⑶ その殻の中で響く「聲」を聞いた
★序章の(2)切羽史郎、蝸牛の殻に迷い込み』の話
切羽史郎、この十月で六十五歳。あと二か月で定年である。
西九州の端っこ、長崎市に在る、地元では大手の不動産会社で、
部長をしている。部長といっても、華々しい営業部門とか企画開発部門ではなく、
業務管理部という部門の部長である。会社各部門の業務の進行を管理するものだが、
裏方というイメージがつきまとう。まだ人事部とか、情報システム部の方が事務方でも華だ。
定年後の身の振り方で人事から史郎に提示されたのは、
傍系の子会社、社員四人のマンション管理会社・東部地区責任者であった。
所長の肩書があっても、マンション管理会社だから、
マンション住民の声を吸い寄せ解決するのが主な仕事、走り使いだ。
東部は中心街から少し離れているので、それほど繁忙でもない。
給与は前職の七掛けではあるが三年間は準正社員扱いなので、
定年退職者には悪くないポストだ。しかし、一応本社で部長までした男としては、
不満であった。世渡り上手で、本部中枢に残る者もいると聞くとなおさらである。
もう亡くなったが、父親は「史郎、勤め上げろよ。
会社のために一生懸命働くのだ」といつも言っていた。
父と母は多良岳の麓の村里で、質朴な一生を過ごした。
父の言いつけどおり、企業のために時には身を粉にして働いてきたわけだが、
も少し会社の中枢に近い部署で最後の男を上げたかった。
「いいじゃない。退職金で家のローンの残りは払えるし、
退職後も働けるポストを会社が用意してくれたのだから。お隣のご主人、
毎日ハローワーク通いらしいよ。六十も過ぎたら、
よっぽどの資格とかキャリアがないと大変みたい」
妻は、これで満足といった表情を浮かべた後、
今度は不満そうに眉を曇らせた。
「ねーねー私たち、年金で悠々自適、豪華客船でクルーズ旅行なんて、
考えられないしね。
孫にもまだ手が掛かるし。でもせめて、『ななつ星列車』の車窓から、
手を振る側になってみたいわね。
そうそう、今は人生百年の時代。
よほど貯えがないと、老後が大変って週刊誌に書いてあったわよ。
あなた、もう少し頑張って」
こういった話題になると妻の話は延々と続く。
夜食前のビールが入るとなおいっそうだ。
初めは相槌を打っていた史郎も、しまいには新聞を読むふりをして黙り込む。
(女は実利で、生き方も天秤に掛けるのか。
男は六十五になっても哀しいかな、
ロマンを追う生きものかも。
男は、配当無きミッションにも挑む動物というが)
史郎は胸の中に広がる孤独感に襲われた。
華々しい部署で配当少なきミッションに挑むか、
スポットライトが当たらない裏方に徹するか。
史郎は、蝸牛の殻に迷い込み、
出口は何処だと探している夢を見る日もあった。
激しい雨の日だった。その殻の中で響く「聲」を聞いたのは。