表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/101

“光の庭”のうたた寝 =078=

❝ =第一章第5節_11= ; 陰山山脈の南域にて・・・・ ❞

 さて、大酒のみの宋江一行がこの酒泉を訪れるのは相応しい・・・・・歴史は繰り返すのか?!!・・・・ 上記の話は武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書【史記】の華です。  ただ、追記すれば・・・・紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌年に宮刑に処せられる。 司馬遷は、獄中にて古代の偉人の生きかたを省みて、自分は虚を排した歴史書を作り上げようと決意したと言う。 この史記の最終章の華である李陵に纏わる史実をも書き記しておこう。


 匈奴討伐の戦功著しい将軍であり、李陵=中島敦 『李陵』=の将官である李広利将軍がふたたび勅命を受けた。 紀元前99年のことである。 李陵にも五千の兵が与えられ、李広利将軍の支援に出陣した。 李広利将軍はオルドス北方の五原から陰山山脈方面に匈奴を追い詰めていた。 だが、李陵は李広利と合流前に匈奴3万の軍勢と戦い、兵力の差と支援が無かったために降伏してしまう。 李陵と交遊がり、真実を追求しようとする司馬遷は彼を弁護した。 しかし、李陵一族は処刑され、武帝の逆鱗に触れた司馬遷は宮刑に処された。


 李広利将軍は妹が武帝の寵妃李夫人であり、兄に武帝の寵臣がいた。 若い頃の李広利は、元来無頼として定職に就かない勝手気ままな人物であったが、武帝は李広利を「弐師将軍」に封じ、兵数万を率いて汗血馬を手に入れるため弐師城攻略に向かわせた。 しかし、その道のりは遥かに遠く、諸城を攻略できずに食糧にもことを欠き、兵卒の多くが死んだり逃亡したりした。 これに武帝は激怒し、「玉門間より中に入るようなら斬る」と命令を下し、閉門した。


 しかし、 2年後(紀元前102年) 武帝は再び李広利将軍に精兵6万、さらに牛10万頭、馬3万頭、ロバ・ラクダ1万頭余に軍の糧秣を運ばせ、これに加えて18万の部隊が後方より回りこむ遠征軍を送り、大宛外城を攻めさせた。 李広利の大軍は、40日余り大宛城を包囲攻撃して、無数の大宛兵を殺した。 これに対して恐れをなした大宛は、漢軍が撤兵することを条件に、国王を先頭に投降し、あわせて3千数頭の「汗血馬」を漢に捧げた。 これにより漢軍は玉門関にまで引き返したが、過酷な道のりのために、1万余の兵と馬千頭になっていたと言う。


 上記の李陵投降事件は李広利将軍が汗血馬を献上する凱旋を遂げた3年後の事である。 そして、8年後の紀元前90年、 李広利将軍はふたたび勅命を受け、匈奴討伐のために五原に出兵する。 その前夜、李広利の縁戚であり宰相であった劉屈氂と、李広利の妹であり武帝の寵妃・李夫人の子、昌邑王・劉髆を皇太子に推してもらえるよう密談をしていた。 この密談が露呈する。 出陣した李広利将軍は勝ちに乗じて匈奴を追撃していたが、「巫蠱の獄」で家族に仕向けられた凶報を聞き、失意ののち匈奴に投降する。 李広利は匈奴の君主である狐鹿姑単于に重用されたが、同じく漢の降人であった衛律の上として扱われたため、衛律に妬まれ、のちに彼の讒言によって処刑されるのだが・・・・。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