“光の庭”のうたた寝 =049=
❝ =第一章第3節_18= 五原脱出 ❞
昨夜遅く、何蕎の案内で西夏の都・興慶に若い兵士と共に来た欽宇阮は西夏の宰相セデキ・ウルフの屋敷を訪れていた。 セデキはウイグル族の要人であり、チムギの姉であるパチグルを夫人に迎えている。 姉妹の父親は南京(燕京)の石抹言、契丹貴族蕭氏との婚姻関係を結ぶ遼王朝の貴族であり、蒙古高原に覇を打ち立てた回鶻帝国の末裔である。 彼の家系は唐王朝の政治的な参与官であった。 唐帝国の末期、蒙古高原では異常気象が相次ぎ家畜が死に絶え、疫病と大寒波で蒙古高原一帯が崩落した。
同時に回鶻可汗帝国内で権力抗争が起こり、一派が北方の黠戛斯族の兵10万騎を招き寄せて回鶻城=オルド・パリク=を制圧した。 しかし、招き寄せた黠戛斯族に母屋を乗っ取られ、回鶻可汗帝国は崩壊した。 紀元850年前後の事であり、石抹言の六代前の話である。 回鶻の民は各々の集落部長に率いられて四散した。 西は天山山脈地方へ、南はタングート族が支配する西夏王朝の領地に移り住んだ。 東方へ移動したのが石抹言の遠祖である。 彼らは旧来からの領民である突厥を鼓舞して黠戛斯族の略奪を防ぎ、新興の契丹人の勢力と結びついた。
元々、回鶻可汗帝国は、シルクロードを東西の交易幹線路としてのシルクロードとして確立したソヅドの民と手を組んで発展してきた。 ソグダが経済を差配し、ウイグルが政治を指南して唐王朝を支えてきた。 ウイグルがユウラシア大陸中央部に帝国を築けたのはソグドが齎す財力と民族の知力でユーラシア北部の覇者・突厥の政権を打ち破ったからである。 回鶻可汗帝国が崩落した約100年前、唐王朝皇帝・玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、藩鎮をはじめとする北方の辺境三地域(現在の北京周辺)の節度使=地方軍と地方財政を統括する高級官吏=であった安禄山が“安史の乱”を起こしている。 彼は洛陽を陥落し、大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言、長安も占拠する。 しかし、唐・ウイグル連合軍によって長安を追われ、洛陽も奪回され、息子・安慶緒の命令で暗殺される。 因みに、耶律大石の親友・安禄明はこの一族の末裔であり、安禄山はソヅドと突厥の混血。
西夏の宰相セデキ・ウルフの飾らぬ対応と、耶律大石統帥への信愛を言葉の端端に伺わせる話しぶりに誠意を感じる宇阮は、「更に 甘えた御援助を 賜りたくぞんじます 」と心の準備をしていた。
「聞けば、何蕎も耶律大石殿に魅せられたもよう、何蕎とそなたは 今や 義兄弟の契りを結んでいるそうではないか 遠慮は無用にいたそう」
「ありがたき お言葉。 では、申し上げます。 耶律大石の命により、我らが手の者六十名が南宋の動きを探り、オルドスを南下した四十名と長城西部にて落合う予定です。 集結する百名の若者。 彼らは、完全武装した騎馬武者、控えの馬も牽いております。 彼らが、近々 この地に参ります。 いま 大石総統は五原を離れ、北の北庭都護府 酷寒の可敦城跡に向かわれていると思われます。 北に向かった大石統師の考えは その文にございましょう・・・・・・。 大石統師は、厳冬の草原の 今は使われなくなってはや十数年の可敦城に二百有余の将兵が集結する困難を憂いられ、春までこの地に潜伏する旨を引率している康阮と康這兄弟に申して旅立たせました」
「流石に一国の将、己より従う部下を思う・・・・・・。 彼らの処遇の事だな、大石殿の悩みは居城を持たぬ将が部下を如何に安心させるかの苦悩、我には大石殿のように軍兵と共に彷徨った覚えはないが、よく解る。 大石殿の意向は この文を拝見いたさば、解ることであろう。 いや、文を読まずとも 欽宇阮どの そなたの言葉に大石殿の意中はよくわかった。 時間もある事じゃー、大石殿のお考えに沿った良策を考えておこう。 何蕎、汝も知恵を出せ」
北庭都護府・可敦城を目指して陰山山脈西端域の谷筋を遡行する隊商交易路を蒙古高原へと北上する一行。 後方を 耶律楚詞、石ツムギを右脇にして耶律大石が ゆっくりと 白馬を歩ませている。 白馬の名は“華麟”、駿馬である。 緩やかな坂道続いていた。 昨日は そそり立つ岩壁が両岸から迫りくる廊下状の谷底の坂道を終日登りつめた。 日が差し込まない陰湿な谷底だった。 昨日の午後、人の笑い声を確かめに行った曹舜と畢厳劉が耶律磨魯古を伴って乱舞する雪の白き幕を突いて 駆け降って来て話すに、小一時間ほど登り行けば 谷は狭まり両岸は岩壁が迫る場所に至るとのこと。 その場にて、三十騎の将兵と60頭の馬の運送隊はその岩の廊下が始まる地点を野営地とすべく、整地しているとの事であった。
大石一行がその場所に合流した折には、適当な岩穴をもつ広場に燃える“黒き岩”を砕いて、燃やす炉が小さな炎を上げていた。 流木などは一切見当たらず、石隻也が手配した“黒き岩”が無ければ大石一行はともかくとしても 耶律磨魯古が率いる一隊は凍えてしまったであろう。 向うべき前方を覗えば、小雪が舞う谷、その谷底に足を踏み入れるには 日中とて勇気がいるようであった。 ここの野営地は、鳥加河にて遊牧民が教えてくれていたという。 この先の陰湿なゴルジュ帯(両岸の岸壁が迫る狭い谷筋)を抜けるには半日を要するとの事である。 その夜、ゴルジュに踏み込む岩穴を持つ広場にて、一行は野営したのであった。
翌 早朝早く、大石一行が先行して陰湿なゴルジュ帯を登行していた。 先頭を曹舜と厳劉兄弟、耶律遥が進む。 耶律大石、耶律楚詞、石チムギと続き 何亨理と耶律磨魯古が一隊を率いて後続して、登行している。 両岸 そそり立つ岩壁が迫る。 一頭ずつ足元を確認しつつ、薄氷が張り詰めた岩肌を踏んでの登行を強いられる箇所が髄所にあった。 大石と楚詞がチムギの馬を挟み込むように登って行く。
その夜も鳥加河にて聞き込んだ岩の廊下の上部出口近くの野営地で横に成り、暖をとった。 燃える黒い石が無ければ、この酷寒の時期に陰山山脈を越えるなどできるものではない。 大石は五原東方の包頭村落の近隣の原野にこの燃える黒い石が産出する事を聞き知っており、石隻也に調べさせ、調達させていたのだ。