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帽子を戴く狼

クーロザクレニヴでの一幕。

「クラーナ! こっち! こっちだよ、クラーナ!」


 そう長く時は経っていないだろうに、荒れて朽ちる建物だった残骸には、微かに暮らしの名残があり、小さな人形のようなものが目に入ってしまえば、心痛を感じざるを得ない。

 止む無く放棄し、首都方面を目指したのならばまだ良い。

 しかし、魔物に襲われていたとしたら。或いは、呪いに蝕まれて水に——否、海に呼ばれていたとしたら、最早故郷へは二度と戻れない。

 であれば、魂だけでも戻って来ることを願うが、自分たちとて危ういのだから、はるか昔にいなくなった神に祈る気にもなれなかった。

 顔を上げたクラーナと呼ばれた女は、降り続ける雪の中に溶けていく幼い声音がどれだけ離れようとも、決して聞き逃すことはない。


「スヴィー、はしゃいで足元を疎かにするから転ぶんだぞ」


 やや離れたところから小さな、「きゃっ!」という悲鳴が聞こえたかと思えば、ぼふりと雪の沈む音がするのだから、クラーナは雪の中に残る小さな足跡を己の足跡で潰して追い掛ける。

 この辺りは人がいなくなって久しいらしく、積もった雪は誰にも侵されてはおらず、そんな中、ぽっかりと人型に空いた穴が見て取れる。

 いつもならば転んでも、クラーナのお小言に恥ずかしさと悔しさを滲ませながらすぐに立ち上がるものだが、なかなか起き上がる気配が無い。

 クラーナはスヴィーの名を訝しげに読んでみるもやはり反応がなく、歩を進めながら雪の中に何か鋭利なものでもあったのではないかと思い至った瞬間に血の気が引き、地を抉るような勢いと強さで駆け出した。


「スヴィー!」


 雪にうつ伏せで埋もれた小さな体を掘り起こし、その顔や体に傷はないかと見ようと器用にも片手で抱き直す。

 血が流れるような目立った外傷は無く、瞑った目の縁を飾る睫毛や前髪には雪が少し残っている。頬は寒さからか赤く熟しており、ぶつけたようなところはどこにも見当たらない。

 クラーナはスヴィーの唇が僅かに震えており、それどころかくふりくふりと堪えきれない笑みが零れていることに気が付いて、途端強ばっていた全身から力を抜いた。


「スヴィー、ああ、可哀想なスヴィーツァ。雪に埋もれて動かなくなってしまうとは、雪の精に口付けされてしまったんだな。一晩と待たずに連れて行かれるなんて、ああ、なんて可哀想なんだ。今晩は兎肉をじっくり煮込んでシチューにでもしようとしたのに、せめてそれを食うまでは待ってくれても良いだろうに、非情な雪の精が急いたばかりに一口も食べずに逝ってしまったか……」


 クラーナが大仰に悲しげな口調でそう言うと、彼女の左腕の中のスヴィー——スヴィーツァが目を開けようとした瞬間、クラーナは彼女を強く抱き締めた。


「可哀想なスヴィーの分までアタシが食べよう。スヴィーの大好きな兎のシチューだが、スヴィーは今頃雪の精と楽しく踊っているに違いないからな」


 ぎゅうぎゅうと、強く抱き締めればもごもごと、小さなうめき声とともに何やら抗議の声が漏れて聞こえるが、クラーナは悲嘆に暮れるので忙しいのだ。

 全力でクラーナの腕から逃れようと暴れるが、如何せん幼子であるためか、それともクラーナの力が単純に強過ぎるだけなのか、ほとんど身動ぎ出来ないでいる。

 クラーナが尚も可哀想に、兎のシチューが、と幾度となく悲嘆に暮れる言葉を口にしていれば、段々とスヴィーツァの声は焦燥から怒りへと変わり始め、クラーナは堪え切れない可笑しさにようやく腕の力を緩めてやった。

 水面から顔を出したかのように息を吹き返したスヴィーツァは、眉間に皺を寄せて頬を膨らませており、小さな手を伸ばしてクラーナの固い頬を無遠慮に横に引っ張った。


「意地悪クラーナ! スヴィーは死んでないよ! 雪の精なんて来てないもん! スヴィーもシチュー食べるよ!」


 スヴィーツァはクラーナの頬から手を離すと、今度は帽子へと手を伸ばしたかと思えば、クラーナが制止の声を上げる前に取り上げた。

 帽子の下から現れたのは雪のように白い髪と、頭上を動く一対の耳だった。

 それはスヴィーツァの耳とは位置からして異なっており、純人族(へヴァーゲン)ではなく獣人族(ドラティオ)の特徴である獣の耳であった。

 スヴィーツァはクラーナの帽子を握ったまま、ぴょいとお転婆にクラーナの腕から抜け出すと、雪を掻き分けながらにまた進み出す。


「クラーナ! これでスヴィーの声がよく聞こえるでしょ!」


 小さな体は本来であれば駆け回りたいのだろうが、人がいなくなって久しいこの場所では雪が降り積もり、前に進むには雪を掻き分けていくしかない。そうなれば足の進みは鈍重を極め、ましてスヴィーツァは子供なのだから、クラーナが数歩歩いただけで追い付けてしまう。

