“光の庭”のうたた寝 =092=
❝ =第一章第5節_25 ; 陰山山脈の南域にて・・・・ ❞
「『欽宇阮殿が率いる20名の勇者が隊商の護衛に就いていようとは、西蔵の山猿どもには思いもよらぬ凶事であったろう』と西夏の英主李乾順王は言われたとセデキさまが私に耳打ちされた上、『酒泉城塞の事ではなく、城塞近郊のソグドの村邑が吐蕃兵団の襲来で破壊されれば国政に齟齬を来たす。 また、ソヅドの民は古来より心魂は勇者、女・子供までも吐蕃の刃に立ち向かうであろう。 されば、自滅か四散か 我が交易の手足がもぎ取られる事に成る』とも言われ、急ぎ献策しろとセデキ宰相に命じられたじゃ」と 西夏宮廷の様子を何蕎が説明する。
重ねて、何蕎は「宰相殿は、常ならば、西夏の兵団を西に向ければよいのだが、金の呉乞買 (太宗)が宋を南に追い込んでいる今、金は興慶に正式な外交使者を送り込んでおる。 五原の天祚皇帝が動向を探りつつ、西夏の動向を探っている。 この帝都内には金や宋の密偵うようよいる模様、少数の騎兵でも蘭州や武威方面に動かせば、燕雲十六州を統括する耶律余睹が兵をこちらにむけるであろう」と・・・・
「酒泉のソグド邑を吐藩兵の略奪から如何にして守るか。 幸いにも、耶律大石耶統帥の将、耶律康阮と康這兄弟、吾が配下の呉用と燕靑が何蕎殿の差配でセデキ丞相の書院で屯していた折に、この話を聞かされ 良策を練ることになったのじゃ」と両手を揉みながら宋江が続ける。 「結論は、欽宇阮殿に蘭州から武威に抜け、酒泉に向かわれるように宮中から 急使を出す。 また、直ちに100名の諸将を編成して援軍に向かわせる。 100名の騎兵は、黄河沿いの間道を中衛、郭家台、北台子、梁家庄と走り 4日間で武威に到達する早駆。 武威にて欽宇阮殿と援軍は合流し、7日目が張掖、9日で酒泉に到達の計画。 欽宇阮殿が指揮を取る策であるが、欽宇阮殿へ伝令と同時に酒泉城への伝令も同時に一昨日に出立しているのじゃ」
「無論、興慶城下を隠密に出発する必要はある。 金や宋だけではなく西蔵の吐藩も城内に間者を放っておるのは当然であろう。 耶律大石統帥の耶律康阮は手の者40名の諸将を楡林に散在せしめて、その弟の耶律康這は昊忠に同数の諸将を万里の長城南域の偵察活動に就けていた。 そこで、セデキ殿の計らいで西夏の蜜偵部隊をわが輩の呉用、燕靑に託して康這の偵察活動を支援する。 康阮と康這の兵団からの精鋭騎馬武者70名と西夏の騎馬軍団30名が康阮の指揮の下、一丸となって酒泉に向かう。 ただし、30名の西夏兵は密かに黄河を南下して中衛にでる、 その間に 康這が活動拠点としている昊忠の西夏の砦に康阮が率いる武者70騎が集結の後、中衛に百騎が集結する。 集結の予定日に吾等二人は帝都を出立したのじゃ」
「なれば、宋江さま、欽宇阮将軍が武威にて軍団を指揮して酒泉に進行されるのは五日後、武威から張掖、酒泉の街道は交易の幹道路、百騎の武者が一気に西に向かえば吐蕃兵団が気づくでしょう、欽宇阮将軍の智謀は疑いませんが未知なる地域での時間との戦い、齟齬を来たす やも・・・・・」
「判りましたかな、イムルグさん。 禄衝さん、筆と紙が必要です」と言いつつ、再び宋江が言い添える、「イムルグさん、まだ 日が落ちるまで一刻ありそうですが 文面の準備をしてください。 それにソグドの字書ける人が五名ほど要りますよ、若くてぴちぴちの電鳩も五羽・・・・・それに、お神酒 どうも黄土の乾燥地帯はのどが渇く、隻也 蒙古高原はどうかのぉー」