“光の庭”のうたた寝 =075=
❝ =第一章第5節_08= ; 陰山山脈の南域にて・・・・ ❞
燕雲十六州の中核・西京(大原)から真西に西に向かう道が鄂爾多斯中央部を横切っている。 山西の北部、代県の西北に雁門関がある。 雁門山(別名勾注山)中にあり、古来から、通貨が最も困難な関所の一つである。 この雁門関を南の燕雲十六州から北に抜けでた、長城沿いに西行すれば三関口長城に向かう。 北上すればフフホトに至る。 三関口長城はオルドス草原中央部で東西に設けられた二重、三重の長城を言うのだが、その最も北側の長城に沿って鄂爾多斯を横断すれば黄河流域右岸の沙谷津に至る。 沙谷津は鳥海と興慶(現在の銀川)のほぼ中間地点である。
燕雲十六州の中核・西京(大原)からほぼ真西に足を向けて、山西の丘陵地帯を抜け、鄂爾多斯中央部を横切る旅程は村落がなく困難な旅程ではあるが、金の帝都・燕京と西夏の帝都・興慶を結ぶ最短の行程である。 今、 この道程に従って来た宋江と耶律康阮の二人が沙谷津にて黄河を横切り、黄河に沿って南に遡上、興慶の城門を目指していた。 太陽が頭上高く、冬の寒気を温めている。昼餉の時間は過ぎてはいたが、宋江と康阮の騎馬二頭が西夏の都興慶の城門を潜った。 しかし、二人は城内の道筋は全く知らない。 宋江は二度目の訪問であるが、宰相宅に行くと言えばすべてが事足りたのである。 また、西夏の重鎮セデキ・ウルフ邸に滞在して城内を歩かなかったのである。
二人して、弟の耶律康這に教えられた何蕎の家を探さなければならなかった。 しかし、宋江は訛の強い南漢の呉語で道を聞き、康阮は初めての城下であり、遼の言葉が通じない。 彼が使う漢語も西夏の民には通じなかった。興慶の城内に滞在した事はあるが西夏の重鎮セデキ・ウルフ邸に滞在して城内を歩いた事がない。 二人は漢語で意中を伝え合うのだが、その漢語を解する人に出会えないでいた。 小男と巨体、一人は武人のようで小男は貧相な旅人の様子で馬を曳く二人が話しかけると子供などさえ逃げて仕舞うありさまであった。 思案顔で記憶するウルフ邸に足を向けるべく大きな辻を曲がろうとしたとき、小商人風袋の男が近づき、声を掛けてきた。
「耶律康阮さまですね、主人の何蕎はセデキさま宅に伺っておりますが、二三日前から客人が来る。 今 滞在中の耶律康這殿の兄上で、巨躯で見事な髭 友とお二人の旅姿であろうから、城門の守衛兵から来門の知らせが来るようにいたしておけと、命じられておりました。 先ほど その知らせが来て 探しに出向いたところです」と、流暢な 漢語である。
「それは、なにより。 して、弟の康這が居る場所に案内してもらえるのかな」
「もちろんのこと、主人の何宅にて耶律康這殿はここ二三日、無聊なご様子、何宅はこの先 すぐ近くです。 小半時も要しません。 案内の後に、私は主人に知らせに走ります。 セデキさま宅はここより半時の王宮ちかくですが・・・・」と、要件を簡単に話し終えた後に 男は誘うように向きを変え、手振りで従うようにと また 方向を示すように歩き始める。 三人は肩を並べて道の中央を進んで行く。
その日の夕刻、何蕎が小走りにセデキ・ウルフ邸から帰って来た。 やや 息が上がっている。 二人の随行者がいた。 その随行者の息使いは何らの変化もない。 一人はやや長身の美青年。 他の一人は巨体で顔の下半分を髭で覆われていた。 二人ともに、如何なる者かが計り知れない風体で何蕎に附いてきたのだ。 何蕎が帰宅した二時前、康阮と宋江を何蕎宅に案内した後に去った商人風の人物が折り返して帰ってきて 二人に遅い昼餉を出していた。 酒も添えられていることから、セデキ宅にて用務で遅くなると見越した何蕎が整えさせたのであろう。 そして今、暖炉が燃える気の利いた小部屋で宋江と康阮・康這兄弟が昼餉に出された酒を傾けながら談笑していた。