 クラーナはスヴィーツァを止まらせると、はしゃいで落ちそうになっていた彼女の帽子を直してやり、それから首元に入りそうな雪を払った。

 雪は降り止むことはなく、これから日が沈めば気温だって今よりもぐっと下がる。その前に人のいる地域まで辿り着かねば、また野宿をするにはスヴィーツァの体は小さ過ぎるのだ。

 スヴィーツァはクラーナにしゃがむようにとお願いし、クラーナは膝を着いて目線を合わせる。

 クラーナには左腕しかなく、片手で帽子を被ることはもう慣れているが、最近ではスヴィーツァがクラーナのそういった些事を手伝うことも増え、人形遊びが出来ない代わりだと思えば、クラーナはその身を従順に差し出すのだ。


「あのね、ジョーラおじさんが読んでくれた絵本でね、こうやって王様が選ばれてるのがあったんだよ」


 スヴィーツァは帽子を王冠に見立てているのだろう。

 手袋に覆われた両手で恭しく持ち、クラーナの頭に被せながら、見せてもらった絵本の絵を思い出しているのか、ジョーラの読み聞かせの下手さを思い出しているのか、くすくすと肩を揺らした。


「クラーナ、クラーナはこれで王様だよ! すっごく強い王様になったよ!」


 クラーナはスヴィーツァに被せられた帽子を片手で押し付けるように深く被ると、鼻の奥が熱くなるような心地に一度目を伏せた。

 スヴィーツァはクラーナの機微には気付いておらず、クラーナに抱き着くとジョーラおじさんに読んでもらった様々な絵本のことを口にして思い出しているようだった。


「スヴィーツァ、王冠はあなたが戴くもの。獣であるアタシには過ぎたもので、けれどあなたの慈愛を固辞出来るほどアタシは無欲ではない。……可愛いスヴィーツァ、アタシはお前の牙だ。お前が玉座に戻る日まで、アタシがお前を脅かすすべてから守り続ける」


 強く抱いた体は小さく、折れてしまいそうなほどに無垢であり、クラーナの呟きにスヴィーツァは首を傾げる。

 スヴィーツァはまだ自身が何者であるかなど知らず、ただクラーナに拾われて共にいる家族だと思っているのだ。

 クラーナは本来であれば、このようにスヴィーツァの体を抱き締めることなんて出来ないし、名前で呼ぶことも、帽子を乗せもらえるような身でもない。

 だがしかし、未だこの国は動乱に包まれており、首都に戻ることはおろか、近付くことさえ危険な状態だ。

 クラーナはスヴィーツァから体を離すと、立ち上がってからスヴィーツァを片腕で抱いて持ち上げる。

 クラーナの体温はスヴィーツァよりも高く、スヴィーツァはその熱を求めるかのように頬を擦り寄せるのだから、クラーナの鼻にスヴィーツァの柔らかな香りがふんわりと巻き付いた。


「スヴィー、夕飯は兎のシチューじゃなく、芋のシチューだ」


「えっ!? なんで!? 兎じゃないの!?」


 スヴィーツァは大きな瞳をさらに大きくして驚いており、クラーナはじとりとした目だけをスヴィーツァに向けた。


「覚えているか、スヴィー。アタシは雪の中に飛び込むなと前に言ったはずだぞ。見えない雪の中には何があるか分からないんだから、下に柵でもあったらどうなってたと思う? お前は今頃串刺しになって、アタシが焼いて食っていただろうさ。もう二度と、わざと頭から雪に倒れ突っ込むようなことはするんじゃない」


 クラーナの言葉にその光景を想像したのか、スヴィーツァは「スヴィーは美味しくないよ」と身を震わせて食べないでと懇願するが、果たして本当にクラーナの心配が届いてるのかは微妙だ。

