⑷ ナオミさんの勧め。「これ飲んで、僧坊酒」
第1章 休暇一日目 深夜高速バスに乗り、大阪へ
ナオミさんの勧め。「これ飲んで、僧坊酒」
〈ウスイ〉の呼び声がする雨の日の「聲」、
何かをもたらす予感がする。
従弟の言葉にも背中を押されたが、
定年二か月前の憂鬱を吹き消したい気持ちもあって、
史郎は大阪行きの深夜高速バスに乗り込んだ。
前にも、夜行便でふらりとデジカメを提げ、
渡り鳥を追って天草の岬に行ったことがある。
そのときは民宿に泊まった。妻は別に気に留めることはなかった。
言ったのは「あなた無駄遣いしないでね」だった。
今回も、「そんなに塞ぎ込むくらいなら、
気晴らしにどこかへ行くのも手かな」と多分、
心配なんかしていないだろう。
朝六時十分梅田に到着。降車してすぐ、
九州の西の果てとは違う生きものの臭いを嗅ぐ。
史郎はショルダーバックを左肩に掛け、
小ぶりのボストンバックを右手に持って深呼吸をした。
どう見てもお上りさんだな、独り言が出る。
不慣れな長距離深夜便のせいか、足が地に着かない。
まずは腹ごしらえと、地下街に下りた。
珈琲の匂いがする方向に歩き、ガラス戸を押す。
モーニングを注文し、深呼吸をして、やっと脳味噌が動きだした。
ポケットから、大阪地図を引っ張り出す。
地下鉄の路線案内も詳しく載っている。
「よし、こうしよう。今日は初就職地の南森町オフィス街を訪ね、
明日は住んでいたアパートがある相川の地を訪ねよう」
ウエイトレスがセットを運んでくるころには、
史郎の「休暇」の振りだし点と次の地点が決まった。
この二つの地点を歩いているうちに
、双六ではないが納得できる「上がり」地点が見えてくれば、
来た甲斐があるっていうことだ。
珈琲の中のミルクが暫く渦を巻いて溶けた。
初就職地の南森町ビル街を訪ね歩いていると、
自分が今もこの地で忙しく働いている錯覚に襲われた。
「キリハはん、いてこましたろうか」
耳に残って響いてくるのは〈ウスイ〉という名の、同期入社の男の聲。
〈ウスイ〉は確か広島生まれと言っていた。
歳に似合わない、少しニヤケ顔が浮かぶ。
給料日に二人で新地に飲みに行き、ポン引に騙されたこともあった。
お得意様まわりの行き帰りには、
覚え始めの大阪弁でやりあったものだ。
史郎がちょっとしくじったり、
頭ごなしに言ったりすると〈ウスイ〉は、
いてこましたろうかと突っ込んできだ。
あいつ、今は何しているのだろう。
初就職先のJR系第一観光ビルは
、見当たらなかった。国鉄が民営になり、
どこかのJR組織に吸収されたのだろうか。
南森町オフィス街は変わることなく喧噪のなかに有った。
今、〈ウスイ〉を探す手立てはない。これでいいのではないか。
探さずこうして現在に過去を溶かして、
幻想のように観る方にもっと深い意味が潜んでいるように、史郎には思えた。
四十年前、ここで旅行の行程表を作ったり、
ここから添乗員必携の「案内小旗」を持ってステーションに二人で出かけた。
「ウスイ」「よっしゃ、切羽はん行きまっせ」と声をかけあいながら。
今、南森ビジネス街に立っているのは、
六十五歳の男から抜け出した二十五歳の青年だ。
「ウスイ」、と史郎は思わず陸橋の上で叫んだ。
「よっしゃ」という掛け声がして、その聲はビルとビルの間に消えていった。
史郎の休暇は四日間、まだ時間はある。
夕食方々、十三の街に寄った。
十三駅は明日訪問する相川駅に近い。
それと、「十三ジャズ復活」というポスターを見たので、この街に興味も湧いた。
ジャズは学生時代に少しだけかじったことがある。
ボストンバックは駅のコインロッカーに入れ、ショルダーバックだけ肩に提げた。
十三は、いろんな文化が混ぜこぜになった街だが、
人懐っこい街だ。
旅行会社の添乗員や不動産屋の社員をしていた史郎とは肌が合いそうだ。
取りあえず夕食をと、軽食も出しそうな居酒屋に入った。
ビールと串焼きと稲荷を注文した。
早朝から歩き通しだったので、疲れで眠気も出てくる。
アルコールが今日一日の疲れを包み込む。
「そこ、ええでっかいな」
呼びかけに史郎はわれに返った。相席をということだ。
「あ、いいですよ」
テーブルの上のショルダーバッグを、史郎は足元に下ろした。
入ったときは客もまばらだったが、いつの間にか席は詰まってきている。
カウンターとテーブル席が五つばかりの雑っこい居酒屋なのだが。
目の前に、歳は四十過ぎくらい、
ソバージュヘアでふっくら顔の女が座っていた。
化粧が少しオーバー気味でコンサバ系のドレス。
(これは女装しているな、よりもよってオネーと相席か)、史郎は思った。
「チントンシャン」
そのオンナは、口三味線で首と手先を器用に動かしている。
和服ではないが、様になっている。
「あぁここがまだ上手くいってない」
オンナは史郎に顔を向け、
「ごめんなさい。あたし、おっしょはんから、いつもここを注意されてんの」
史郎はどう応えていいか戸惑った。オンナは酒瓶を史郎に差し出し、
「これ飲んで、僧坊酒」
今度はカウンターへ向かって声をかけた。
「お兄さん、お猪口もう一つお願―い」
法被姿の店員がお猪口を持ってくると、
また史郎の方に向き直り、新しいお猪口にお酒を注いだ。
