけでもないのに、俺は結んだ髪を一度ほどいて、少し歩いてから、もう一度結んだ。二度目も、懐かしかった。
夕方の前に、墓に寄った。佐伯家之墓。花は昨日の朝に替えたばかりで、水の跡が石を黒く濡らしたまま乾きかけていた。俺は毎年、佐伯家の次男としてここに立つ。今日は違った。通りすがりの、誰でもない者として、他人の墓の前に立った。
「兄貴。笑うなよ」
女の子の声がそう言った。線香はない。手だけ合わせた。二年間、この墓の前で俺は手順のことばかり考えてきた。桶を返す場所、次に来る親戚の時間。今日は手順が一つもなくて、手を合わせている時間そのものが、初めてまるごと余った。長く合わせた。誰でもない者の合掌は、驚くほど静かだった。
日が落ちてから、自分の家を見に行った。仏間と居間の窓に灯りがついていて、庭の暗がりからは食卓の一部が見えた。ミオが——俺の体が、茶碗を差し出すところだった。台所側から伸びた手が茶碗を受け取って、飯を盛って返す。三杯目だった。俺は三杯も食わない。俺の体は箸の持ち方まで俺と違っていて、それでも旨そうに食った。
あの席を、俺は二年間、「要の代わりに座る椅子」だと思って座ってきた。要が生きていたら要が座って、要が親父の湿った独り言に相槌を打って、要がお袋の煮物を三杯食う席。俺はそこで、要の食い方を思い出しながら、二杯目を遠慮する係だった。その席で、ミオはただ、飯を食っていた。腹が立った。何に対して立っているのか、庭の暗がりでいくら考えても、輪郭が掴めなかった。
深夜、遊園地。ミオは先に来ていて、俺の体で、乗り場の柵に腰かけてサンダルの先をぶらぶらさせていた。俺はサンダルなんて持っていない。玄関の要のやつだ、と気づくのに数秒かかった。
「あんたの体さ」とミオは前置きなしに言った。「道の真ん中、歩くよ。勝手に」
「……真ん中?」
「端に寄ろうとしても、気づくと真ん中にいる。歩幅がでかいから、三十分の道が二十分になる。世界が縮むの。あと、夜がこわくない」
ミオはそこで一度切って、自分の——俺の手のひらを開いて眺めた。
「こわくないって、へんな感じ。ずっと着てた上着を、脱いでいいって言われたみたいな」
「こっちは逆だ」と俺は言った。「夜道で、手が勝手に鍵を握る。指の間に挟むんだ、こう。前を歩いてる男との距離も、体が勝手に測る。足が速くなって、道の端に寄って。……俺は別に、こわくない。こわくないのに、体がこわがり方を知ってる」
「ああ」とミオは言った。「それ、癖」
「癖って言うな」
言ってから、癖と呼ぶ以外にどう呼べばいいのか、俺にも分からなかった。こわいというのは頭で思うことだと十七年思ってきた。違った。手から来るこわさがある。膝から来るのも。ミオは俺の顔で、俺のやらない角度に首を傾けて、こっちを見ていた。
「その髪」
「……暑かったんだよ」
「結べたんだ」
「体が覚えてた」
「ふうん」
ふうん、の言い方が、追及とも納得ともつかなかった。俺は話を変えた。
「声が低いとさ、店員の応対が変わる。気づいてた? 俺の体で買い物した?」
「した。自販機の下、覗くのやめてよね、あんたの体、勝手に覗くから」
「覗かねえよ! ……いや、覗くかも」
「あと、あんたの体、笑うとき喉の奥で笑う。あたしの笑い方だと、あんたの声、出づらい。設計が違う」
「設計って言うな。……分かるけど」
分かるのだった。ミオの体で笑おうとすると、俺の笑い方では音が半分しか出ない。この体には この体の音の出し方があって、二日目の終わりには、俺は半分そっちに乗り換えていた。乗り換えは、思っていたよりずっと、抵抗がなかった。
「あの食卓さ」
とミオが言った。サンダルの先が止まった。
「あたしが座ってていい席じゃないけど。……味噌汁、甘いね、あんたの家」
