(37) 俺、落ち着いてない?
ツキカガにはいつもよりだいぶ早く入った。
「おはようございます。」
「おう、おはよ。」
「大輝さん、オーナーいますかね。」
「ああ、上にいるぞ。何か相談事か?」
「ええ、まあ。」
さすがにちょっと緊張する。
大輝さんは少し間を空けたが、
「そうかそうか、行ってこい。」
と、細かいことは聞かずに背中を押してくれた。
階段を上がって、オーナー室をノックする。「はーい」とのんびりした望月さんの声。
「アユムです、少しだけお話いいですか?」
「どうぞー」
部屋に入ると、オーナー室の応接セットに目で案内されて腰を掛けた。
「どうした、珍しいな。あらたまって。」
「はい、実はうちの借金の返済の目処が立ちまして。それであの、これまでは望月さんのご温情で働かせてもらっていたわけですが、このまま続けさせていただいてもいいでしょうか。」
一気にしゃべった。望月さん、何も言わない。
顔を上げて見ると、目を見開いて俺を凝視していた。その目がみるみる赤くなった。
「よかったなあ、歩夢。そうか、家庭の事情から解放されたか。」
「はい、ご心配をお掛けしていました。」
「それで、なんだって?」
「はい、このままアルバイトを続けてもいいでしょうか。」
「そんなもん、あたりまえじゃねえか。ちゃんと契約しただろう。」
「そうなんですけど、それは。」
「最初はそりゃあ、同情もしたよ。だけどそれはお前…」
その後は、なんだか言葉になっていなくて聞き取れなかったが、最後に言ってくれた一言だけはしっかり聞こえた。
「これからもよろしく頼む。」
「はい、ありがとうございます。」
後ろでドアが開いて、大輝さんが飛び込んできた。後ろからまたボカッと殴られる。
なんか言うかと思ったが、大輝さんは俺の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて、口を固く結んだまま、うんうん、と何度か頷いた。
もう、大輝さんまで泣かないでくださいよ。だいたい盗み聞きなんて。
そんなことを思いながら、俺の目にも涙が浮かんでいた。
店のフロアに戻ると、もう一つの騒動が待っていた。
「あっ、アユムくーん!」
サユミさんだ。両腕を広げながら突進してくる。
抱きつかれそうな勢いだったから、その両手を押さえて防御する。
「この前はありがとう、アユム君!」
そういえば、この前の元カレ事件の後、シフトのタイミングが合わなかったから顔を合わせるのは初めてだ。ちょ、サユミさん、近い近い、近いですって。
サユミさんの説明によれば、以前から元の交際相手、といっても交際期間は一カ月ほどだったらしいのだが、あの男からしつこく付きまとわれていたらしい。
警察にも相談していて、あの事件でストーカー事案として認定され、傷害未遂で送検された。「禁止命令」が出され、彼の両親にも知られるところになったという。
余談だけど、サユミさんこと佐藤悠美さんがツキカガに入った当時、接客バイトに「ユウミ」さんという人がいて、まぎらわしいから大輝さんが「サユミ」ってつけたんだって。本当に余談だった。
「アユム君がいてくれなかったらどうなっていたか」
きっと怖かったんだろうなあ、そりゃそうか。
「サユミの前に颯爽と立ちはだかったんだって?」
と大輝さん。
「えっ、違いますよ、サユミさんが俺の後ろに隠れちゃったから。」
「でも投げ飛ばしたんだろ?」
「胸倉掴まれたから、ちょっと捻り上げたんですよ。そしたら後ろからサユミさんが引っ張るから勢いがついちゃって。」
「あははは、なるほどな、まあそうなるわな。歩夢、お前、相手の肘を下から押し上げただろう。肘の内側を上から押さえていくやり方もあるんだぞ。ほら、こうやって」
あ、こんなことしてる場合じゃなかった。
大輝さんに取られそうになった腕を引き抜いて、裏口から外に逃げ出した。
ポケットからスマホを出して、莉央にメッセージを送る。
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歩夢:できれば今日のバイトの後、少し会えないかな
歩夢:急ぐ用件じゃないから今日じゃなくてもいい
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さ、それでは今日も頑張って労働しましょうかね。
いつも通り店内清掃から仕事を始めたのだが、俺はどうやら舞い上がっていたらしい。タイムカードの打刻を忘れてしまうほどに。
バイトが終わってスマホを見ると、莉央から返信が入っていた。
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rio:今日で大丈夫、この前のファミレスにいるね
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どことなく不安そうな様子が感じられる。
これは、急がないと。
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歩夢:終わったから今から行く
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返信するとすぐに既読がついたが、莉央からの返事を待たずに俺は自転車に跨った。
ファミレスの駐輪場で制服姿の莉央が待っていた。
「急に呼び出して悪いな。」
努めて明るく声を掛けたつもりだったが、莉央が黙って首を振る。
「運動公園でいいか?」
行き先の提案に、また黙って頷く。束ねた髪が揺れる。
「そんな深刻な話じゃないよ。緊張しなくて大丈夫。」
「そう、なの?」
「ああ。そういえば俺から呼び立てるのは初めてだったな。」
また黙って頷く。そんな疑うような目で見ないでほしい。
運動公園のベンチで話すのは三度目だ。
どんな順番で話すか考えてきたはずなのに、土壇場になって迷ってしまう。
並んで座ってはみたものの、しばし沈黙。
「えっと、どした?」
莉央が小首をかしげて、俺のほうを見た。
「あはは、それ、俺の口真似?」
「うん、そう。少し落ち着けた?」
「俺、落ち着いてない?」
「えー、だって、すごい息切らしてたし、汗もすごいよ?」
それは気がつかなかった。さすがに俺もテンパってるらしい。
「試験期間中も、なんとなくよそよそしかった。」
「わかった、ちょっと落ち着く。」
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。たしかに吐く息が震えた。
そりゃそうだ、だって、俺がこれから言おうとしていることは…
がんばれ、俺。
「試験が終わるまでは動揺させたくなかったから黙ってたんだ。」
「うん。」
「前にさ、うちの借金のこと話しただろ?あれがなくなった。」
「えっ、ほんと?」
「ああ。じゃあ、先に事情を話すと、親父が持ってた技術特許が売れて、その金額が借金を上回ってるんだ。それで、親父はその買ってくれた企業の子会社に就職することになった。」
「そんなにすごい特許があったんだ、お父さん。」
「ああ、俺は知らなかったんだけどな。それで、親父は東京で家を探してる。」
「えっ…」
しまった、順番間違えた。
「あ、俺はここに残るよ。東京に行くのは親父と、お袋と妹。」
「はーーーー、もうっ!」
バシッと腿を叩かれる。けっこう痛い。
「もう、わかった、私は反応しないで最後まで聞く。」
すみませんね、こういうことに慣れていないもんで。
俺はもう一度、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
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