「遠くから来たんやろ、これな浪速のお酒、ええ味するんよ」
史郎の足元の少し大きめのショルダーバックから、
旅行者と推察したようだ。
史郎は勧められるまま、お猪口の茶色っぽい酒を口に含んだ。
梅酒みたいな味がしてワイン風でもあり、ちょっと変わった味がする。
「僧坊酒っていうて梅酒ぽっい日本酒。
おいしゅおますやろ。日本舞踊のお稽古帰りは、
これでまず一杯、あたしの時間って感じするのよ」
目鼻立ちが大きめのオンナはもう一杯お飲みよと、
史郎のお猪口に注ぐ。ワインカラーのネイルが濡れたような光を帯びている。
「今夜はどこかお泊りですの」
「駅前のビジネスホテルにでもと思ってます」
予約はしていないが、ステーションホテルの空室に余裕があるのは、電話で確認済みだ。
「あぁ、ビジネスホテル。明日はお帰りで」
「いいえ、四日間の予定です」
「四日間。ほなどうでっしゃろ。うちが管理人してるところに。あぁここ、ここ」
オンナは、シャネルのバックから青色の名刺を取り出した。
《シェアハウス・ロンド(RONDO)
管理人 貝原ナオミ 》
「シェアハウス、ですか」
史郎はちょっと身構えた。このとき自然に肛門を引き締める自分に気づき、
内心苦笑いした。
「皆、個室なんよ。安心してや」
身構えている史郎を察し、オンナも苦笑いしている。
「ちょうど一部屋空いてるのよ。四、五日くらいだったら留めてあげるよ。
うち、そこの雇われ管理人、安心して。
みんなナオミさん、ナオミさんと言って慕ってくれますねん。
四、五日くらいだったらええのよ。格安にしとくわ」
琥珀色のイヤリングをちょっと触ってから、ダメ押しするように、
「先週には、外人さんが泊まったのよ。旅サイトのライターとか言ってはったけど。
シェアハウスってお互いそれほど干渉せえへんから、気楽なんよ」
史郎は迷った。ビジネスホテルの方が気楽そうだが、
シェアハウスに経験のために滞在もありか。
寝るだけだし、昼間は出かけるわけだし。
このナオミさん、世話焼きなのか皆に慕われているというから、悪い人でもなさそうだ。
管理人でもあるし。ひょっとすると喉笛を吹く、
あの雨の引き合わせかもしれない。
「ビジネスホテルよりゆっくり寝れるさかい」
史郎の承諾の表情を見て、ナオミというオンナは、
足元の史郎のショルダーバッグを掴んで立ち上がり、カウンターに向かって呼びかけた。
「勘定つけといて」
「あ、いや私の分は払います」
史郎が追っかけるように立ち上がると、片目を瞑って、
「大丈夫、ええねん、ええねん。此処は顔が利くのよ」
史郎は躊躇したが、深遠慮する雰囲気でもなかったので、ナオミさんに甘えた。
カウンター席の隅っこでは酔いに任せて、
「十三の夜」を歌っている。
十三のねえちゃん くじけちゃいけない……。
昭和四十七年ころヒットした歌謡曲だが、今も酒場で歌われている。
「酔いが回ると、誰かがあの歌を歌うみたい。あたしは気が向くと、『Mary Jane』を歌うのよ」
ナオミさんは「Mary Jane on my mind」とハスキナーな声で口遊みだした。
これも「十三の夜」と同じころヒットした曲だ。
(僕の心のマリージェーン)、史郎にも憶えがあるから懐かしい。
「日舞は生活のため、この歌はナオミの心の癒し」
ナオミさんはちょっと寂しい表情をした。
ナオミと呼ぶより、「ナオミさん」の方がこの年増ニューハーフには相応しい。
「ナオミさん」のその語感、響きから、これまでの人生が滲み、漂ってくる気がする。
mindは皆、一色ではない。人それぞれだ。
史郎は歩きながら、初めての就職地を訪ねるため、
妻に四日間の休暇願いを出して来たことを話した。
名前は切羽史郎と告げると、ナオミさんは「キリハシロウ、ええ名前やな、ええ名前やんか」
と何度もつぶやいて、肩を寄せてきた。フレグランスの香りがツーンとした。
途中コンビニに寄り、夜食を買った。路地を抜け少し歩くと駅前通りに出た。
「ここよ」と、ナオミさんは指差す。間口はそれほど広くもなく、
三階建ての白いビルだ。「シェアハウス・ロンドRONDO」
という小さな電照看板が灯っている。
玄関口は、円形の青いタイルで縁どられている。
雨が吹く喉笛を切っ掛けに大阪まで来たわけだが、
この短い「休暇」の宿が、ここであるのを史郎は相応しく思った。
成り行き任せのここを足場に、四十年前の自分に逢いに行く高揚感が胸の中に広まった。
ボストンバックは明日、駅のコインロッカーに取りに行けばいい。
一階に個室が三部屋と、洗濯室、バス・シャワー室、トイレ。
二階には個室が二部屋とキッチン付き団欒室にトイレ。
そして三階は洗濯もの干し場と、管理人棟となっているらしい。
今、二階が一部屋空いているということだ。
ナオミさんは、ひと通り説明すると、二階の部屋の鍵を史郎に渡した。
「今日は、ゆっくり休みなはれ。うち、これからお仕事やさかい」
時間は午後八時を回ろうとしている。
史郎は、部屋に入るとどっと疲れが出て、上着を脱ぎベッドにもぐり込んだ。
シャワーは明日の朝だ。
深夜高速バスの疲れと久しぶりの大都会に酔い、瞼は重たかった。
今日訪ねた街のことを考えようと、そう思っているうちに、
溶けるような睡魔が襲って来た。