「俺の席でもないけどな」
口に出してから、自分で驚いた。二年間、誰にも言ったことがなかった。頭の中でさえ、その文の形にしたことがなかった。ミオは笑った。俺の顔で、俺のしたことのない笑い方で、短く。それから言った。
「名前は聞かないでよ。呼ぶ相手がいないなら、名前なんて要らないもんだから」
「聞いてねえだろ」
「先に言っただけ」
ランタンの灯りが、柵に座った彼女の——俺の膝を、オレンジに照らしていた。
## 第四章 観覧車の記録
十五日の朝、目が覚めたら、ポケットの中で指が単三電池を転がしていた。いつ入れたのか、覚えがなかった。ゴンドラで夜を明かすのは二晩目で、寝る前にランタンの電池の残りを確かめるのが、もう仕事になっていた。バッグに四本、ポケットに二本。予備の、予備。この体は、灯りが切れることを何より嫌がる体だった。
昼、なんとなしに観覧車の支柱に近づいて、点検梯子に手をかけたら、足が勝手に段を数えはじめた。三段目はぐらつく。七段目で重心を左に。十一段目の手前で、右手を一段飛ばす。見なくても足の裏が知っていた。五メートルほど登ったところで我に返って、降りた。この体は、ここを何度も登っている。そして、高さをこわがらない。夜道をあれだけこわがる体が、錆びた鉄の上ではこわがり方を全部忘れる。降りてから、手のひらについた錆を、しばらく見ていた。
午後は市立図書館に行った。誰でもない者の特権で、カウンターの前を素通りして、縮刷版の棚に直行した。二年前の八月。
閉園の記事はすぐ見つかった。八月十日、「ゆめさきランド 三十一年の歴史に幕」。バッグの切り抜きと同じ記事だ。頁を繰る。十三日の朝刊、地域面の下の方に、それはあった。
「市道でバイクの男子大学生(19)死亡 単独事故か」
佐伯要、という活字を、俺は初めて見た。うちでは「事故」としか言わない。単独事故、雨、深夜、ガードレールなし。現場は、ゆめさきランド東側搬入口前の市道。
次の頁をめくる手が、一度止まって、それでもめくった。十四日の朝刊。
「遊園地敷地内で少女(16)転落死 閉園直後、十三日に発見」
場所、ゆめさきランド、観覧車付近。発見は十三日昼。死亡推定は十二日夜。兄貴のバイクが見つかった搬入口と、観覧車のあいだは、フェンス一枚だ。二つの記事は頁が違って、担当も違うらしくて、どちらの記事も、もう一方に触れていなかった。同じ雨の夜に、フェンスの内と外で人が一人ずつ死んで、記事は別々の枠に収まって、それきりだった。
冷房の音だけがしていた。俺は二つの記事をコピーして、四つに畳んで、ポケットの電池の隣に入れた。
日が落ちるまで、川べりで座っていた。すぐに遊園地へ戻って問い詰める、という手順が組めなかった。手順の前に、一度だけ、自分の家を見ておきたかった。理屈じゃなかった。留守電も記事もまだ知らない頃の、ただ飯を食っている家の灯りを、目に入れておきたかった。
それが、まずかった。いや、まずくはなかったのかどうか、いまでも分からない。とにかく俺は十五日の夜、庭の暗がりに立って、開け放した仏間を見ることになった。
## 第五章 網の目
盆の中日の夜で、仏間には灯りと、要の遺影と、盆提灯のぼんやりした橙があった。親父は遺影の前で盃を持っていた。盆のあいだだけ、親父は仏間で飲む。お袋が果物を下げに入ってきて、ミオが——俺の体が、座布団の上で所在なく正座していた。庭までは、網戸越しに声が届いた。
「……要が、生きていればなあ」
親父の声だった。誰かを責める声じゃなかった。盃の底に向かって落ちる、ただの、湿った独り言だった。俺は庭でその声を聞いて、いつもどおり聞き流される音として処理した。二年間、その独り言は季節の音だった。梅雨の雨戸の音と同じで、応答する種類の音じゃない。
