⑹ ナオミさんの新事実
第3章 休暇三日目 通天閣が見える。ここが新世界あたり一帯だ。
ホームレスの男はあの〈ウスイ〉では?
史郎の大阪滞在は今日で三日目だ。明日はハイウェイバスで、西九州へ戻る。
明日の夜は、スリーピングシートに身を委ねているだろう。
今日は新世界、通天閣に行くことにした。
ビリケンさんに会って帰らないと、心残りしそうだ。
梅田に出て地下鉄御堂筋線、動物園前で降車すればいい。
こういうときは、ポケットガイドブックが役に立つ。
動物園前駅を降りると、通天閣が見える。ここが新世界あたり一帯だ。
人生の縮図が垣間見える。
あいりん地区もあれば遊郭街と称された飛田新地もある。
この一帯には、けして吹き溜まりではない、生きている、
生きようとしている人間の凄味と哀しさの臭いに満ちている。
商店街を通ると鳥居マーク、「小便しないで」の張り紙が目立つ。
アンモニア臭を覆うように、串カツとホルモンの臭いが薄っすらと漂う。
路上で雑貨を並べ売っている者もいる。将棋クラブや雀荘もある。
昔懐かしいスマートボール店があり、覗いてみると結構賑わっている。
商店は種々雑多、何でもある。隣接する「じゃんじゃん横丁」も同じだろう。
商店街の隅っこで、年老いた男がボロ布を敷き寝転がっている。
史郎と目が合った。誰にでも、転落はあるのだと言っている目だ。
確かに人生の歯車が狂うという事態は長い人生、一度や二度はあるものだ。
誰も順風満帆の人生を約束されてはいない。
ボロ布を敷いた男が、壁に立てかけた古自転車に手を掛け立ち上がろうとした。
そしてもう一方の手を、何か言いたそうに史郎に差し伸べた。
史郎は咄嗟に、その手を引き上げようと両手を出した。
しかし、男は中腰になりながらすぐ崩れた。男の白みがかった眼の芯はまだ光っている。
「立ち上がるんだ」、史郎は思わず叫んだ。
男の白濁した眼の底に、キラリと光るものがあった。史郎は先を急ぎ、
その場を離れ、通天閣に向かった。
歩きながら史郎は思いついた。
(そう言えばあの男の自転車の傍に、雑誌『ビッグイシュー日本版』があった)
ビッグイシューは、ホームレスがこの雑誌を販売することで、
自立を支援しようとする仕組みだと、何かの本で読んだことがある。
男は、もしかしたら立ち上がろうとこの雑誌に、
望みを繋いでいるのかもしれない。
通天閣の五階にはビリケンさんが鎮座している。史郎も誰もがするように、
凹んだビリケンさんの足の裏を撫でた。
そしてもう一回、あのホームレスのために撫でた。
こうすると願いが叶うというからだ。
下に降り道路に出て、史郎は振り向いた。
いつもと変わらぬ通天閣が聳えている。
「また来るよ」
通天閣の鉄骨の間を、風が吹き抜けて行った。
大阪もこの夏は異常気象で、日照り続きという。
風が頬を撫でたので空を見上げたとき、パラパラと雨が頬を打った。
しかしそれは一瞬であった。
この時、脳に閃くものがあった。
さっきのホームレスの男はあの〈ウスイ〉ではなかったか。
急いで先ほどのところに史郎は戻ったが、
その男の姿はもう自転車もろともなかった。
地方出で同期だったあの〈ウスイ〉は、芯は強かった。たとえ困難が振りかかっても、
彼ならきっと乗り越えているはずだ。史郎は、男を追うことを諦めた。
昼食に串カツ定食を食べて、新世界を後にした。
「シェアハウス・ロンド」に戻り、シャワー室に行こうとしたとき、
団欒室の隅っこで男の子が遊んでいる。
トミカのプラレールで遊んでいたあの子だ。
史郎も孫が小さいころ、トミカで一緒に遊んだことを思い出した。
「カッコいいね」
「これドクターイエロー。
こっちは新幹線はやぶさ」床に座った子供は、目を輝かして話しかけてくる。
「おじちゃん、こっちのは、合体するんや。新幹線ロボ、シンカリオンなんや」
メーカーのうたい文句が、
(日本の安心と安全を守るため、
強大な敵に立ち向かう合体ロボット)という新幹線プラレールだ。
