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おばあちゃんは魔法使い

作者: るり川


 鏡に相対して、映る自分をねめつけた。

 刃の切っ先のように鋭い少女のまなじりが、ますます凶悪さを帯びた。うなったり、頬を引っ張ってみたり、舌は出さずにあっかんべをしてみたり。そんなことをしきりに繰り返してやっと、少女は肩を落として鏡の前から去った。



「あらあら、落ち込んじゃって。どうしたんだい」

 少女の足は縁側に向かった。縁側には少女の祖母がいた。足元の、はちわれ猫が祖母に同調するように、にゃうと鳴く。少女は祖母の隣に腰を落ち着けた。

「なんでもないよう」

 少女は唇を尖らせ、眉根を寄せた。少女にとっては悲しみから来る表情ではあったが、他人の目を介すると怒っているように見えてしまうのだろう。



 庭の桜はとうに散って、春の匂いを追い出すように日向と日陰のコントラストが濃くなっていた。

 ──嗚呼。夏がやってきてしまう。少女は嘆いた。夏を嫌ったのではなかった。時間の経過を憂いた。

 祖母は少女の返答に穏やかに笑う。少女の『なんでもない』がいつも何かであることを、この祖母はよく知っていた。少女が喋り出すまで、じっと待つのだ。



 少女は縁側にぱったり倒れ込んだ。肩までのびた髪が波のように縁側に広がる。日焼けを拒んだ白い脚をぶらぶら揺らした。

 にゃーう。はちわれが縁側に飛び乗って少女の腕と胴の隙間に入り込んだ。暑いけれど、落ち込んだ少女にとっては好い手触りだった。

「お前はかわいいねぇ」

 返事でもするみたいに、はちわれはまた気前よく鳴いて見せた。きっと自分の名前を『かわいい』だと思っているに違いない。少女は思った。擦り寄るその姿は愛くるしい。



 ふっと世界が仄暗くなった。流れる雲が陽の光を遮ったらしい。

 ──太陽は少女を見ていない。

「……行きたくないなぁ」

 漠然と呟いた。

「……学校かい?」

 ずっと猫と孫を眺めているだけだった祖母が首を傾げた。少女がゆっくり頷くと、はちわれは少女の肩にのっそり体重をかけ、その唇に鼻を近づけた。一頻り嗅ぐと、満足したのかまた腕と胴の隙間に戻る。



「やだ、やだやだやだ。行きたくないよう」

 むしゃくしゃして、はちわれのお腹をもみくちゃにしてやると、嫌がって唸った。ぺしっと抗議の猫パンチが飛んでくる。少女は慌てて手を離した。手加減をしてくれたのか血は出なかったけれど、ちょっと痛い。

「だめじゃないか、そんなことしちゃ」

「……ごめんなさい」

 はちわれに謝ると、逃げるでもなく拗ねるだけでそっぽを向いた。祖母がゆっくり手を伸ばして、はちわれの乱れた毛並みを直してやる。



 少女は祖母を見上げた。祖母は視線に気づくと、にこりと笑んで孫の頭を撫でた。

「学校、行きたくない」今度はしっかり言った。

「じゃあ、明日はお休みしようか」

「……。先生に怒られる」

 母は祖母に似ている。学校に行かなかったとて、母もきっと怒ったりしないだろう。父は困ったような顔をするだろうけれど、やっぱり怒ったりはしないのだろう。──先生が怒るとかも、本当はどうでもいい。

 明日は月曜日。学校に行かなくてはならない。少女はそれが憂鬱でたまらない。



「……おばあちゃん、もう二週間なのに、私まだクラスでひとりだよう」

 少女は春から、中学生になった。めでたいことだ。少女にとっては何らめでたくなかったわけだけれど。

「小学校のお友達は、どうしたんだい」

「みんな違うクラスなの」

「新しいお友達は?」

「……できてない」

 少女は自身の眦をなぞった。

「こんな目つきだから、誰も話しかけてこないよう」



 少女の目つきの悪さが天性のものであることを知らない他人には、いつも周りを睨みつけている少女に見えることだろう。少女はそれをよく知っていて、故に怯えていた。うまく聴き取れないひっそり声が、すべからく自分に向いているような気さえしていた。

