“光の庭”のうたた寝 =086=
❝ =第一章第5節_19 ; 陰山山脈の南域にて・・・・ ❞
黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた鄂爾多斯地方は大部分が海抜1500メートル前後の高原でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。 古来より 蒙古高原の覇者・匈奴が南方の農耕定着民の富を略奪する狩場であった。 南方の民族が打ち立てた趙、秦、漢のどの王朝と争奪戦を繰り返して来た地域である。 北方の遊牧民が南下に伴う侵略を防ぐ為に秦の時代から万里の長城が築かれてきた。
黄河北側は河套平原と呼ばれ大小の湖が散在する。 河套平原とオルドス高原を区切り、北から南に流れる黄河の川床は広い。 堤らしき土手の隆起も無く、黄色く濁るその流れは自由気ままに蛇行し 毎年 流れる場所を変えているようである。 冬季には緩やかな流れから氷結し、何時しか騎馬や荷車が行き来可能な氷の原野と化す。 しかし、万里の長城以南の黄土高原を深くえぐる黄河の流速は激しく、渡渉できる箇所は限られている。 鄂爾多斯の西側、北側、東側の外縁を流れる黄河を俯瞰すれば、蘭州辺りから北に流れる黄河流域で、昊忠近郊には数か所、興慶(現在の銀川)の南郊、興慶と鳥海間には二ヵ所の渡渉地点がある。
そして バヤンノールから黄河は東に流れ、渡渉地点はいたるところで見出だせる。 また、包頭東方から黄河は南下するのだが、川床が広く、長城に達する辺りまで自由気ままに流れを変えている。 どの流れが本流なのか判別できない様で燕雲十六州西端地区の朔州境辺りで、大河の様子を再築して再び黄土高原の中をほぼ真南に向かい、陝西省で渭水と合流する。 今度はまっすぐ東へと向かう。 そして、華北平原をまっすぐ東へと向かい、渤海に黄濁したチベット高原の水を注ぐ。 本稿に関与する黄河は、オルドス・ループ北東部の黄河は河川ではなく自由に往来できる河原であり、冬季は氷原なのである。 また、黄土高原を流れる黄河は、深い谷をなしながら流れ、蘭州などいくつかの街を除いては切り立った崖に周囲を囲まれ、灌漑などに水を利用することは困難で、無論 渡渉できる箇所は無いに等しく天与の障害物である。
耶律康阮と康這の兄弟、呉用、燕靑たちが未だ太陽が昇り来ない早朝、興慶の城門を騎馬にて出て行った。 城門は閉ざされていたが、丞相のセデキ・ウルフが前夜に指示を与えていたのであろうか警備兵は目礼で見送った。 呉用の懐には楡林に潜伏する西夏の間諜を束ねる康劉への文があった。 彼等は日が昇る前に黄河対岸に渡り、南下して昊忠へと急いだ。 一刻も早く、昊忠に散在する康這の将兵に指示を与え、康阮と呉用は休むことなく 替え馬を曳いて 楡林に行かねばならなかった。
康這は西夏の昊忠砦が使えることに成り、この砦を基地として 燕靑と共にオルドス南域の偵察活動を再構築し、より緻密にして組織的な活動を実施しなければ成らなかった。 また、四五日後には 80名の将兵がこの砦に集結する。 楡林から引き返す兄の康阮は、武具を着込んだ完全武装の騎馬兵 70名の将兵を率いて 休むことなく 黄河の北岸を中衛に向かわねば成らない。 黄河が深い渓谷を刻む左岸の間道を走り、武威に早急に至り、その地で欽宇阮と合流せねば成らない。 できなければ酒泉にまで強行せねばならなくなる。
強行軍で疾走する80名の騎馬軍団の為に、武威との中間点に兵糧を準備せねば成らなかった。 兵馬の馬草も相当な量に成る。 康這はこの地に散在する40名の将兵一人一人に指示を与え、また 呼び集め、燕靑と共に偵察を続ける兵を選び、新しく加担する西夏の間者の集結を待った。