「要さんは」
俺の声が、言った。
「要さんは、女の子を助けようとして死んだんです。バイクの事故じゃない」
仏間が止まった。テレビもついていないのに、音が消えるのが分かった。お袋が果物の皿を持ったまま振り返って、掠れた声で言った。
「律。……あんた、なにを言ってるの」
「遊園地の観覧車から落ちそうになってた子を、助けに登って、落ちたんです。ほんとうです」
「誰から」親父の声は低かった。座布団を蹴る音がして、障子に大きな影が立った。「誰から、それを聞いた」
答えの代わりに、縁側の網戸が乱暴に開いた。俺の体が、サンダルも履かずに庭へ飛び出してきた。暗がりの俺の横を走り抜けるとき、その顔が見えた。俺の顔が、泣いていた。俺は自分の泣き顔を、生まれて初めて見た。眉のあたりが、写真の中の要に似ていた。
追った。この体の足では追いつかないと分かっていたから、行き先の方へ走った。行き先は一つしかなかった。
遊園地に着くと、ミオは観覧車の支柱の下に座り込んでいた。膝を抱えて、俺の体を小さく畳んで。俺は隣にしゃがんで、何も言わずに、ポケットのコピーを二枚、地面に置いた。街灯もないのに、ミオはそれが何か、広げる前から分かったらしかった。長いこと黙って、それから顔を上げて、支柱を見た。
「閉園の夜」と、ミオは言った。平たい声だった。「最後にあそこで寝ようと思って、登った。雨だった。屋根のあるとこまで行けば、って。……手が滑った」
サイレンの真似みたいな蝉が、一匹だけ鳴いていた。
「落ちる前に、フェンスの外から声がした。『待て、動くな』って。バイクの人だった。フェンス越えて、支柱に取りついて、登ってきた。雨なのに。……先に落ちたのは、あの人。外側に。あたしは、そのすぐあと。内側に」
「……」
「あたしの方は、転落死って記事になった。あの人のは、バイクの事故になった。雨で、夜で、フェンスの内と外だったから、誰も繋げなかった。あたしだけが知ってて、あたしは、もう言えなかった」
謝りたいんだろ、と俺は言った。声が掠れた。ミオの声で、掠れた。
「謝る相手が、いない」ミオは言い切った。「死んだ者同士なら会えるってわけじゃないの。あの人はちゃんと死んで、ちゃんと迎えられて、盆にはあっちの家に帰る側。あたしは」
「帰る側って、なんだよ」
「盆になると分かる。夕方にね、みんな、どこかへ帰っていく気配がするの。火で呼ばれてる。迎え火って、呼ぶ火なんだよ。……あたしは呼ばれない。焚いてもらったこと、一度もないから」
写真の隅の、半分見切れたミオを思い出した。ベランダの、小さいシャツ。踵を返す膝。
「二年、ここで何してた」
「留守番」と、ミオは言った。「誰の留守かは、知らないけど」
そのとき、ミオの——俺が預かっているバッグの中で、スマホが鳴った。二年前の機種の、二年前の着信音で。画面には「お母さん」と出ていた。ミオは画面を見て、動かなかった。二十コールぶんくらい鳴って、切れて、少しして、留守番電話の通知が一件灯った。
再生したのは俺だ。ミオが「流していいよ」と言ったからだが、言われなくても、たぶん再生した。スピーカーにして、支柱の下の地面に置いた。
『もしもし。……お母さん、です。この番号ね、月末で解約します。あと、納骨のこと。うちの方では見られないから、お寺さんの永代供養にお願いすることにしました。荷物は、もう、ないの。処分してもらったから。それだけ。……じゃあ』
じゃあ、で切れた。事務連絡だった。二年ぶりの声の全部が、事務連絡だった。俺は何か言おうとして、何も出てこなくて、スマホの画面が暗くなるのを見ていた。ミオが先に口を開いた。
「消していいよ、それ」