「おばあちゃんは、好きなんだけどねぇ」

「ありがとう。……でも、そうじゃないの」

「そうだねぇ」



 にゃあ、うう。不満でも述べるみたいに、はちわれが鳴いた。それきり、少女も祖母も静かになる。風が二人の間を通り抜けて、それから庭の木を揺らした。ふっと枝から離れた木の葉が舞って、はちわれを撫でる少女の手元にやってきた。

 祖母はぽつり、思い付きを口にするように、庭の木を見上げた。

「教室に同じ子はいないのかい」

 ──同じ子。少女は無言裡につぶやいた。じっとはちわれの黒毛を見つめる。

「私と同じ、ひとりの子?」

 祖母は頷いた。少女は屋根裏を仰いだ。



 ──白昼。騒ぐ声。集まる机。

 教室に一気に色が増えて、ちかちか目に痛い。

 なびくカーテン。

 風の流れる窓。

 その、隅。

 窓の外を眺める、後ろ姿。

「……いる」

 一番後ろの、一番窓際の女の子。お弁当を食べる時、いつもひとりだ。



 祖母は微笑んだ。

「その子もおんなじ、寂しい思いをしてるかもしれないねぇ」

 お友達になっておいで、ということだろうか。祖母の言わんとするとこを少女は理解した、が。

「無理。話しかけられないよう。ひとりでいるのが好きかもしれないのに」

「大勢といるのが好きかもしれないよう」

 窓際の彼女のことを何も知らない二人は、いつまでも平行線だ。

 また風が流れて、静寂を落とした。少女の胸に勇気はひとかけらだって湧いてはこなかった。








「ナマケモノだ」

 庭に軽い足音が入ってきて、少女の前で止まった。少女はその客人が誰なのか、声ですぐに見当がついた。起き上がらないまましかめっ面で言葉を返す。

「なんてこと言うの?私はナマケモノじゃないの。ナマケモノに謝りなさい」

「そっちに謝るんでいいんだ」

 客人は縁側にのぼって少女の視界に入ってきた。

 客人は九歳の少年だった。彼は少女の家の近くに住む子供で、よく遊びに来ている。



「こんにちは」

「こんにちは、おばあちゃん」

 寝転ぶ少女の頭上でやりとりが交わされる。寄り添っていたはちわれは、少年の姿を認めるとすぐにそちらへ行ってしまう。薄情な猫め、お前はうちのこでしょう。少女は思った。

「おねえちゃんは何でナマケモノなの」

「ナマケモノじゃないったら」

 少女はむっとして、少年の鼻をつまんだ。すぐに抗議の声が上がったので放してやる。



「おねえちゃんは学校に行きたくないんだって」

 祖母は少女の気などお構いなしに答えた。少女の顔が赤くなる。

「おばあちゃん、何で言っちゃうの」

 恥ずかしい。少女は思った。弟分に情けないところを知られたくなかったのだ。

 少年は、はちわれのために胡坐あぐらをかきながら、重ねて訊いた。



「何で行きたくないの?」

「寂しくなるんだって」

「……」

 少女は口をつぐんで目を閉じ、少年を視界から消した。羞恥に身体を小さく折りたたむ。

 はて、笑われるかと思いきや、少年は存外真面目そうな調子で「ふうん」ともらした。

 胡坐に収まったはちわれを撫でながら、

「じゃあ、おれ、中学生になる」

 と突拍子もないことを言った。



 少女は数度まばたきをして、また少年を見た。少年ははちわれを撫でるばかりで、視線を合わせない。

「おれが同じとこにいたら、おねえちゃん寂しくない?」

 少女ははっと目を見開いた。

 少年と少女の間は、ちょうど三つ空いている。

 うつむく少年の髪の隙間からこっそり耳が見えて、少女は手を伸ばした。



「……ありがとね」

 その小さな頭をぽんぽん、と撫でた。もう自分たちが同じところへ通うことは無いんだって、分かってるんだろうな。少女は思った。

 少女は顔をほころばせた。それは何も知らない他人の目を介しても、笑顔だと言えた。

 少年の精一杯に、少女は胸の内であたたかいものが灯るのを確かに感じた。こんなことを言ってくれたのだから、明日は頑張れるかもしれないな。



 ふと、祖母の指が少女の髪をさらった。

「……おばあちゃん?」

 寝返りをうつように、少女は祖母の方を向いた。祖母は悪戯っぽく、人差し指を立てた。

「明日、きちんと起きてごはんを食べてお着替えしたら、おばあちゃんのところへおいで」

 そして続けて言った。

「おばあちゃんが魔法をかけてあげる」



     ***



 金色の太陽が空に昇り、目覚まし時計がけたたましく鳴った。少女は目を覚まして直後、やはり行く気になれないでいた。耳の内でいないはずのひっそり声が聞こえるのだ。ベッドのぬくもりも、ここにいなよと引き留めてくる。

