1-8 バルタザール
11月も終わりになってようやく、バルタザールと話をする時間ができた。
バルタザールのお休みの日なので、わたくしの部屋ではなく、バルタザールの私室にヨアンとふたりで招かれている。
家令ともなると、部屋は、居間、寝室、バスルーム、そして書庫も兼ねた執務スペースが与えられていた。なかなかに広い。
居間に通されると、来客用のソファの前にはお茶とお茶菓子がすでに用意され、暖炉には火が入れられている。
「お嬢様、お茶をもう一杯いかがですかな?」
素敵なバリトンで話しかけられると、何杯でもお茶を飲めそう。
「ええ、ではもう一杯お願い」
お茶をサーブする姿がそれはもう優雅。わりとがっしりした体格なのに、どこでそんな洗練された動きを身に着けたのかと、見とれてしまう。薄い色の金の髪には幾分シルバーグレイが混じっているが、そのグレイの瞳と合わせて、知的な感じ増してさらに素敵。
それにしても、家令になってからサーブする機会が減ったと聞く。この姿が見られないのはもったいないわね。
すっかり見惚れていたわたくしに、従者が肘でつついてきた。
いけない。本題を忘れてしまうところだったわ。
バルタザールがサーブし終えてソファに掛けたところで本題を切り出した。
「バルタザール、お休みの日に時間をもらって申し訳ないわね。今日はお願いがあって来たの」
姿勢を正して話し始めると、バルタザールも姿勢を正して耳を傾けてくれる。子どもの話でもいい加減な対応をしない、そんなところも素敵よ。
「ではお嬢様たちの話をお聞きしましょうか」
ちらっとヨアンを見ると、ヨアンが話を始めてくれた。どう始めていいかわからなかったから助かる。
でもヨアンは、サヨコさんが心の中にいるという話以外は、正直に今までのことを話し出した。ヒロインを好きになったことも含め全て。
え?それでいいの?というか、そんなことまで話すの?
ヒロインの話にびっくりしているうちに、話はみんなで考えた対策にまで進む。
向かいのバルタザールはというと、『前世』だの『乙女ゲーム』だのという言葉にも全く動ぜず、ヨアンの恋の話にも言葉を挟むことなく、静かに話を聞いている。
これが、大人の対応というものかしら。すごいわ……。
最後まで聞き終えると、バルタザールはひとつうなずいた。
「その『資料』というものを読んでも?」
「ええ、お願いします。そのために持ってきました」
ヨアンが例の資料を用語集と共に手渡すと、受け取ったバルタザールはこの場で読み始めた。
しばらくページをめくる音と暖炉の火がはぜる音だけが室内に響く。
わたくしは、そっと隣にいるヨアンを肘でつついた。
「なんです?」
バルタザールの邪魔をしないようにすっごい小声で返答が返ってきた。だからわたくしもすっごい小声で言う。
「バルタザールには王女様のこと言っていいの?」
「はい。信用されるためにも必要です」
サヨコさんとも相談して、バルタザールには全部打ち明けることにしたそうだ。さすがにサヨコさんのことは信じてもらえない可能性が高いので言わないけど、それ以外は全部。バルタザールに信じてもらうには隠し事はないほうがいいらしい。
けれどヒロインを好きになったことまで言わなくても、というわたくしに、小さく笑って、「いいんですよ。全部知ってもらわないと、正しい判断をしてもらえませんから」なんて大人びたことを言う。
前はあんなに恥ずかしそうだったのに、とヨアンを見ると、頬が赤らんでいた。あ、やっぱり恥ずかしかったんだ。ごめんなさい。この件はもう言わないわ。
例えこの話を信じてもらえなくても、家令がわたくしや公爵家が不利になることを外に漏らすことがないとの判断の上だという。ふたりがそういうならわたくしに否やはない。
小声で話し合っているうちに、バルタザールが資料を読み終えた。
早い!そんなに早く読めるのものなの?
