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⑸ Mary Jane。Mary Jane on my mind……僕の心のメリージェーン。

 第2章 休暇二日目 「シェアハウス・ロンドRONDO」

             ナオミさんが歌う、Mary Jane。Mary Jane on my mind……

             僕の心のメリージェーン。


 翌朝、洗面所で歯を磨いていると、肩を叩く者がいる。ナオミさんだ。

「おはようさん。よく眠れたん」

「あ、はい。眠れました。ナオミさん朝も早いんですね」

「元気が取り柄ですわ。あのな、今日は第三木曜日、

ちょうど良かった。

月一回、団欒室で夕方六時ころから『ロンド会』ってのがあるのよ。

ここの住民の親睦会ってこと、今日はちょうどその日やねん。

あたし、夜の仕事休んで来ますわ。

参加は自由やけど、好きなお酒とか、手料理持参で寛げるわよ。

切羽はん、六時にどうでっしゃろ」


「六時には戻れそうですので、顔見せ方々、

団欒室に行ってみましょうか。食事は」

「あぁ食事はキッチンがあるさかい、皆で適当に作りますねん。

焼きそばとか、お好み焼きとか、

たこ焼きなんど。切羽はんは、好きなお酒だけ持って来ればええんよ」


 シェアハウスも、今流行りのコミュニケーションとかを大事にするのだろう。

「ああそいでね、スマホはロンド会に持ち込み禁止なの。

すぐラインとかユーチューブなんぞ、やり始めるからあかんわ。親睦会だいなしや」

 それだけ言うとナオミさんは、管理人室への階段を上がって行った。


 十三駅のコインロッカーからボストンバッグを「ロンド」に持ち帰り、

シャワーを浴びて史郎は出かけた。

初めて就職し、ねぐらにしたアパート「相川荘」を訪ねるためだ。


阪急電車・京都線に乗って十三駅から相川駅まで十五分弱。

相川駅から勤務先だった南森町へは、二十五分ほどだ。

相川荘は確か大学の先輩がそのアパートにいたので、決めたように憶えている。


 相川駅は高架駅になっていて、ホームの下が改札口となっている。

史郎は改札口を抜け、駅正面に立った。

少しも変わっていない。

駅に隣接したタクシー会社、電柱の質屋の広告。

(ひな)びた駅だが一日一万四、五千人の乗降がある駅だ。

当時も朝のラッシュは学生や通勤客で混雑していた。


アパートは駅から五分くらいのところ。木造二階建て、共同風呂、共同便所だった。

相川荘のあった場所一帯は、軽量鉄骨つくりのアパート群に変身していた。

木造アパートが数棟あったが、それらは「相川荘」と特定できなかった。

建て替えの可能性は十分あるが、

「相川荘」が存在しないのをあえて確定したくない気持ちが働いた。


駅に通じる路地を歩いていると、

ざわざわとする音、騒音が立ち上がってきた。目の前の風景が陽炎のように揺れる。

「俺はこの道を約四十年前、往復していたのだ」


朝の通勤電車に遅れまいと急ぐ男や女たち。

そこに腕時計を何度も見ながら急ぐ

、背広姿の若者を見つけた。

あ、あれは俺だ。いつも寝坊してせかせかしていた。


人生に先が見えてきた老人が、ここに立っている。


あの青年は、四十年後に再び訪れることがあることを、

思いだにしなかったはずだ。

結婚して、ローンで小さな家を建て、子供もでき、その子らも成長し、孫もいる未来。

しかし今、青年の頭の中は、そのような未来のことより、

仕事を覚え自分の中に組み立ててゆくことしかない。


 通勤電車に遅れまいと急ぐ青年、その青年を見る人間。

どちらも偽者ではない。

「頑張るんだよ。ほら、大した者ではないが、一応人並みの年寄になってるよ」

 史郎がその青年に伝えようと、近寄ったとき、

青年はチラッと見たようにみえた。しかしすぐ駅の雑踏に消えて行った。


「なんだ、オレは忙しいんだ、爺さんどけてくれ」と、

青年は内心呟(つぶや)いていたかもしれない。

冴えない老人にしか見えなかったのだ。


「俺だよ、俺」と言う間もなく、目の前の陽炎は消え、

埃っぽい駅前通りの情景が現れた。


 気づいたとき、史郎は高架駅のプラットホームに立っていた。

あの青年を追って行ったのだが。


過去が現在に溶けたのか、現在が過去に溶けたのか、

今この町で生きているような錯覚に襲われた。

昨日もそうだった。

初就職地の南森町ビジネス街を訪ね歩いていると、

自分が今もこの地で忙しく働いている錯覚に襲われた。


 目の前には、プラットホームに立つ男を置き去りにするように上下の線路が、

交差して拡がっていた。時が交差するかのように。


 六時にはまだ時間はあったが、史郎はシェアハウス・ロンドに向かった。

