⑺ 今「あちらの世界」へ行ってはならない
終章 休暇四日目 激しい雨の中に「遊ぼう、遊ぼう、ねぇ遊ぼう」の〈聲〉
今日で切羽史郎の「休暇」も最終日だ。夕方にはハイウェイバスの車上の人となる。
史郎は帰り支度を整えながら、今日を入れての四日間を反芻した。
〈ウスイ〉とも、四十年前の自分とも逢った。ナオミさんとの
「相席」から始まり、シェアハウス・ロンドの住民との「相席コンパ」、
通天閣を吹き抜けて行った風、そして累くんのこと。
そのみんなが、過去と現在そして未来が交差する輸送ターミナル上での、
出来事のように思える。
(華々しい部署で配当少なきミッションに挑むか、
スポットライトが当たらない裏方に徹するか)四日間の休暇前まで、
悩んでいたこのこと。蝸牛の殻に入り込んだ閉塞感は、
リストカットした女子中学生となんら変わりがないじゃないか。
そこまで追い詰められていないにしても。
(もう一つの場所でも生きられる)、一種の擬態だろうが、
こう視点を変えたら楽になる。
一口に視点を変えると言うが、簡単なようで簡単ではない。
日常の三面記事がそれを物語っている。偏愛、憎悪、蟻地獄の果てが紙面に踊っている。
(視点を変えられたら、また違った結果を期待できる)、史郎はそう思う。
この四日間のことを
、髭剃りあとが青々とした従弟の臨床心理士に話してみたいが、
彼はきっとこう言うだろう。
「そのターミナル駅は、明日へ運んでくれる結節点だったのさ」
そう推察すると、史郎はまた背中を押された気がした。
(会社が自分にマンション管理会社の仕事を与えたのは、
長い業務管理畑での実績を買ってではなかったのか。
企業は中枢部だけでは回らない。それを支える土台が必要だ。
俺は、マンションの管理を通してまだ役に立つ)
史郎はそう思うと、若くもない体に熱い血を感じた。
蝸牛の殻から抜け出し、爽やかだ。
史郎は今晩、
高速夜行バスに身を委ね、帰路についているだろう。
帰れるところがあるという安らぎを感じながら。
発達した低気圧が西の方から東の方に移動中と、
テレビで気象予報士が言っていた。
予報が的中し、生憎、朝から激しい雨となった。
夕方の高速バスに乗るまでには上がるといいがと、
史郎は空を見上げた。
ガラス窓から差し込む青い稲光が部屋を明るくしては消える。
大阪はここひと月雨知らずで、乾ききっていると聞いていたが、
これは恵みの雨か。雨雲が日本列島の西から、東に上って来たようだ。
史郎が、部屋を出て団欒室に行くと、ナオミさんがオロオロしている。
累は、長椅子に横たわっていた。
「この子、昨夜遅うから高熱出してな、仕事を休んで看病してますんや。
今朝はまたごっつい熱ですねん。
どこかで悪いばい菌でも、もろうて来たんかいな」
ナオミさんは累を病院へ連れて行こうしていた。
喘息のように一晩中出ていた咳はおさまったが、
熱がいっこうに下がらないという。
「切羽はん、今日の夕方にはお立ちでっしゃろ。ごっつ雨が降りおって、まあ」
「それより累くんの方が心配です」
「すんませんなあ。四日間の休暇の終わりがこんなんで」
稲光が、ガランとした団欒室を照らす。
雷鳴が追っかけてくる。雨は外のアスファルト路面を叩きつけるように、
降り走っていた。
ガラス戸がシャワーを浴びるように濡れ、視界は歪んでいる。
史郎はこの時、
雨が吹く喉笛、rainy voiceがまた聞こえるのではと恐れたが、
〈ウスイ〉の「聲」は聞こえてこなかった。
もしかしたら、史郎も大阪に出て来たし、伝えることはもう済んだからか。
ナオミさんは携帯でタクシーを呼んでいる。
電話し終わると、視界不良の窓ガラスを見つめた。
「なんぞ、不気味な雨ですわ」
青い閃光がした途端、雷鳴が轟いた。
その時、史郎の耳にはハッキリと聞こえた。
〈ウスイ〉が連れてきたあの聲。
「遊ぼう、遊ぼう、ねぇ遊ぼう」、子供の「聲」だ。
この聲は、祖父が語っていた、神隠しに遭って帰れない童子ではないか。
神隠しになってから、百年は経っているはずだ。
足元を掬うように雷鳴がまた走った。
史郎はハッとして、長椅子から累を両手に抱き上げた。
高熱で顔は赤らみ呼吸は喘ぐ(あえぐ)ように荒い。
「この子は渡せないよ。君には渡さない」
累を抱く腕に、史郎は力を込めた。
ナオミさんも駆け寄った。
ナオミさんは累の熱い額に氷嚢を載せて、
「累、累」と言って祈っている。
累の息づかいが、史郎の腕に重たく伝わってきた。
ナオミさんは、タクシーが玄関に来ていないか見てくる、と急いで下りて行った。
史郎は、ガラス窓の向こうを睨みつけた。
累のぐったりとした手には、
あの新幹線ロボ・シンカリオンがしっかり握られている。
「帰ることができなくなった君の寂しさは分かる。
でも、この子は渡せないよ。
ましてこの子はまだ四歳。
恵まれない星の下に生まれたとはいえ、
人生たった四年、そんなもので終わってはならないのだ。君には渡さない」
三十年後、累は三十歳を超え、史郎は九十五歳を優に超える。
(三十年後、多分もう自分は「此処の世界」にいないだろう。
自分は残念ながら、この先の世界を見届けることはできない。
それは仕方がないが、累くんは、今「あちらの世界」へ行ってはならない。
少なくても、三十年後、いや五十年後の自分の世界を見届けるまでは)
累を抱く史郎の腕に力が入った。
タクシーが、到着のクラクションを二回だけ鳴らした。
雷鳴は遠ざかり、稲光が不気味に光った。
日照りが長く続いたこの地を、雨がなお叩き濡らしている。
激しい雨音だけしかしない。
ただ激しい雨の中に「遊ぼう、遊ぼう、ねぇ遊ぼう」子供の〈聲〉が響いている。
( 完 )