“光の庭”のうたた寝 =004=
❝ =第一章第1節_04= 遼王朝崩落 ❞
大石が目指す陰山・五原には帝都を放り出した天祚帝が金との一戦に敗れ、燕京に帰還することなく逃散するようなさまで逃避していた。 五原は大黄河が漢中を流れる前に大きく北上して逆U字状に屈曲する、しおの北端曲部の北岸に広がる葦原の湿原地帯である。 ゴビ砂漠の西橋に位置すると言ってもよい。 大石一行はこの地を目指しているのである。 天祚帝が西夏の支援で仮寓を設けているのである。 大石が先導する騎馬軍団はゴビ砂漠の南縁、万里の長城北側の荒れ地を進んでいた。 三十数名の騎馬武者、先頭を進む耶律大石の顔には疲労の影が浮かんでいた。 騎馬武者は牛車を囲み、蕭徳妃皇后と秦王殿下が幌の中で身を竦めるように 無言である。
二年前の1122年秋、天祚帝が入來山で金の太祖・阿骨打(アゴツダ゛)よって大敗し、長春に逃れた後、五原に仮寓した。 そのため、留守を託された遼の皇族である大石は大臣李処温とともに、3月17日に天祚帝の従父・耶律淳を天錫帝として擁立して北遼を建国させたうえで、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げしていた。 北からの金の侵攻に、南からの北宋の侵略に対抗するための策であった。 しかし、昨年の6月24日、天錫帝が61歳で病死する。 天祚帝の太子で五男の秦王・耶律定が擁立された。 天錫帝の未亡人の蕭徳妃・蕭徳妃普賢女が摂政となり国政を見た。 だが、本年正月、燕京が金の攻撃を受けると、これを支えきれずに秦王と蕭徳妃は耶律大石らに支えられて、長春から西方の陰山・五原に移動した天祚帝のもとに身を寄せる事にしたのである。 北遼の2代皇帝である秦王・耶律定は幼過ぎた。 騎馬遊牧民の俗習なのだが、天錫帝と蕭徳妃の間に正嗣がなく、新興の北遼は遼帝国に流れる契丹の皇統を重んじたのである。
昨年、天錫帝の崩御による混乱に乗じて、宋が増強した新たな軍団20万で再び侵攻してきた。 宋は劉延慶将軍の指揮の下で燕京に奇襲をかけたのである。 国防の責を負う耶律大石統帥率いる北遼軍は燕京における市街戦にまで追い込まれたが、宋軍を再び撃破した。 耶律統帥の策術の前に、打つべき攻撃策が見当たらない宋の宰相・童貫は自力での北遼攻撃は困難であると判断し、金に燕京攻撃を依頼した。 金の阿骨打はこれを受理し、北方よりの三路から燕京を攻撃した。 迎撃すべく打って出た北遼の中央軍は、居庸関で阿骨打本体と遭遇し迎撃戦を試みたが失敗した。 混乱の中で、耶律大石統帥が金軍に捕らえられていた。
居庸関の金軍南制基地に囚われ身になった耶律大石統帥に対して、敵将の阿骨打は大石らを厚遇し、前例である金吾衛大将軍の耶律余睹=妻は天祚帝の側室の蕭文妃の妹=の例を引いて 投降する事を幾度となく誘った。 しかし、大石は部下の耶律時・遥兄弟の知略で脱出に成功していた。 そして、燕京の安禄明の助けを受けて、秦王、蕭德妃など奉じて保大3年(1123年)、天祚帝の元へとむかっていたのである。 蕭徳妃と秦王殿下を守る天徳軍はもはや頼るに足らずと判断し、金軍に追われるように燕京を離れ来たのである。
耶律時がその牛車に寄り添い、駒を進めている。 時は大石の右腕を自認し、弟の耶律遥と共に大石に心酔している。 今 弟の耶律遥はこの隊列には居ないが、遥は大石の親衛隊だと自認し 吹聴している。 押しかけ家臣である。 金の阿骨打に捉われの身となった耶律大石を兄弟の知略で居庸関から脱出させた戦略は時が立て、戦術は遥が実践した。 大石としては 彼らの作戦に乗っただけだったが、阿骨打の腹の内を確かめたい事情があったのだが・・・・・・・・それはともかくとして、 阿骨打が教えってくれた北遼宰相の李処温が宋と内通している事実を蕭徳妃に告げ、李処温度子に天誅を加えたのちの燕京脱出であった。
この兄弟の父は耶律良、契丹の政治家として名をなし 詩人でもあった。 字は習撚、小字は蘇。 耶律白とも落書した人物であった。 四半世紀前の事、耶律良は耶律重元(遼の皇子、第6代皇帝・聖宗の次男)が子の耶律涅魯古とともに反乱を計画していることを聞きつけると、重元が第8代皇帝・道宗の重元への親愛あついことをおもんばかって、あえて直接に奏上せず、ひそかに仁懿蕭皇后に(ジンイシュウ・コウゴウ)に報告した。 皇后は病にかこつけて道宗を呼び寄せ、反乱のことを告げた。
道宗は「おまえは我が骨肉の間を裂きたいのか」と言って信じなかったので、耶律良は「臣のいうことがもし妄言ならば、斧で腰斬されて伏すに甘んじましょう。 陛下が早く備えなければ、賊の計に落ちることを恐れます。 涅魯古を召して来るかいなかで、陰謀の有無をうらなうべきでしょう」と皇帝の怒りに臆することなく直言した。 皇帝の使者が涅魯古の門に到着すると、涅魯古は使者を殺害しようと拘束しが、使者は佩刀をふるって脱出し、行宮に駆け戻って実態を報告した。 道宗ははじめて反乱のことを信じ、良に追討軍を委ねた。
重元の400名前後の反乱軍は、行宮を襲撃した。 しかし涅魯古が騎馬で突出して、自滅のごとく射殺され、重元の仲間たちは次々と敗走していった。 重元は計画の失敗を知ると、北の砂漠に逃れて、「涅魯古がわたしをここに至らしめたのだ」と嘆いて自殺した。 耶律良は功績により漢人行宮都部署に転じ、遼西郡王に追封され、二十年前に他界している。 諡は忠成と言い、耶律時と尚の兄弟が幼児の折であったと言う。