後日ヨアンが家令は速読ができるのだと教えてくれたけど、それでも落ち込むわ。だってわたくしはひと月かかったもの。
資料を閉じるとバルタザールが質問してきた。
「この資料の作成はヨアンがしたのか?」
「は、はい。ぼくが作成しました」
こころもち声が硬い。ここから、バルタザールの質問が始まると思うとわたくしも緊張するわ。わたくしたちの返答次第で味方になってくれるかの分かれ目なのだ。
けれど意外なことを言われた。
「いい資料だな。このゲーム用語なるものはいただけないが、まあ、用語集で補完できていると考えれば、問題ないだろう。構成も悪くない」
そこで言葉を切ると、ヨアンを見据える。目が射貫くように鋭くて、資料をほめられているというのに、わたくしはひとりハラハラする。
「本当にお前ひとりで作ったのか?」
「は、はい。ぼく、ひとりで、作りました」
あの目にひるむことなく答えるヨアン。しばらく無言の時が流れたが、バルタザールがふっと目元を和らげた。
「そうか。本当によくできている。少しお嬢様には難しい表現もあるが、客観性を持ってまとめられているな。わかりやすい、良い文書だ」
使用人に対して厳しいバルタザールが珍しく手放しでほめた。
その言葉にヨアンが真っ赤になっている。目じりに涙も見えるわ。家庭教師の先生にほめられてもあんな顔しないのに、バルタザールにほめられるとヨアンもこんな風になっちゃうのね。
「それで、このことを知っているのはお嬢様とヨアンだけですかな?」
今度はわたくしに話が振られる。家庭教師の先生の質問より緊張する。
「ええ、ヨアンとわたくし、それに今はバルタザールの3人だけよ」
「ヨアンの話では、この資料の内容をお嬢様も信じておられるとか?」
「もちろん、信じているわ。だから、バルタザールの力を貸してほしいの」
きっと、普通の大人だったらこの辺で大笑いされているだろう。こんな子どもふたりのおかしな話を、バカにもせず聞いてくれる大人は少ないに違いない。
「お嬢様は、本気で自分が悪役令嬢になるとお思いですかな?」
ヨアンに向けられたのと同じ射貫くような瞳が今度はわたくしに向けられる。
本気で悪役令嬢になる?――いいえ。思ってないからバルタザールが必要なの。
「本気で思ってない。なるつもりもないの。でも、なる可能性があるなら、ならにようにしたい。そのために努力もする。それでも、どうしようもない時にはバルタザールに止めてもらいたいの」
じゃないと、弟も巻き添えにしてしまう。
「お嬢様がこの悪役令嬢のようにヒロインを害そうとするときは止めろということですな」
「そうよ。それをお願いしたいの。あ!もちろん、ならないように努力することは約束するわ。でも、万一ってあるし……」
「最悪の事態を想定することは悪いことではありませんよ、お嬢様」
そんな風に言ってくれるバルタザールに感謝よ。
「さて、お嬢様の意思は確認しました。ではヨアン、この資料だけでは信用に足らないと思うのだが、その点をどう考えている?」
その質問は予想していたらしく、ヨアンは落ち着いて資料のヒロインのページを開けた。
「彼女の名前です。そして出来るなら、家令に調べていただきたいと思っています」
ヨアンは席を立ってバルタザールに耳打ちする。
「わかった。その調査は引き受けよう。それまでこの資料は預からせてもらう」
バルタザールが再びわたくしに体を向けた。
「お嬢様、この続きは調査を終えてから改めてお話ししましょう。この話を信じる信じないに関係なく、万一お嬢様が公爵令嬢としてふさわしくない行動に出たときには、不肖バルタザールが全力でお止いたしますので、ご安心なされませ」
なんて心強い言葉かしら。バルタザールに話してよかった。
「おや、お茶が冷めてしまいましたね。別のお茶をお入れしましょう。ミルクティーにすると美味しいものがあるのですよ」
やっぱり、バルタザールって素敵。ミルクティーを入れてくれた後は、お父様の若いころの話なんかも聞かせてくれて、すっかり楽しんだ。
これって前進よね。
バルタザールのお部屋でお茶も満喫できて、今日のわたくしは大満足よ。