途中、十三駅前を歩いていたら『ワンドリンクとジャズライブ』というポスターが、

ヒラヒラしている。もとをいえばこの十三には、ジャズを聴くために寄ったのだ。


史郎は蜘蛛の巣にかかる昆虫みたいに吸い寄せられ、

ポスターが指差す横丁の階段を降りて行った。

ビルの地下のジャズバーだ。

黒人を交えたジャズメンの集団が、ステージで既に酔ったムードを漂わせとぃる。

「A列車で行こう」に始まり、「センチメンタルジャーニー」が流れていた。


史郎は注文したハイボールをゆっくり飲んだ。学生時代、

ハイボール一杯で深々とソファーに沈み込み粘ったものだ。

「テイク・ファイヴ」を聞きながら首を垂れ、

膝の上に乗せた指でリズムを取ったりもした。


夕刻が迫るとセッションが始まるらしいが、

「ロンド会」に遅れてはいけないので、惜しみ惜しみ、そこを出た。

ジャズをライブで聴いたのは何年振りだろう。途切れているが、

記憶はすぐに(つな)がる。ずーっと昔のことも、

今のことも繋がっている点では、別物ではない。

昨日の南森ビジネス街と今日の相川駅に行って、史郎はその思いを強くした。


 コンビニで差し入れの缶ビールを半ダースと、

あたりめとおにぎりを買って、シェアハウス・ロンドに史郎は戻った。

シャワー室が空いていたので、シャワーを浴び、バスタブに浸かった。

すべてが溶けてゆく思いが心地よかった。


「切羽はん、ええのに、差し入れ」

六時前に団欒室に行くと、キッチンでナオミさんがお好み焼きを焼いていた。

縮緬(ちりめん)模様が浮き出た、ジョーゼットワンピース姿だ。


隣では男性二人、それに女性一人が餃子とたこ焼きを作っている。

料理を運び、思い思いのテーブルに着くと、幹事役のナオミさんが口火を切る。


「今日はあたしを入れて五人。もう一人は出張、

エレベーターの保守点検屋さんなんやけど、忙しそうで」

今日の参加者は、料理を作り終えた住人の男女三名、

それに史郎と管理人のナオミさん、この五名である。


「ま、一応紹介しときますわ。あ、そうそう皆食べながら聞いて。

冷めると美味しくないさかい」

ナオミさんは、隣に座っている史郎をチラッと見て話を続けた。


「この方は飛び入りで切羽はん。小旅行であと二日ほどの滞在ですねん」

自然と自己紹介をする雰囲気になり、史郎も口を開いた。

「ほんの束の間ですがよろしくお願いします。

九州の西の端っこ、長崎から出てきました。学校を出て初めての勤務地が大阪だったので、

その足跡を四十年ぶりに辿(たど)ろうと思ったのです。

小旅行というよりも……」


史郎がここまで話すと、額が広く体格の良い四十ちょっとくらいの男が割り込んできた。

皮肉っぽい表情を浮かべている。


「自分を訪ねてか、俺もいつかしたいな。

俺、四国の田舎から出てきて、もう二年。四十一歳、彼女いない歴三年。

居酒屋チエーンの厨房社員してまして、南と言います」

言い終わると、餃子を一口入れ焼酎をぐいと飲んだ。


「この、蛸少し硬いな、南さん」

 史郎の前に座っていた三十過ぎの細身の男が、同意を求めるように、

横にいる太めの南さんの脇腹を突いた。


「あんまり柔らかいのもね、ちょっと摘まんでみるか」

南というアラホ―男は、たこ焼きを爪楊枝で「確保!」と言って突き刺し、頬張った。

刑事ドラマの見すぎかもしれない。


先程の細身の男が、史郎の方に向き直り話しかけてきた。

「自己紹介は苦手だけど、僕、早川。歳は三十と四。

山陰地方の港町から、大阪に出て来たけどUターン希望。

ゲームソフト会社でプログラマーをしながら、軍資金を貯めてるところです」

 丁寧に自己紹介してくれる。史郎は頷き、軽い会釈をすることを忘れない。


 グラスに焼酎を注ぎ足していた南さんが、

「早川君は田舎信奉者、俺も洗脳されそうだけど。俺は故郷を捨てて来たんだから」

「そやけどお二人は、意気投合して田舎というか、地方で何か起ち上げようとしてはる」

ナオミさんは口を挿み、皆が持ち寄ったおつまみをテーブルに適当に広げた。


「ま、そうやけどね」と南さんと早川君。

二人は、一緒に何かを起ち上げようとしているようだ。


目の前の野菜サラダを(つつ)いていた、三十代くらいの女が、

右あごの黒子(ほくろ)を掻き掻き、

「さて、しんがりの私、紅一点。今売り出し中」とおどけた。


南さんから「でも売れそうにない」と突っ込まれ、茶系の眼鏡フレームをぐいと持ち上げた。

「買い手に魅力がないのよ。何か、なよってるわね、最近の男」

不満そうな表情だ。


「公園デートで、前の彼氏ね、抱きついてきたかと思えば、

可愛いとか何とか言いながら、あごの黒子を嘗めたり吸ったりするんよ。

この変態って突き返し、それっきり手を切ったけど」

 皆いっせいに笑った。ナオミさんが「ああその()