 クラーナは溜息混じりにスヴィーツァを再度抱え直すと、雪の中を踏み締めて歩き始める。

 降り続ける雪は今掻き分けて進んでいる雪と同様、クラーナたちの痕跡を跡形もなく消し去ってくれるだろう。

 とはいえ、それもまた少し時間の掛かることであり、追手が先にここを見つけてしまう可能性も十分に有り得る。


「クラーナ、今日は大きくなって走らないの?」


「ああ、ここは人気がないが、この先も人々が残っていないとは言い切れない。彼らがアタシを魔物と間違えでもしたら大変だろう?」


「クラーナと魔物を間違えたりなんかしないよ。だってクラーナはとっても綺麗だもの。魔物は怖いけれど、クラーナは怖くなんかないよ」


「ははっ、なんだスヴィー。そんなこと言ったって、今晩のメニューは変わらないぞ?」


 クラーナがスヴィーの賛辞に対し、揶揄いの色濃い笑みを持って返すと、スヴィーは頬を膨らませてしまう。

 膨れた頬には赤みが増していて、寒さが幼子の肌に寄り添っていることに、クラーナは一度振り向いた。

 自分たちの足跡の他、後方に見えるのは朽ち果てた村落の跡地だけで、人影はおろか、動くものはどこにも見当たらない。

 クラーナの耳でも風が響くだけで、鼻につくのは雪の湿った香りと、スヴィーツァの甘さだけだった。


「スヴィー、ジョーラの読んでくれた絵本の内容は覚えてるか?」


「うん、覚えてるよ。ジョーラおじさん、絵本をくれようとしたけど、スヴィーは全部覚えたから要らないって言ったら、ジョーラおじさんびっくりしてたんだよ!」


「スヴィーは記憶力が良いからな。とはいえ、アタシの忠告は忘れてばっかりのようだが」


「だって、クラーナは何度だって教えてくれるでしょう? クラーナはスヴィーを置いて行かないから、クラーナはずっと一緒だもん」


 スヴィーツァのその言葉には、クラーナは一瞬眉根を寄せたが、けれどすぐに頷いて口角を上げた。


「まったく、困ったお姫様だ。——それじゃあスヴィー、ジョーラから聞いた絵本をアタシに読んでくれ。雪の精がお前を隠さないように、アタシにお前の子を聞かせてくれよ」


「いいよ、スヴィーが読み聞かせしてあげる! でもクラーナ、あんまり素敵なお話だからって、寝ちゃったりしないよね?」


「それはお前の演技力次第だな。スヴィーの読み方が悪ければ、アタシは退屈になって寝てしまうかもな」


「ジョーラおじさんよりスヴィーの方が読むの上手いって、みんなに言われたんだから! 聞き終わったらクラーナは、スヴィーに兎のシチューを食べさせたくなるんだからね!」


 スヴィーツァが気色ばんで絵本の内容を口にし始めれば、風が強くなり始めて雪はさらに大粒となり始める。

 悪天候はクラーナたちの足取りを重くするが、その分痕跡は早く消えるので、もっと悪くなれとさえ思うくらいだ。

 しかし、首都から遠く離れているこの地では、そう追手の数だって多くはないかもしれないと、楽観的思考に陥りそうになるクラーナだが、クラーナたち——否、スヴィーツァを追う者たちの勢力が今どれだけに膨れ上がっているのか、クラーナには知る術がない。

 出来ることと言えば、一つのところに留まるのではなく、こうして各地を転々として追手を錯乱し続ける他にないのだから、幼いスヴィーツァには相当の負担となっていることだろう。

 だが、それでも逃げ続けねば、スヴィーツァは彼女の父母や兄弟らと同じ運命を辿ることになってしまうのだから、クラーナは一生をかけてスヴィーツァを逃がし続けねばならないのだ。

 逃がし続け、そして出来ることならば、首都に戻りスヴィーツァに王冠を、正当なる王の継承をさせねばならない。

 現状では逃げることが精一杯であり、夢物語でしかないが、いずれ訪れると信じている好機を得るためにも、クラーナは牙を研ぎ続けるのだ。

 そして身を寄せた先々で、魔物の脅威に怯える人々を守り、可能であれば首都へ——首都近郊の安全地帯を目指すようにと教えて来た。

 彼らはスヴィーツァが何者であるかなど知らないが、いつかスヴィーツァが従え、守るべき民なのだ。

 スヴィーツァには民を守るべき姿を見せているが、民にはいつかスヴィーツァが王座に戻った時に思い出してもらうために行っている。

 このクーロザクレニヴの女王の庇護下にあったということを。

 クラーナの睫毛に雪が乗り、煩わしげに瞼を深く閉じる。

 スヴィーツァの声は澄み渡るようにして風に乗り、雪の精がいるのならきっと攫って行きたいと思うに決まっているだろうと、クラーナは雪に覆われて見えぬ道を見据える。

 スヴィーツァの横にはクラーナがいるのだ。クラーナという、氷野の白狼——オドムヴィがいるのだ。


「——怖いものなど、ありはしないさ」


 クラーナの呟きは風に攫われ、スヴィーツァにさえも聞こえなかったが、スヴィーツァの絵本を読む声は、クラーナの狼の耳が聞き逃すことは決してないのである。

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