そんな12話 「婚約」
──冷たいっ!
急激な冷気に意識が引き戻された。
何が起きたのか確認すると、冷水をかけられた事に気付く。
──寒い。
なぜか衣服は下着も含めて身に着けておらず、裸になっている。
ぼくの身体を支えているのは、水を吸った木の床。
自分が倒れている事に気付く。
手足はしびれているけど、捕縛されているわけじゃない。
──えっ、何これ?
混乱する頭。
暗く、埃っぽい部屋に漂うヒンヤリとした空気。
ぼんやりとした明かりの差し込む方向に目を向けてみれば、人影が三人分。
真ん中の人影が肩を震わせ、心底楽しそうに笑った。
「アハハハハ! いい気味ですわ!」
その言葉に合わせ、周囲の二人もホホホとつられて笑う。
「だ…誰…?」
何とか声を絞り上げるが、笑っている相手はよく判別できない。
「誰…ですって…!?」
周囲の二人が「まあ」とか「失礼な」とか言っている。
そう言われても、声にすら覚えがない。
少なくとも、声色から判断すれば三人とも女性みたいだ。
「わたくしの事など眼中にないと言う事ですか。
マキアート家の小娘は増長しすぎですわね」
静かな怒りを押し殺したように言う人影。
相手は、ぼくを知っているみたい。
少しずつ状況を飲み込めてきた頭が、答えを導き出す。
どうやら、ぼくは何者かに捕まってしまったらしい。
服は脱がされてしまったのか、裸にされているが、手足は自由だ。
猿ぐつわもされていない。
こんなに自由なら、魔力弾も範囲魔法も使い放題じゃないか。
ちょっとぼくを甘く見過ぎなんじゃないかな。
「悪いけど…ぼく…、私は、戦争を止めないといけないんだ…」
相手は、ぼくを知っている。
マキアート家の娘としてのぼくを、だ。
でも、この様子だと「魔王」としての、ぼくを知らないんじゃないかな。
勝手に増えたものだけど、ぼくが唯一、人に誇れる武器…魔力が自由にされている。
その事を理解し、心に余裕が生まれた。
震える足で立ち上がり、手のひらを人影に向ける。
身長は、ぼくと同じぐらいか。
立派なドレスを着ているみたいだけど、顔には当てないから許してね。
少しだけの手の角度を下げる。
魔力弾を当てるなら、肩に当てて体勢をくずすだけでいいだろう。
よし、ちょっと強引にいくぞぉ。
「君たちが何を考えているかはわからないけど…。
邪魔をするなら容赦しない」
できるだけ威圧するように言った。
だが、そんなぼくを、あざわらうかのように、くすくすと笑う人影。
うーん、これは話を聞いてくれるタイプじゃなさそうだ。
「…ごめん」
魔力弾を放つ。
あの子達を吹き飛ばしたら、服を探そう。
なければ、あの子達のドレスを奪ってもいい。
ここがどこかも調べて、バートフを探さないと──。
そこまで考えたところで、異変に気付く。
「あ、あれ?」
魔力弾が、出ない。
「どうかなさって? フフフ…」
人影の中心人物がニヤニヤと笑いかける。
「……っ」
何度試しても魔力弾が出ない。
ならばと詠唱を始める。
「…氷結の女神よ、その吐息を凍らせ、牙を立てよ!
基礎氷魔法!」
「アハハハハ!!」
もう我慢できないとばかりに大笑いする三人。
詠唱しても魔法が出ない。
何かされている。
この空間のせい?
「フフフ…"左手の薬指"をご覧なさい」
慌てて左手の薬指を見ると、ドクロをかたどったゴシックな指輪がはめられていた。
──何これ。
観察していると、ドクロと目が合った気がした。
初めて見た不気味な指輪。
だけど、なぜか知識にはある。
これは、呪いのアイテムだ…。
「マキアート家ご令嬢、リプリシスさん。
"死神とのご婚約"おめでとうございます!
アッハハハハハ!」
狭い空間に三人の笑い声が響く。
死神との婚約?
どういうこと?
魔法が使えないのは、この指輪が原因なの?
それなら…。
「痛っ!!」
指輪を外そうとすると、指から左胸にかけて電撃が走った。
「おやめなさいな。
その指輪は装着者の心臓を掌握すると云われていますわ。
命が惜しければ、外そうとはしない事ですわね」
そ、そんな…。
「さあ、いやしい雌豚さん。
おしおきの時間よ…」
中心人物が口角を釣り上げて笑ったように見えた。
「まずはその醜い黒髪を、バッサリと切って差し上げましょう」
えっ? なんで?
男装しやすいようショートに整えてあるのに、まだ短く切ろうというのか。
何の為に。
「ぐっ!」
ぼくが混乱している間に、中心人物の両隣にいた二人がぼくを押さえつけ、うつ伏せに倒された。
一人はぼくの腰に乗り、両足を掴み、えびぞりにする。
もう一人が両腕に足を乗せて押さえつけ、頭を強引に掴んで髪を強く引っ張った。
「痛いっ!」
ぶちぶちと髪の抜ける音が、やけにクリアに聞こえ、首筋に冷たいナイフの刃の感触が当たる。
二人がかりで身体を押さえつけられれば、抵抗は無意味だった。
「や、やめ…ひぐぅ!」
「おだまりなさい!」
後頭部をナイフの柄で殴られ、じんとした痛みが広がる。
「暴れるとケガをしますわよ」
「う、ううっ!」
嫌だ、切らないで。触らないで──!
酷く乱暴に髪を掴まれ、ナイフが髪を切り裂く。
その行為が、何度も、何度も、繰り返された。
乱雑に切られたぼくの髪は、恐らくボウズに近い短さになっていただろう。
「汚い髪ね! 手を洗わなくちゃ」
──ノワール…。
ぼくの髪だったものが、そこら中に散らばっている。
その黒さは、亡くなった愛猫を思い出させる大切な思い出。
ノワールがぼくの傍を離れてしまった気がした…。
頭が寒い。
触ってみれば、手の感触を頭部に感じ、手のひらがちくちくする。
理不尽な暴力を受けたのに、怒りは感じなかった。
その代わり、短くなったなぁ、と冷静な感想が湧き出る。
だが、いつしかぼくの顔は、涙があふれ、酷い状態になっていた。
…こんなの、夢だ。
再び冷水をかけられた。
急速に体温が奪われ、現実逃避しようとした意識が引き戻される。
さっきは気付かなかったが、この水は何だか臭う。
臭いな、何の水だろう。
「いいこと?
逆らえば、今度は髪では済まなくてよ」
「そうですわ、お嬢様。
いやしい雌豚に相応しく、キズモノにしてしまうのはいかがでしょう」
「まあ、名案ですわね!」
三人のニヤついた笑みはおさまらない。
「これでハルシオン家に逆らう事はなくなるでしょう」
ハルシオン…。
クライヴが、こんな事を…。
「雌豚さん。
この倉庫はあなたのお部屋にするといいわ。
よかったわねぇ」
皮肉をたっぷりと込められた言葉が、ぼくの胸を突き刺す。
逃げようとすれば…わかってるわよね。
そう言い残し、三人の姿は光の中へ消えて行った。
やがて光も消え、真っ暗で濡れた床、冷え込む部屋だけが残る。
絶望を感じた。
これは今まで自由にしてきた、罰なのかもしれない…。
でも、こんなやり方じゃなくったって…。
…助けて…。
バートフ…、クランキー…。
誰か…。
静かに意識は途切れ、眠りについた。
──地獄が、始まった。