「……いいのかよ」
「聞きたいこと、入ってなかったし」
何が入っていれば聞きたいことだったのか、俺は聞けなかった。ミオは立ち上がって、支柱を見上げた。錆びた鉄骨の遥か上で、ゴンドラの列が止まったまま、夜に吊られていた。
「決めた」とミオは言った。「あたし、還らない」
「……は?」
「明日の夜、ゴンドラで戻すものは戻す。あんたは体ごと家に帰る。全部元通り。あたしは、ここに残る。もともと、ここの備品みたいなもんだから」
「備品って、おまえ」
「あのね」ミオは俺を見た。俺の顔で、疲れた大人みたいに笑った。「あたしが消えて困る人、この世に一人もいないの。二年かけて確認済み。今日、最後の一件が片付いた。……いい話でしょ。誰も困らない話って、なかなかないよ」
言い返す言葉が、口の中で全部形にならなかった。困る、と言えばよかったんだと、いまなら分かる。一言でよかった。俺はそれが出てこないまま、白みはじめた空の下に突っ立っていた。観覧車の影が、ひび割れた駐車場の上に長く倒れて、骨の一本一本まで数えられた。
## 第六章 還る場所
十六日の昼前、俺のスマホから、お袋あてに短い文面が送られたらしい。頭冷やしてくる、夜には帰る。ミオが打ったにしては俺の言いそうな文で、俺が打ったにしては素直だった。俺の体は日陰の管理棟の軒下で膝を抱えていて、俺はそれを起こさないまま、ひとりで川を渡って、自分の家を見に行った。
昼間の家は、外から見ると小さかった。二階の俺の部屋のカーテンは閉まったままで、物干しにはタオルが四枚、間隔を詰めて干してあった。四枚。要がいた頃は六枚だった。玄関の引き戸、俺が去年張り替えた網戸、迎え火の焙烙が置きっぱなしの門柱の脇。俺はそれを、電柱の陰から、誰でもない顔で見ていた。
俺のいる家を、俺が外から見ている。中には俺の体があるべきで、体は遊園地の軒下にいて、じゃあいまここに立っているこれは何だ、と考えて、答えの代わりに、この四日間の棚卸しが始まった。
四日のあいだ、俺は名字を持っていなかった。学校も、部活も、佐伯家の次男も、要の代わりも持っていなかった。ついでに言えば、性別も半分脱いでいた。それで何が残ったかというと、何も残らなかった。これが正直なところだ。夜のゴンドラで膝を抱えているとき、俺という札を全部剥がした場所には、輪郭のない、正座した何かがいるだけだった。俺は札が嫌いだったんじゃない。札の下が空っぽなのが怖くて、札を両手で押さえていたんだ。要の代わりという札は重かったが、重い札は、風で飛ばない。
そして、と俺は電柱の陰で考える。あいつが残ると言い張っているのは、たぶん同じ空洞の、別の出口だ。俺は札をもらいすぎて空洞に気づかないふりをした。あいつは札を一枚ももらえなくて、空洞のまま、境目に住むことにした。入り口が逆なだけで、部屋は同じだ。
もう一つ、棚卸しの棚には、説明のつかないものが載っていた。
借り物の体の中に、借り物じゃないものが混ざっていた。髪を結ぶ指の懐かしさ。高い声に合う相槌の打ち方。笑うとき、音を喉の手前で転がすやり方。あれは澪の体の記憶だとしても、それを「居心地がいい」と感じたのは、体じゃなくて俺だった。俺の中には、たぶん最初から、女の子に似た部屋が一つある。今回、初めて電気が点いただけだ。びっくりはしたが、知らない部屋じゃなかった。廊下の突き当たりに、ずっとあった。
それでも俺は、俺の体に帰りたかった。これも同じくらい、ほんとうだった。心臓のうるささ。腹の減り方。肩の張り、汗、寝起きの声の低さ。核はあっちにある。選んだ覚えはない。ただそうなのだと、四日離れてみて、骨身で分かった。部屋はこっちにもある。家はあっちだ。両方ほんとうで、両方とも俺だ。矛盾している気がしないのが、自分でも意外だった。