 甘く優しい誘惑に揺れそうになったが、それにどうにか打ち勝ってベッドから這い出ることに成功した。昨日の祖母の言葉が気にかかっていたおかげだ。



 父と母におはようと言って、少女は用意されたごはんをすっかり食べた。それから制服に着替えて、祖母の言いつけを全て守ったところで祖母の部屋に向かった。

「おいで」

 少女を迎えた祖母は、鏡台前の椅子を軽くたたいて見せた。少女は椅子に座って、鋭い目つきと今日も鏡合わせだ。



 魔法をかけると言った祖母は少女の背後を陣取ると、彼女の髪をさわり始めた。心地の好い沈黙がしばらく続いた。少女の髪は櫛で梳かれ、編まれ、みるみるうちにその流れをかえていく。少女は祖母を、鏡越しにぼんやりと眺めた。

 最後の髪結い紐を、祖母が指から放した。

「はい、できた」



 祖母を振り向くと、微笑んでくれた。と、そのとき、ちょうど縁側から足音が聞こえた。

「おはようっ」

 朝から元気な弟分の声が、鏡台の少女へ届いた。縁側をのぼって、少女へかけよる。

「どうだい、今日のおねえちゃんは」

 祖母が問うた。少年は猫によく似た硝子がらすだまの瞳で、穴が空いてしまいそうなほど少女を見つめた。



 たっぷり数秒後、少年は興奮した様子で目を輝かせて、

「かっこいい!」

 思いの丈を示すように、万歳してみせた。

 沈黙が流れる。

「……かわいいとかじゃなくて?」

 少女が首をかしげると、少年も同じことをした。

「かわいいとかよく分かんない」



 どうやら『かっこいい』が少年の中で最上級の褒め言葉らしいことを、少女は悟った。祖母も嬉しそうに「ほほほ」と笑っている。

 少女は盗み見るように鏡の中の自分へ目を向けた。祖母のしてくれた編み込みと、可憐な髪留め。かわったのは髪だけで、目つきはいつも通り。けれど少女の中では違った。

 これは祖母が与えてくれた勇気の魔法だ。



 心臓の鼓動が少女に問う。窓際の女の子に、話しかけること。

 ──できる?できない?

 少女はうつむいて、顔を覆った。できっこない、とやらなくちゃ、がいつまでも対岸にいるだけで動かない。



 くらくらしてきた頃、ふっと優しく身体が引き寄せられた。祖母がその腕で柔く少女を包んで、囁く。

「わたしのかわいい孫娘」

 頬を寄せて、抱きしめた。



「お前は世界で一番素敵だよ。おばあちゃんの魔法が、きっとお前を助けるからね」



 そろり、少女は顔を覆う手を離した。明けた視界に、少年の顔が映る。無邪気に、にーっと白い歯を見せた。

 にゃあ、と近くではちわれの声がした。ご機嫌なときの鳴き声だった。



     ***



 少女は走った。ぜいぜい息を切らして、足もつまずきそうになる。胸も詰まりそうで、けれど兎角とかく走った。

「おばあちゃんっ」

 家へ挨拶もしないまま、少女は祖母の元へ急いだ。廊下を真っすぐ通り抜けて、いつもの縁側に祖母はいた。

「おやおや、走って帰ってきたのかい?」

 少女は頷いて、縁側に膝をついた。



「あのね、おばあちゃん」

 息をなんとか整えて、最後に大きく息を吸い、少女は真正面から祖母を見据える。

 それから、太陽にも負けないほどのとびきりの笑顔を見せた。



「おばあちゃんは魔法使いだったよ!」



 祖母はきょとん、と目を丸くさせて。

 小さな女の子みたいに笑った。


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