あんたに惚れたんじゃなく、黒子に惚れたんや」とまた笑わせた。


「あ、脱線したわね、さて本題、本題」

茶色のメガネフレームの女が、咳払いをする。

「脱線はさて置き、私、道産子。アラサーでーす。大学では生物学専攻。

生きもの好きが高じて、ペットショップの店長してます。

亀川さいこです。さいは、野菜の菜」


「両親は優しい子に育つようにと菜子と付けたのに、独り立ちすると肉食系」

すかさず早川君がチャチャを入れ、みんなを沸かせる。


 よそよそしいマンションなんかより、

シェアハウスの方がまだ人間関係が温かそうだ。


 史郎への自己紹介が一通り終わると、リラックスムードになり、

思い思いに飲み物やつまみに手を伸ばした。

史郎と早川君はビール、ナオミさんは例の僧坊酒、菜子さんは酎ハイ。

南さんは焼酎をチビチビ飲んでいる。


同じ屋根の下で皆二年以上はいるだろうから、気が置けない雰囲気が自然にできている。

シェアハウスの良いところか。全くの他人同士だが、都会の孤独から少しは救われる。


「そうそう、さっきも言ったんやけど、

南さんと早川君が一緒に起ち上げようとしてはるのは」

ナオミさんがこう言い終わるか終わらないうちに、

早川君が唇に付いたビールの泡を手で拭き拭き、

「南さんが調理士免許を持ってるし、

僕はプログラミングができるので、

山陰の海辺町で、ゲームができる古民家レストハウスを手掛けるんです。

受動的に管理されて働き続けるより、こちらから仕掛けようと、

二人の意見が合致したんで。何が起きてもおかしくない世の中、

ずっと飼われ続けるのも不安だし。

まだやり直しができるうちに、やっちゃえっと……」


 アラサーとかアラフォーと言う世代は、世の中との付き合いには、

意外と冷静でしたたかなのかもしれない。


早川君の話によれば、山陰の海辺の町役場が、空き家再生プロジェクトを募っていて、

それに採用されたらしい。

一年後のオープンで今は資金作りと、古民家改築のプラン創り期間だとか。

資金の半分、町の援助があるらしい。

地方を捨てた男と地方へ戻ろうとしている男二人が、

シェアハウス・ロンドで結びつき、何かを始めようとしている。


「俺は、本当はね。田舎は嫌いだよ。皆、親戚みたいな鎖があるのだけど、

無関心を装っていてね。それでいて何か事が起これば、あそこの血筋はとか言いだす。

まだ都会の方が、親切な無関心さでいいよ」


 南さんの持論がまた始まったぞと言うような表情を、ナオミさんがしている。

「田舎は土着から逃げられない。都会には土がないので、浮いて生きられるし、

息苦しさは田舎ほどないよ」南さんはこう続けた。


古びたTシャツの胸には、No, thank you.とプリントしてある。

南さんが田舎を飛び出したのには、余程の特別な事情があったのであろう。


ビールで顔が赤らんだ早川君が、「土着ねー」と言って、

「近頃、田舎も土の臭いが薄れてきているよね。田舎のピラミッドが壊れてるもんな。

老人は増えたが、もう古老の居場所が狭くなったつうか、求心力がなくなったつうか」

「田舎でも、物知りの長老にお伺い立てることが少なくなったよね」

菜子さんが、これでいいのかなと寂しそうな表情をした。


 今はインターネットの世界で、情報は溢れている。

古代の話も近未来の話も知識も、キーボードを叩けば瞬時に届く。

音声対応機種はもっと簡単だ。今どきの古老にとっては、

パソコンやスマホは、玉手箱やアラジンの魔法のランプである。


