(5) こんなのずるい
「おはようございます。」
飲食店の挨拶は夕方でも「おはよう」だ。理由は知らん。
「よう」
俺よりも一回り体格が大きな大輝先輩が厨房の中で包丁を動かしながら返事をしてくれる。
奥の小部屋で着古したジャージを脱ぎ、代わりに制服になっているポロシャツを着る。背中に大きく店の名前が書かれているやつだ。
厨房の脇でタイムカードを打刻機に入れると、ガチャと音がする。タイムカードには「アユム」と俺の名前が書かれている。ちょっと嬉しい。
先月まで、名前を記入する欄には何も書かれていなかった。
本来、中学生は働けないから、店の経理からは給料が支払えない。
オーナーの望月さんがいわばポケットマネーから「小遣い」の形で働いた分の賃金を毎週くれていた。
数日前に晴れて高校生になった俺は、正式にアルバイトとして雇われた。雇用契約書と業務内容通知書にサインして、百円ショップで買った印鑑を捺した。
身元保証人の欄には望月さんが自分の名前を書いてくれた。
「これからは月払いになるからな、気をつけろよ。」
と、望月さんに注意された。大丈夫、毎週もらっていたお金は使い切らずに少しずつ残している。
蜷坂の繁華街にある居酒屋で、店の名前は『月の輝く夜に』。誰もフルネームで呼ぶ人はいなくて、バイトも常連さんも「ツキカガ」と呼ぶ。
黙ってフロアの掃除を始める。14時までのランチ営業が終わり、夜の営業は17時からとなる。現在の時刻は16時10分。時間に余裕があるのはいいね。
宴会などに使われる和室が一部屋、ただし真ん中で二つに仕切ることができる。靴のまま座れる四人掛けのテーブル席が三つ、カウンターが八席。最大40名程度が入れる店だ。たいして広くないので掃除はさほど大変じゃない。
フロア接客のバイトもそろそろ来るだろう。接客は常時二名入るようにシフトが組まれている。全員女性だ。今日のシフトはサユミさんとミナさん。大学生だという。
ちなみにバイトリーダー的な存在となっている大輝さんは二十代後半に見えるが実はまだ二十歳。やはり高校生の時からずっとこの店でバイトしているという。
本人は「浪人生」を自称しているが、参考書を開いているところは見たことがないし、毎日「ツキカガ」で働いている。
どうやらフリーターを名乗るのがいやらしい。「浪人生は大学受験を志してさえいればなれるから便利だ」と、以前言っていた。
「歩夢、ちょっと来い。」
「はい」
掃除が一通り終わった瞬間に大輝さんに呼ばれる。この人には逆らえない。制服もらったし。師匠でもあるし。
大輝さんの横に「シェフ」の田村さんがいる。この店の料理をすべて統括している板前さんだ。
「悪いんだけど今日のメニューだと胡麻油が足りなくなりそうなんだ。買ってきてくれるかな。」
田村さん、料理長なのに腰低すぎ。いつもそうだ。
「そういうわけだからすぐ行ってこい、10分で戻れ。」
と大輝さん。こういう小間使いはもちろん最年少の俺の仕事だ。
「はいっ」
お金を受け取って勝手口から店を飛び出す。腕時計を見る。16時25分。
全力疾走しないと10分では戻れない。
胡麻油ならドラッグストアの方がスーパーより近いし安いな、と咄嗟に主婦力を発動する。棚の並びもだいたい記憶している。
店に入るやいなや「調味料・油」のコーナーに直行し、いつも店で使っている胡麻油のボトルを掴んでレジに引き返す。レジ打ちのアルバイトは高校生だろうか。ちょっとビビッてる。ごめんね、お姉さん。
会計して領収書をもらって、ドラッグストアを飛び出して、またダッシュで店に戻る。
店に到着。16時34分。よっしゃ。
「戻りました。」
と言いながら店に入ると、つい先刻より人が多い。
接客のバイトをしている総勢八名の女性がなぜか勢ぞろいしていた。シフトのサユミさんとミナさんだけ制服で、残り六人は私服。オーナーの望月さんと奥さんもいる。
大輝さんと田村さんと合わせて全部で12人。
なんだ、バイト料引き上げの団体交渉か?これは関わっちゃいけないやつだ。
俺は邪魔しないように、まっすぐ厨房に入って買ってきた胡麻油をいつものストック置き場に、って、あれ、胡麻油あるじゃん。
「歩夢、こっち来い。」
と、大輝さんの指令がくる。もしかして、俺、買ってくるもの間違えた?