テレビの子供番組で、たまにコマーシャルを流している。幼い子供たちの守護人だ。
「カッコいいや、悪い奴をやっつけるんだね」
満足そうに合体操作をしている子の傍に、史郎も座った。
一緒に遊んでいるとその子が顔を上げ、叫んだ。
「あ、パパ」
振り返るとナオミさんが立っている。少し控えめな色合いのワンピース姿だ。
「えっパパ」史郎は一瞬呑み込めなかったが、
ナオミさんの表情で納得した。ナオミさんはパパでもあり、
優しいママでもある表情をしていた。
「この子なあ、うちの子や。累と言います。パパとかママとか、
ごっちやになってますのや。切羽はん、明日お帰りでっしゃろ、
まあそこのテーブルでお話ししますわ」
今の時間は、シェアハウス住民は仕事で不在だ。
二人は、団欒室の隅っこにあるテーブル席に座った。
「切羽はん、ビックリしなはったやろう。いきなり、あ、パパだやもんで。
あのな、この子の母親が男を作っていなくなったんですわ。ちょうど二歳になるころ」
ナオミさんはここで、累の方を見た。
累は独りでプラレールの電車をいじったり、
模型駅舎のスイッチを入り切りして、無心に遊んでいる。
ナオミさんはまた史郎の方に顔を戻した。
「私はその頃、チエーン店の居酒屋で店長をしてましてな、夜遅うまで働き、
明けたら昼前には仕出しの準備なんぞで、出勤の毎日でしたんねん。
そいで妻が、パート先の上司とできて、その上司が信州に転勤になり、
一緒に行ってしもうたんや。その上司は独身ということやったが。
ほんで、すぐ離婚ですわ。累の親権者は私。この子は、うちの支えなんですわ」
ナオミさんは、プラモデルの電車で遊んでいる累に視線をまた投げかけた。
つけ睫毛の下で瞳が潤んでいる。
「あー、そうだったんですか。でも育児が大変では」
「それですねん。今、昼の仕事に切り替えようと思うてます。
宅地建物取引士、ごっつい名前やけど、不動産屋の免許ですわ。
シェアハウスの管理人もしてますんで、こういった資格に関心持ちましてな、
三年がかりで取りましたんや」
「ナオミさん、累くんのことをちゃんと考えて」
「そうですねん。親が、いつも夜いないっての、可哀そうで」
「開業されるんですか」
「いきなり開業は無理でっしゃろ。そいで、どこか不動産屋で働こうかと思うてます。
ニューハーフと言いますかな、こういった客の需要も結構ありますねん。ニッチ分野ですわ」
床に座り込んだ累が、模型駅の前で声を出している。
「三番線に列車が入ります。黄色い線まで下がってお待ちください」
ナオミさんも累の方を振り向き、駅員の声でアナウンスする。
「二番線列車発車します。シュー、ドアが閉まりまーす」
二人は息があっている。
これは、一緒にいる時間が無い親子の、束の間の心通う会話に違いない。
「今はこの子を夜間の育児所に預けてますんやけど、
昼勤めたら昼間の保育園に入れられるし、
この子も寂しい夜を過ごさんでようなりますかて」
ナオミさんは、父であると同時に母であってきたという。
累が二歳の時の離婚だから、父性も母性も必要だったのであろう。
史郎には、オンナの姿をしたオトコ、そのナオミさんの姿が愛おしくなった。
ナオミさんは遊んでいる累の傍に行った。
ワンピースの背中を見せて座り込んだ姿に、雄と雌が棲んでいる。
太い首筋が白かった。雌雄同体の生きもののように見えた。
ナオミさんがいつから蝶のような姿をしだしたかは聞けなかったが、
自分と正直に向かっている姿は眩しい。
「切羽はんも、
自分の何かを変えるためこうして大阪まで出て来なはったわけでっしゃろ。
皆それぞれ、今より変わりたいと思うて生きているんですな」
「このシェアハウス・ロンドの人たちも、そうなんですよね」
「別に変らなくてもええ生き方もあるやろうけど、
長い人生そんなもんではないでっしゃろうしなあ」
曇り空から時折、薄日が差し込む。
ガラス窓からのその強弱の光が、
史郎とナオミさん親子の影を濃くしたり薄くしたりしている。