長老はもはや役目を終わり、

残りの人生をいかに生きるかだけを考えるただの老人に過ぎないのか。

幸か不幸か寿命が伸びて、老後が長くなったのも負担となる時代だ。

久しぶりに聞く若者たちの会話が、固まりだした脳をくすぐる。

ちょっと考え事している史郎に、早川君が羨まし気に言葉をかけてきた。


「切羽さんは、もう定年退職ですか」

「ええ、まあ。あと二か月で……」


「あと二か月でゴール、いいですね。切羽さんには悪いけど、

団塊の世代はもう皆、上がっちゃった。

競泳で言えばゴールタッチ板に触れて。それなりの退職金と厚生年金受給資格をゲットして、

と言うより誰もが保証されて」

「俺たちこの先、そのタッチ板に触れてゴールできるとは、

保証されていない、というか約束されていない」

南さんが憮然とした表情でつけ加える。

横から菜子さんも、

「ゴールの岸にたどり着く前に、離岸流と遭遇するってことだもんね」

「将来、下流老人にはなりたくないなあ」

南さんと早川君、どちらからともなく言って頷く。


 史郎とは、二十五年以上違う世代人。

そういえば、史郎が生まれたのは昭和二十六年だ。

周りには、戦争に行った大人たちがいっぱいいた。

振り返り思えば、銀行員の初任給が三千円とかいう時代である。

誰もが空腹感を抱え生きていた。

このころ勃発した朝鮮戦争が日本経済に特需をもたらし、

高度成長期に突入していった。そして安定成長期とバブルの栄華に酔った。


昇給の無い年はなかった。そのあとはバブルの崩壊、リーマンショック、

津波襲来みたいなものだった。


生まれた時代で、食べる果実が違う。分け前が違うということか。

史郎の世代は、離岸流に押し戻されることはなかった。

入社したら定年まで約束されていた。

今は大企業でも、十年先いや三年先だって分からない時代。

目の前にいる彼らは、バブルの果実を食べたことがない世代の人たちだった。


「楽してここまで来たわけではないよ。身を粉にしてやってきたわけだけど」

 史郎はそう言いながら、目の前の彼らがわが子のように見えてきた。


「そうだよね。皆、生まれた時代が違っているんやけど、

皆ええ加減に生きてきたわけじゃないものね」

 ナオミさんがフォローしてくれる。

「歳食うた切羽はんが、加わはりましたんで今日の『ロンド会』は、

なんだか世代間論議みたいな方向に行きましたな。

ま、たまにはこういう話題で飲むんもええかいな。滅多にないことやし」

 これも有りだよね、というふうにナオミさんは言って、

僧坊酒の入ったグラスを揺すった。


古い酒が、透明のグラスの中でゆっくりと揺れている。


ところで、と南さんが話題を変えた。

「切羽さんでしたか、四十年以上も前に居た土地を訪ねに来られたとか」

「学校出て初めて就職した土地なんです。

そこでずっと続けることはできませんでしたが」

南さんはちょっと考えるふうにしてから、

「人って最初から終わりまで、同じってことはない場合も多いんだよね。

でも中身というか芯は同じだろうけど」

「芯が変わっちゃったらだめよ。ただの蝙蝠(こうもり)人間やんか」

椅子の背もたれに寄りかかっていたナオミさんが、身を乗り出して強調した。


椅子の上で片膝を立て座り、チーズをかじっていた早川君が、でもねと言いだした。

「場所が変わっても、これも生きようとしている自分なんだと、

思えればいいんだよ。一か所に留まって独り苦しむことないさ」