「はい」
怒られるのは慣れてるけど、これはもしかして公開処刑ってやつか。むごい。
「ここに立て。」
と言われたのは接客バイトの姉さんたちが立ち並んでいる正面中央。
「歩夢クン、高校入学おめでとう!」
今日はシフトじゃないユリさんが、なんか大きな紙袋を俺に渡しながら言う。
へっ?なに?
「「おめでとう!」」
他の全員が声をそろえて、いや、あんまり揃ってなくて、でも大きな声で言ってくれた。
「…!」
やべえ。こんなのずるい。
これがサプライズっていうやつか。
ていうか、みんな俺が中学生だったの知ってたの?ダメじゃん。
「アルバイトに昇格だね」
「堂々と働けるんだね」
「これからもよろしくね」
と、口々に声を掛けてくれる。くそう、なんだよ。
笑え、俺。お礼を言わないと。
でも口に出せなくて、お辞儀だけした。こめかみが痛い。
さっき掃除した床に、ボトボトと水滴が落ちる。げ、泣いてるじゃん、俺。
「ありがとう…ございます」
やっとそれだけ言った。皆に聞こえたかはわからない。
その日は、どうやって働いたのか、よく覚えていない。
アパートに帰って、紙袋の中を見たら、服がいろいろ入っていた。
寄せ書きの色紙も入っていた。
「高校入学おめでとう!」
「全員が集まれる日がなかなかなくて、遅くなっちゃってゴメンね。」
「高校生活、エンジョイするんだぞっ☆」
「いつも頑張ってる姿に勇気もらってます。これからもよろしく。」
「古着と新品が混ざってるけど、仕舞いこまないでどんどん着てね。」
暖かいメッセージが書かれている。それと「入学祝」と熨斗のついた祝儀袋。
望月、田村、藤屋と、連名が綴られていた。大輝さん、たしか苗字は藤屋だったな。
「自転車でも買え」とメモ書き。たぶん大輝さんだろう。
俺はもう一度、泣いた。
翌日は金曜日。四回目の登校になる。
芦岡北高校の生徒は、約半分が芦岡駅の駐輪場に自転車を置いていて、駅から自転車で通学している。駅から歩くと20分はかかるためだ。
自転車、電車、自転車、と乗り継いで通学する生徒も多いという。つまり二台の自転車を通学に使っているわけだ。
俺のように徒歩で通学している生徒はごく少数だ。車で送迎されている駿はもっとレアだが。
「おはよー」
後ろから声がかかる。莉央が颯爽と横を追い抜いていく。
「おはよっ」
少し声を張って、後ろ姿に挨拶を返す。
箕崎中学の出身者は家が近いから、自宅から自転車通学をしている生徒が多い。
結衣もそうだし、イケメンの寺林健斗もそうだ。
俺の家は中学と高校の間にあるから、俺だけ他の三人より高校に近い。
右手の方角から「駅から自転車」の集団がやってくるのが見える。校門に入る前に県道を渡るため、横断歩道の前に自転車の列ができる。
数十台並ぶ自転車。なかなかに異様な光景だ。
自転車に追い抜かれながら校門を入る。彼らは校舎横の巨大駐輪場に自転車を止めてから教室にやってくる。
教室に入ると、駿も莉央も先に着いていた。
「おはよう」
どちらに、というわけでもなく声を掛ける。
「おはよう」
と二度目の莉央。
「おはよ」
と眠そうな駿。
昨日までは、部活のオリエンやら校内見学やら健康診断やらで授業はなく、今日から本格的に高校の授業が始まる。
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