第86話 リベルノア王国戦線 ― 限界のその先で
戦火はついにリベルノア王国へと到達した。
押し寄せる敵軍は二万――魔物と武装兵の混成大軍。
リベルノアの城壁は炎に照らされ、その影に潜む兵たちの息遣いが重く響いていた。
それでも、怯える者は一人もいなかった。
――守るために。
宮廷魔道士たちは後方に陣取り、城壁の上から絶え間なく攻撃魔法を放ち続ける。
ナツはその中心に立ち、絶えず強化魔法を流し込み、彼らの火力を極限まで引き上げていた。
「火力、最大でいけるよ! 一気に叩いて!」
ナツの声が飛ぶたび、魔道士たちの魔力は倍増し、次々と灼熱の火球、氷槍、雷撃が大軍を薙ぎ払った。
前線では、フェンリルとこはるが獅子奮迅の戦いを繰り広げる。
「来いよ、化け物ども! ここは通させない!」
フェンリルの咆哮と共に振り下ろされた大剣は、巨躯のオークを一刀のもとに両断し、サイクロプスの足を切り裂いた。
その横でこはるは、獣人特有の俊敏な身のこなしと剣技を駆使し、敵の喉元を的確に貫いていく。
「絶対に守り切る……! ここは、私たちの国なんだから!」
ナツの支援が彼らの体を包み、筋肉の軋みすら消し飛ばすほどの力を与えていた。
兵たちも奮起し、リベルノア騎士団は勇敢に前線を支えた。
だが――敵の波は途切れることなく押し寄せた。
倒しても倒しても、次の魔物が現れ、兵士が迫る。
戦場の轟音が、希望を掻き消すかのように続いていた。
(……まずい。このままじゃ、持久戦では分が悪い)
ナツは焦りを覚えながらも、魔力を絞り出し続ける。
しかし、誰一人として戦線を離れる者はいなかった。
こはるの瞳にも恐怖はなかった。そこにあるのはただ決意――。
「私は、もう逃げない。守り抜くんだ……!」
フェンリルが吠える。
「今度こそ――やり遂げる! 主のため、皆のために!」
仲間の叫びが戦場を震わせ、限界を超えた力が彼らを突き動かした。
そして――運命の一瞬。
「――っ!?」
こはるの身体がぐらりと傾く。
腹部に突き刺さるのは、黒光りする剣。深々と肉を裂き、血が噴き出した。
「こはるっ!!」
フェンリルの絶叫。
ナツは即座に治癒魔法を放つが、血は止まらない。
こはるの意識は遠ざかり、視界が霞んでいく。
その時――戦場の後方に現れた黒衣の男が、静かに語り出した。
「あぁ……なるほど。俺と同じ匂いがする。ふふ、そういうことですか」
冷たくも高揚を帯びた声。
「あらかじめ、最初の戦は敗北すると想定していました。ですが、ここまでとは……ふむ、潮時。軍を退かせましょう。戦力を立て直すために」
その一言で、まるで操り人形のように魔物も兵士も整然と撤退を始めた。
勝利の代償はあまりにも大きい。
その中心にあったのは――こはるの重傷だった。
治癒師たちが駆けつけ、必死に治療を施す。
だが、傷は深く、血は止まらない。
「こはる! こはる! ……しっかりして!」
フェンリルの声が響く。
ナツは歯を食いしばり、全魔力を注ぎ込んだ。
その時だった。
こはるの髪に結ばれた一本のリボンが、ふわりと光を放ち始めた。
淡い光が全身を包み込み、奇跡のように血が止まり、肉が結ばれていく。
――あのリボン。
学院での決闘の後、グランとのデートで贈られたもの。
グランがこっそり込めていた回復の魔力が、主の危機に応えるように発動したのだった。
数日後――。
こはるはゆっくりと瞼を開けた。
視界に映ったのは、クレア、フェンリル、ナツの顔。
「こはる……!」
「よかった……ほんとに……!」
こはるはかすかに微笑み、呟いた。
「……グランさん……」
クレアが静かに言葉を紡ぐ。
「あなたを刺したのは……“あの人”と、それから剣聖の末裔だった。とても強かった……。でも、あなたが生きていてくれて……本当に、よかった」
こはるはしばし言葉を失った。
胸の奥が締めつけられるように痛む。
(あの時……死ぬんだって思った)
(怖かった。手も震えて、意識が遠ざかって……でも――)
(私は、まだ生きてる)
涙が頬を伝う。
(私は……この国を守りたい。皆を守りたい。怖くても、震えても……私は――)
「もう……逃げません」
静かに、だが確かな声で言った。
「怖いけど……それでも、守りたい。皆と……この国と、グランさんを」
彼女の言葉に、クレアは優しく微笑む。
「うん、私も。あなたと一緒に頑張る」
ナツも力強く頷き、フェンリルは目を閉じて嬉しそうにうなずいた。
――その瞬間、こはるの心は新たな強さを得た。
これは彼女が“自分の意志”で歩み出した、第一歩だった。