思春期ってやつの正体を、俺はたぶんあの四日で見た。子どもと大人のあいだの、男とか女とかの線がまだ乾いていない場所。みんな一度は裸足で通るのに、渡り終わると、通ったことごと忘れる。俺は他人の体で、そこをもう一回歩かされた。二度目に歩くと、あそこには標識が一本もないことがよく分かった。俺はカーテンの閉まった二階の窓をもう一度だけ見て、電柱の陰を出た。
川べりの日陰で、バッグから倫理の資料集を出した。手がかりを探すというより、あいつが二年間なにを抱えてここにいたのか、紙の側から知りたかった。付箋は一つの章に集中していた。倫理学の頁で、「人間」に「じんかん」とルビが振ってあった。人はひとりで人になるのではなく、人と人との間柄においてはじめて人になる——教科書の要約はそういうことを言っていて、その余白に、細い鉛筆の字が一行あった。
「じゃあ、間柄がない人間は?」
丸っこい字だった。テストの答案には向かない、時間をかけて書かれた字だった。俺はシャーペンを出して、その問いの下に何か書こうとして、二文字で消した。紙に書く答えじゃなかった。
資料集を閉じるとき、表紙の裏の記名欄が目に入った。色の変わったボールペンで、几帳面に書いてあった。
一年三組 水原澪。
みずはら、みお。俺は声に出さずに三回読んで、それから、彼女の体の口で、小さく一回だけ音にしてみた。この体は自分の名前を呼ばれ慣れていなかった。音にした名前が、口の中で少し新品すぎた。
夕方まで、まだ時間があった。俺は川を上流へ歩いて、祖母ちゃんの家に行った。祖母ちゃんは親父の母親で、川向こうの平屋にひとりで住んでいる。盆のあいだは昼だけうちに来て、飯を食って帰る。頼れるあてがあるとしたら、俺には一軒しか思いつかなかった。役目がどうの、火がどうのという話を、意味が分かって喋っていそうな人間は、あの人しかいない。
祖母ちゃんは縁側で豆をむいていた。生け垣の外に立った俺を見て、手を止めて、しばらく黙って眺めて、それから言った。
「入って、そこ座んなさい」
麦茶が出てきた。知らない女子高生に対する応対としては早すぎたが、祖母ちゃんはコップを置いて、俺の顔じゃなく、俺の全体を見た。
「あんた、律だね」
心臓が動いていたら、跳ねていたと思う。なんで、と聞くと、祖母ちゃんは豆のざるを引き寄せながら言った。
「うちに来てる律はね、箸の持ち方が急によそいきになった。ありゃ他人の箸だ。で、あんたは——その突っ立ち方だよ。要の初盆からこっち、うちの律は敷居の外でそうやって立つ。入っていいか、迷う立ち方。顔は、なんでだか覚えられないけどね。立ち方は覚えてる」
俺は座って、全部話した。観覧車のこと、澪のこと、要のこと。要のくだりで、祖母ちゃんの豆をむく手は一度も止まらなかった。止まらないまま、指先だけがゆっくりになった。話し終えると、祖母ちゃんは、そうかい、とだけ言って、湯呑みの茶を飲んだ。盆だからね、と付け足した。そういうこともある、の意味らしかった。それから俺は、一番聞きたいことを聞いた。あいつを、ちゃんと送る方法はあるのか。
「迎え火のない子は、送り火でも送れないよ」
祖母ちゃんは言った。豆が、ざるの中で乾いた音を立てた。
「送り火ってのはね、追い出す火じゃない。『うちの子だよ、道はこっちだよ、また来年おいで』って火だ。うちの、が先にないと、火は道にならない。……だからね、誰かが先に、迎えておやんなさい。二年遅れたって、順番が逆になったって、火は文句を言わないから」
「俺が焚いて、いいのかよ。家族でもないのに」
「家族ってのはね」祖母ちゃんは豆のへたを、ぷつんと切った。「飯を食わせた方と、食った方のことだよ。あの子、うちの米を三杯食ったんだろ」
