“光の庭”のうたた寝 =062=
❝ =第一章第4節_13= 可敦城 遊牧民との協調 ❞
畢厳劉と忠弁亮が120余頭のラクダと共に北の地に旅だった日から五日後、燕雲十六州を抜け、黄河を渡った石隻也は西夏の都・興慶(銀川市)に入っていた。 彼は黄河の鳥加河にて兵糧の手配と集積任務を終え、可敦城への運搬と搬入の任務を担う耶律磨魯古に全て移管したのちに、大石の命で燕京に入っていた。 燕京は金軍が我がもの顔で闊歩していた。 彼の旧主である安禄明へ耶律大石統師の委細報告を済ませた上で次なる伝令の途についていたのである。 チムギの父・石抹言のセデキ・ウルフへの親書と安禄明の父・安禄衝の文を油紙に慎重に包み、衣服の襟に縫込み込んだ服の上に 狼の毛皮の半衣着込む旅姿で 太行山脈を越えて来たのである。
同じころ、眼を万里の長城南方 燕雲十六州の動向を探る耶律時が率いる45名の若き精鋭である騎馬武者達は、包頭・呼和浩特(フフホト市)方面で縦横に騎馬を駆けさせていた。 大石の指示を受けた耶律遥が兄の時に合流したのは蟠龍山長城と呼ばれる燕京北西にある万里の長城近くの村落であった。 この付近の長城は崩落箇所が多く、崩れかかった長城の上の歩哨歩道を管理する余裕は金軍になかった。 この蟠龍山から北にゴビ砂漠を四半日突き切れば陰山山麓に至りて、西に走れば“緑の杜の街”と蒙古族が呼ぶ呼和浩特である。 呼和浩特(帰綏)まだも四半日の旅程。 東行すれば、太祖・耶律阿保機が遼帝国を建国を宣言したウランハダ(赤峰市)へも四半日の旅程である。 金軍の動向や情報がつぶさに把握出来うる場所である。 遥の合流で時の活動範囲は拡大し、陰山山麓の先遣隊支援基地との連携は密に成っていた。
1125年1月末、石隻也は石抹言の説明で違えることなく興慶の街でウルフ・セデキ宅を見いだし、大門脇にて問われるままに石抹言の名を告げて邸内に入った。 西夏国重鎮のウルフ・セデキの邸宅は壮大であったが、通された書院に接する中庭は江南を思わせる南宋風であった。 さほど待たぬ内に、急ぎ足の音と共に何蕎が現れた。
「燕京は如何でしたかな、長旅 ご苦労さん、北に向かわれ大石様一行は予定どうりに事を進めておられます。 さて、今宵は我家にてゆっくりと休めばいい」
「ありがとうございます。 しかし、燕京よりウルフ・セデキさまにと託された文が御座います」
「文は私が、直ちに手渡しましょう。 今、宮中に登上しておられます。 二三時は掛かるでしょうから、とりあえず拙宅へ・・・・・欽宇阮達は、しばらく当屋敷に滞在の後 今 旅にでていりますが、明日にでもウルフさまのお時間を頂きます故 燕京のようすなど視て来たままをお話しなさい」
翌日の午後、暖かい茶が供された昨日の書院に石隻也は居た。 何蕎も同席である。 セデキはこの若者に話す内容が直ちに耶律大石に伝わるものを思っている。 体を強張らせているように見えるが、彼の眼はものには動じない強さが備わった者が持つ力強さがあると感じている。 セデキは話す内容が、その旨が耶律大石に伝わることを確信して石隻也に話し始めた。 石隻也は他国の重鎮に対座する卑屈さに身を固くし、傍にいる何蕎を横目で見ることすら礼を失するであろうと緊張してセデキ・ウルフの顔から眼を離さない。 口元に視線を固定しているのだが、時折 目元にも視線をむけていた。 ウルフ・セデキは長身の体躯を小さく見せるようなしぐさを続けて、一言一言 明晰な声で断言して行った。
「天祚帝の南宋亡命は 余賭殿の黄河南部の攻略が災いして挫折するだろう。 この西夏は絶対に天祚帝を受け入れない。 今 天祚皇帝を孤立させている状況は、金の阿骨打が作り上げたか、燕京を牛耳っている阿骨打の同母弟の呉乞買の策であろう。 注意すべきは、呉乞買は些細なことでも激怒する人物と聞く。 更に、彼への風説では、女色が激しいと言う。 遼の公女や女官達の捕虜女性や町屋の娘達を拉致して弄んでいると聞く。 根が陰湿で阿骨打が亡くなった後の後継者が彼に決まれば、この西夏とて腹を決めて対処しなくてはならなくなる。」 と、話し 年の離れた弟に向けるような眼を石隻也に向けて話を続ける。