 菜子さんが、いつの間にか作ったカクテルの氷を転がしている。

何か考えを(まと)めているふうだ。

「生きものはね」と生物学畑らしく切り出した。

「生きものは生きるために、体の一部を切って再生したり

、寄生したり、体の色を変えたりするでしょ。

人間も同じ生きものだから、それができるはずよ」


「それ、擬態つて言うのでっしゃろ」

頬に薄紅を刷いたナオミさんの口から、「擬態」という言葉が飛び出したので、

その場に一瞬、複雑な笑いが流れた。


旅人の史郎の飛び入り参加と、アルコールが手伝って、いつになく「ロンド会」は賑やかなようだ。

ナオミさんが差し入れたオードブルも、花を添えている。


アルコール焼けで、南さんの顔は赤く色づいてきている。

「人間死んだら、あの世があるって限らないもんな。だとしたら、今を生き抜かなくちゃねえ」

「そうよ南さん。森のリスだって、

猛禽類(もうきんるい)(あざむ)いて擬態するのよ。

幹の皮色に同化しちゃうの、生き抜くために」

菜子さんがすかさず、生物学畑らしい話題に引き込み、少し間を置いた。

ミントの香りがするカクテルのグラスを揺らしている。


次にはそれをゆっくり口に含んだ。何かを思い出そうと辿っているようだ。


「あたしが中二のとき、パパの仕事の関係で転校して、

友達ができずに悩んだことがあってね。自分と相いれないものが有るって思ったのかな。

そのとき図書館でたまたま『生きもの図鑑』を手にしたの。

そこに、昆虫とか魚類とか小動物たちが擬態をしながら、

生きるために必死になっている姿が載っていて、感動したわ。

人間より弱い者たちが、生きようと必死になっている。私ポロポロ泣いたわ」


 菜子さんは、湧き上がる感情をじっと抑えている。

そしてごめんなさいと頭を軽く振った後、口を開いた。

「その図鑑が、擬態って、体の色を変えるだけじゃない、

内面の擬態も有るって教えてくれたのよ。

図鑑を抱きしめたとき、熱い閃きのようなものが、体の中を駆け抜けて行ったわ」


菜子さんはここでちょっと言葉を区切り、先ほどより少し明るい声で続けた。

「自分を変えること、それが生きるためなら、

自分に言い聞かせてその道に行くべきって、

そう確信したの。それから、目の前が開け、

不思議なものね、親しい友達が何人かできたわ」


いろいろあったんだね、と頷く南さんの傍から、

早川君が首をちょっと左右に振りながら言葉を挿んだ。


「人類は、ほかの生きものたちより脳味噌が発達した代償として、

心の悩みを背負ったというわけか」

眼がうろんとし出した早川君が、若いのに的を射たことを言ったので、

「うーん、さすがITさん」とナオミさんが相槌を打った。


「さっきの続きだけど、中三の頃、リストカットして自殺した同級生がいてショックだったわ。

家庭環境も良くなく、いじめにも遭ったり孤独だったのよ。

居場所がなくなったのね、その子」

 菜子さんの話題で、ちょっと深刻そうな雰囲気になった。

「大事なことよ」と言って、菜子さんは茶色の眼鏡フレームを持ち上げた。

「いま居るところに絶望して、もう生きられないって考えて、

自分を削除したのよ彼女は。地球上のどんなに、

ちっちゃな生きものも、蟻でも皆必死に生きようとしているってことを、

誰も教えてくれなかったのよ。あたしも精一杯で、その子を救えなかったけど。

尻尾を切ったり擬態したりして、人はそうやって生きてはいけないの? そんなこと、ないわね」