反論は思いつかなかった。祖母ちゃんは奥へ立って、新聞紙の包みを持って戻ってきた。おがらの残りだった。それからもう一つ、小さくて硬いものを、俺の手のひらに載せた。銀色の、角の擦れたオイルライターだった。
「要のだ。事故のあと、警察から返ってきた。仏壇に置いてたけどね。……火だけは、あの子の分も残ってる。持っておいき」
ライターは、掌の中で、夏の縁側の温度をしていた。俺は新聞紙の包みとライターをバッグに入れて、立ち上がって、頭を下げた。祖母ちゃんは豆に戻りながら、思い出したように言った。
「役目を下ろした後に何が残るか、あんた、去年聞かなかったね」
「……何が残るんだよ」
「間柄だよ。役目は着物で、間柄は体だ。着物は毎年替えりゃいい」
生け垣を出るとき振り返ると、祖母ちゃんはもうこっちを見ていなかった。夕方の始まりの光の中で、豆の音だけが、ぷつ、ぷつ、と規則正しく続いていた。
## 第七章 送り火
日が落ちる前に、東側の搬入口へ行った。二年前、要のバイクが停まっていた場所だ。錆びた門扉の内側の、コンクリートの平らなところを選んで、指で砂を払った。おがらを井桁に組む。短いのを下、長いのを上。うちのやり方だ。
要のライターは、三回目のフリントで点いた。おがらが燃えはじめると、細い煙がまっすぐ立って、フェンスの高さで折れた。俺はしゃがんだまま、火に向かって言った。
「迎え火。……二年、遅れたけど。順番もめちゃくちゃだけど。文句は受け付けない」
火が落ち着いた頃、砂利を踏む音がした。俺の体が、要のサンダルで立っていた。火を見て、それから俺を見た。
「なにこれ」
「迎え火」
「……誰の」
「おまえの」
俺の顔が、何か言いかけて、やめた。約束の刻限だった。俺たちは並んで観覧車まで歩いた。四日前と同じゴンドラの扉を開けて、四日前と同じ席に、それぞれ座った。膝の上にスクールバッグ。窓の外に、搬入口の火が小さく見えた。
「目、合わせるよ」と俺の声が言った。
合わせた。
戻りは、落ちるのじゃなくて、浮かぶのに似ていた。視界が持ち上がって、肩に重さが着地して、それから、鳴った。心臓が。どっ、どっ、と、うるさいくらいの音で、二年ものの空腹と、汗のべたつきと、喉の奥の低い声の置き場が、いっぺんに戻ってきた。ただいま、と思った。思ってから、両手を見た。俺の、爪の伸びた、でかい手。その指が、髪を結ぶ三回のひねりを、まだ覚えていた。使い道のない記憶が、指の中に静かに残っていた。
向かいの席で、澪が、自分の体で座っていた。四日ぶりに正面から見る顔だった。俺の体で笑っていたときより、ずっと幼く見えた。
「はい、元通り」と澪は言った。「帰りなよ。火、消してから」
「あれはお前の火だ。消すのはお前を送ってからだ」
「……送り火にする気? あたしを?」
「そのために焚いた」
澪は笑った。疲れた大人の笑い方は、自分の顔だと余計に薄かった。
「無理だよ。言ったでしょ、焚く家がないの」
「ある。うちだ」
「屁理屈」
「祖母ちゃんの受け売りだ。家族ってのは、飯を食わせた方と食った方のことだと。おまえ、うちの米を三杯食っただろ」
「あれは、あんたの体が食べたの」
「胃袋の話はしてねえよ」
澪は窓の外の火を見た。それから、窓に薄く映る自分を見ないように、少し目を伏せた。
「……あのね。戻ったら、あんたもあたしの顔、忘れるんだよ。三日もすれば。みんなそうだった。二年、ずっとそう。間柄なんてさ、あんたが忘れたら、終わりじゃん」
来ると分かっていた球だった。分かっていたのに、喉で一度つかえた。俺は息を吸って、心臓のうるささを確かめて、言った。
「澪」
澪が、固まった。
