二人だけの秘密の空間
亀の歩みで、車窓は右から左へと流れていく。三次元の地図をスクロールするよりも遅く、すぐそばを通る自転車にも追い越された。
座席は、都会を走るソレとは比べ物にならない。背もたれのクッションは障子のようで、固い木材が背中からひしひしと伝わってくる。
ボックスシートの癖して、座席を反転させることは出来ない。空気輸送のがらんどう箱だから、どうでもいいのかもしれないが。
「……蓮、ボーっとしてるとデコピンしちゃうよ?」
「暴力に訴えるのは犯罪なんだぞ……?」
一瞬の気まぐれで、夕花が真横に鎮座している。毎日真心こめて洗髪されている様子がよく分かって、髪の先端が太ももを優しく撫でても特に気にならない。
夕花の指定席は、蓮の反対側の窓側。通路を軸として線対称であり、点対称でもある。動く点Pは出てこないでほしい。数学のテストはあまりよろしくない。
大声を張り上げるのはマナー違反なのだが、乱気流が自由気ままに一両編成を駆け抜ける列車では関係なさそうだ。列車を通学に使っている生徒自体、蓮と夕花くらいのものである。
夕花は、肩を蓮の体に沈みこませる勢いで倒れ込んできた。
「……こうやったら、蓮が枕になるね」
「絶対そこで寝るなよ……。起こすの大変なんだから……」
蓮には、平日の下校ほど気分が海溝のどん底に沈む時間帯は無い。
乗客がほとんど存在しない車内には、運転士のアナウンスもされない。停車する度に駅名標を確認するしか術がないのだ。
ところが、である。彼女、高校で所かまわず全力疾走する体育会系女子は、幻想の世界へ意識を溶け込ませていってしまう。
一回至福の僥倖へ身を引きこまれた者を、現実世界に引き戻す。ただの面倒くさいでは片付けきれない。ピコピコハンマーで殴打しても、全身リラックスモードの夕花はまぶたを開いてくれないのである。
「……その時は、蓮が起こしてくれたら済む話じゃないのー?」
「なんにも知らないな、夕花は……。体揺さぶったらカウンターパンチが吹っ飛んでくるし、車外に引きずり降ろそうとしても飛び蹴りで再起不能にされるし……。もしや、狸寝入りしてるんじゃないよな?」
「もし覚醒してたら、下心満載の男の子に隙は与えないよ。獣だもん、思春期の男の子は」
完全防備を主張する彼女は、蓮のももを堪能している。とても、男子を目にして背負い投げを敢行する暴力的少女の側面は見られない。
儲からない路線は光熱費も削減されるのか、車内は薄暗い。無人屋敷を探索した後より闇深い。後ろめたさが無い夕花の微笑みが、車内灯に淡く照らされるのみである。
通勤客はおろか、地元民も誰一人使わない列車。この空間は、高校生の男女二人だけの空間だ。
大人しく寝転がっていた夕花が、にわかに振動しだす。
「……このまま、普通に寝転んでるだけじゃつまらないなぁ……。この状態で、巻き付いてあげようか?」
「蛇にでもなって絞め殺すつもりか……? 逆に食ってやるぞ?」
「出来るものならやってみて!」
やる気スイッチが不具合でショートした彼女は、靴を脱いで蓮の腰を制圧しようとする。尻と座席の末端を密着させていたはずだが、流石蛇なだけのことはあった。
舌をひっきりなしに出し入れして、非人間の特徴を強調している。閻魔大王ならば、間違いなく生意気なピンク色のそれをかち切っていそうだ。
高校での夕花は、男子に過剰反応する狂暴な子である。女子高に進学する選択肢は親から取り上げられ、仕方なく共学へと駒を進めたのだそうだ。
スポーツでも、その傾向は留まるところを知らない。男女混合種目ではワンマンチームと化し、スマッシュで身体に直接攻撃する。狙撃手だと誰かが騒ぎ立て、秒針が一周する間に定着してしまった。
同じ列車で通学する唯一の同級生、蓮に対しても最初はそうだった。常に最大限の距離を取り、話しかけでもしようものなら滅多打ちにされたものである。
「……夕花、男子は触れられるのも嫌なんだろ? 俺も男子だけど……」
「つべこべ言わない! ……蓮は、変な目で私を見てこないし……」
「無邪気さに目を何度も惹かれてるんですがそれは……」
「蓮は例外なの! それ以上言い訳するつもりなら、口を封じちゃうよ?」
業務用ミシンで唇を縫われそうになり、慌てて口を閉じる。手足をバタつかせる女の子が、高校で畏れられているとは一ミリも思わない。
なぜ夕花が軟化したのかは、蓮の知る範囲に落ちてはいない。どんぐりの背比べでも勉強を教えたからなのか、落とし物を探した殻なのか……。彼女に問い詰める気は起こらなかった。
列車が、不意に止まった。入口の扉には、草むらから飛び出した鹿がうろついていた。不気味なブラックホールに入る勇敢さは持ち合わせていないようで、二人を乗せた気動車が過ぎ去るのを望んでいるのかもしれない。
「あ、鹿さんだぁ! 蓮、今日の晩御飯に鹿肉を持ってきてよ」
「冗談じゃなくても出来ないんだよなぁ……。そもそも、狩猟期間の範囲外だし……」
免許を持っているはずがなかった。仮に猟銃が手元にあったとしても、列車の本数のせいで降車は出来ない。出たら最後、不本意なフルマラソンを強いられる。
夕花の動物を見る目は、純真そのもの。生への尊敬と野生の憧れが含まれた、爛漫と輝く瞳を注いでいる。男子への軽蔑とは天と地の差だ。
列車が止まるのは、乗客がホームで佇んでいるか蓮たちが降りる時だけ。草木が生い茂る現役の駅は情け容赦なく通過される。業務違反かどうかは企業が審査するものなので、蓮が口出しすることではない。
動物を乗客として扱うとは、蓮も初めて知った。
「……蓮、今日はこのまま居させてくれない、かな……?」
「自分から巻き付いといて、何を言ってるんだか。……別に、構わないけどさ」
夕花のほのかな体温が、薄着を突っ切って心臓まで届く。親を頼る子猫になった彼女へ、保護欲が滲みだしてくる。
険悪だった犬と猿が、仲を修復して親密になる。これまで芽生えていなかった視点が、植え付けられた。
……暴君みたいに見えても、心は開いてくれるようになるんだな……。
頭を撫でたくなる愛らしさが、蓮を攻め立てる。
「……ありがと! ……これ、高校では秘密だからね? もし漏らしたら、一生朝陽を浴びさせないから」
「……夕花、一つ伝えていいか……?」
彼女のいたずら心を遮ってでも、伝達しておきたい事項があった。
「なあに? いきなり恋人なんて、そんな口説き方は通用しないよ?」
「……夕花の駅、さっきの鹿が居た駅だった……」
列車は、既に山のトンネル目掛けてディーゼルエンジンをフル稼働させていた。
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