第93話 セレナとフェンリル ― 涙と囁き
月明かりに照らされた湖畔。
セレナはひとり、水面を見つめていた。頬を伝う雫は、月光に反射して銀色に輝く。
「……グランの気持ちは大事。でも、なんで……なんでグランが犠牲にならないといけないの……?」
声は震え、胸の奥から湧き上がる切なさに押し潰されそうになっていた。
背後から、静かな足音が近づく。振り返れば、そこにいたのはフェンリルだった。
「……セレナ」
フェンリルの瞳もまた赤く滲んでいた。
「正直……主の提案は飲めません。でも……主らしい意見でもあります。
私には……どうすればいいのか、分からないのです……」
悔しさに震える声。大粒の涙がその頬を伝い落ちた。
セレナは言葉を失い、ただ視線を伏せる。二人は沈黙の中で涙を分かち合った。
その時だった。
湖面が静かに揺れ、まるで導かれるように水が引いていく。
やがて、湖底から古びた遺跡が姿を現した。
驚きながらも、二人は吸い寄せられるようにその奥へと足を進める。
ひんやりとした空気の中で辿り着いたのは――かつて彼らが封印されていた場所だった。
セレナは胸を押さえ、震える声で呟く。
「……あの時のこと、思い出すね」
フェンリルも瞼を閉じ、苦い記憶を呼び起こすように言った。
「あの時も……悔しくて、泣いていました。主を守れなかった自分が、情けなくて……」
セレナは壁に刻まれた古い痕跡へと手を伸ばす。
「ここに……魔族の希望を、グランが残していったんだね。二千年前と、ほんと……変わりない」
フェンリルは微かに笑みを浮かべる。
「主は……とことん主ですから。……そういえば、我々が封印される時……何か、聞こえませんでしたか?」
セレナは驚いたように視線を上げた。
「……なんか……囁きが聞こえたような……気がする」
「“世界の転機”だとか……なんとか……。覚えていませんが……妙に心に残っていて」
二人は顔を見合わせ、そして小さく微笑んだ。
答えは出せぬまま、その場で休むことにした。
夜が更け、二人が目を閉じようとしたその時――。
静寂を破るように、どこからともなく声が響いた。
『……グランなら大丈夫。信じてあげて』
それは優しく、心に沁み入る囁きだった。
セレナとフェンリルは驚いて目を開いたが、そこには誰もいない。
ただ、その声を胸に刻むように、二人は再び涙を流しながら――眠りへと落ちていったのだった。