 アイスペールの中でビシッと、氷が解ける音がした。

浮遊している細胞の溶液が、浸透圧で引っ張られたり、引っ張ったりしている。


シェアハウスで不器用ながら住民たちは、それぞれの溶液を出しあっている。

皆生きている、生きようとしている。そしてこの時間にも、

生きることを諦めた人がどこかにいる。


 菜子さんが作ってくれたジン・フィズを飲んでいた早川君が、

神経質そうに片唇を上げ話し出した。


「約六百万年も前に人類が誕生したが、生き方には何の進歩もない」

 菜子さんがそのとおりと身を乗り出した。

「そうそう、もう天文学的な数の人々が生まれて死んでいったが、

新しく生まれて来た人は何の知識もなく、初めからスタートだもんね」


「生まれてきた赤ちゃんの脳に人工知能を組み込んだマイクロチップを移植して、

生き方をインプットする時代が来るかも」これはIT畑らしい早川君の発想だ。

「そしたら、リストカットする子もいなくなる」

 菜子さんが救われたようにそう言って、手元のジン・フィズを口に含んだ。


 コンビニのおにぎりを食べていたナオミさんが、いきなりおにぎりを放り出した。

「それって、教えられたとおりに生きるってこと。そんな人生、

どこが面白いの。将棋ソフト通りに進めてゆく人生って」


「そんなのは嫌だな。確実な次の一手を知らされて生きる、味気ない人生はねぇ」

史郎も同感という思いからそう言って、菜子さんが作ったジン・フィズに手を伸ばした。


 生き方のハウツーのマイクロチップが脳に組み込まれていたら、

史郎も大阪に出て来てはいない。

岐路に立っても迷ったりすることはないのだから。

インプットされた生き方に従えばいい。

教えられたとおりの生き方、苦労の無いその人生と、先に何が起こるかわからない人生

どちらを選択するかを問われたら、誰でも随分思案するかも知れない。

史郎は、(自分はやはり後者を選ぶだろう)と思った。


 窓辺に置いてある鉢植えの紅いアンスリュムが、

漁火のように光っている。ナオミさんが歌う、

十八番のMary Janeが聞こえてきた。Mary Jane on my mind……僕の心のメリージェーン。


 考えてみれば、生きとし生けるものすべてが、

心のメリージェーンを求めているのかもしれない。

頬杖を突いたり、寝転がったり、思い思いの格好で皆、聞いている。

心なしか、ナオミさんのつけ睫毛が、濡れたように浮いている。

シェアハウス、「輪舞(ロンド)」の名にふさわしい夜だ。


 史郎には、世代間の考えを言ったり聞いたりする機会はこれまでほとんどなかった。

今日の夜会は史郎の〈休暇〉の、副産物に思えた。

(世代間での、横の連帯で互いに何ができるのか、ときには立ち止まって考える必要もありだな)

史郎はジンを飲んだ酔いの中で、その思いに浸った。


時間も大分経ち、飲み物や食べ物もなくなってきたので、自然とお開きになった。


史郎が、自室に戻ろうとしたとき、灯りの点いた廊下で、

男の子がトミカの電車を走らせ独り遊んでいた。

四歳くらいだろうか、円形のレールには信号機やトンネルそれに模型駅舎が建っている。


ここの住人の友達の子かなと思って、「面白そうだね」と声を掛けた。

その子は、トンネルから出て来る電車に夢中だ。

史郎は頭をそっと撫で、自室に向かった。

他の住人も別にその子に、気を取られてはいないようだった。


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