「資料集の記名欄、見た。水原澪。……勝手に見て悪かったな。でも、呼ぶ相手がいたら名前は要るんだよ。おまえの理屈でも、そうなるだろ」
「……」
「俺はおまえの友達だった。四日だけだけど、ほんとうにそうだった。顔は、忘れるかもしれない。ならそれは俺の顔の負けで、あったことの負けじゃない。あったことは消えない。……要もそうだ。兄貴は、おまえの名前も知らないで、雨の中フェンスを越えて、おまえをうちの側に数えた。血とか、書類とか、関係ねえんだ、あれは。数えた方が勝ちなんだ」
余白の問いの答えを、俺はここで言った。紙に書かなかったやつだ。
「間柄がない人間なんて、いない。間に合ってないだけだ。……二年、間に合わなくて悪かった。今日から数える。おまえは、うちのだ。文句があるなら、来年の盆に言いに来い。迎え火は、毎年あの場所で焚く」
澪は長いこと黙っていた。ゴンドラの古い金属が、風でひとつ、こん、と鳴った。澪が下を向いて、それから、俺が四日間ついに見なかった顔をした。ぐしゃぐしゃの、十六の顔だった。
「……ばか」と澪は言った。「三杯って、数えてたんだ」
「食いすぎなんだよ」
俺はゴンドラを降りた。扉は閉めなかった。搬入口まで歩いて、残りのおがらを全部、火に足した。火が一段大きくなって、それから、送りの火の落ち着き方をした。振り返ると、ゴンドラの窓の中で、澪がこっちを見ていた。唇が動いた。三つぶんの音。声は届かなかったが、分かった。分かったことにした、じゃなくて、分かった。
澪の視線が、最後に一度だけ、火のそばの誰もいない場所を通った。誰もいない、と俺には見える場所を。それから窓の中は、ランタンを絞ったときみたいに、すっと暗くなった。
火が燃え尽きるまで見ていた。風が出て、おがらの白い灰を巻き上げて、フェンスの外へ、市道の方へ運んでいった。ゴンドラの扉は開いたままで、中には、膝の上のスクールバッグごと、もう誰もいなかった。
## 終章
翌朝、俺は仏間で線香を上げた。遺影の要は、いつもの、嘘をつく前の顔で笑っていた。
「兄貴。ちゃんと聞けよ。一回しか言わないからな」
それから台所へ行った。水音がしていた。俺は敷居の上に立って——敷居の外じゃなくて、上に立って、言った。
「母さん。兄貴のことで、話したいことがあるんだ。長くなる。親父も呼んでいい」
水音が、止まった。
*
それから、少しだけ後日の話をする。
澪の顔は、三日で薄れた。悔しいが、あいつの言ったとおりだった。声はもう少し保って、夏の終わりには輪郭だけになった。残ったのは名前だ。名前だけは、二年経ったいまも、手の中にある。一度、辞書を引いた。澪。船の通れる、水の深い道。浅瀬に立てて道を示す杭のことは、澪標と書くらしい。名前が道の名前だったことを、あいつは知っていたんだろうか。聞きそびれたことの筆頭だ。
要の話は、結局、夜中までかかった。親父は一度だけ席を立って、仏間から要のヘルメットを持ってきて、卓の上に置いた。それきり誰も触らなかったが、置いてあることに意味があった。うちはいまも盆のあいだ無口な家だが、無口の質は変わった。黙って同じ方を向く無口と、黙って別々を向く無口は、音は同じでも別物だ。
ゆめさきランドは、翌年の春に更地になった。観覧車が解体される日、俺は学校をさぼらなかった。さぼって見に行くのは、なんだか違う気がした。代わりに盆の入りには毎年、単三電池を四本買う。使い道はない。机の抽斗に、去年のやつと今年のやつが、律儀に並んでいる。
今年も、盆の入りの夕方に、更地の東の隅へ行った。搬入口のあったあたりの地面に、おがらを小さく井桁に組んで、要のライターで火を点けた。風のない夕方で、煙はまっすぐ立った。
文句は、まだ言いに来ない。




