“光の庭”のうたた寝 =042=
❝ =第一章第3節_11 五原脱出 ❞
1124年12月7日 早朝、霧のような微小の雪が舞う中、五原の湿原帯を駆け抜けた耶律康這たちは、黄河の堤を成す低木帯で一息入れている。 雪で覆われた黄河を見渡している。 王庭を出て三時間が過ぎていた。 左手遠方には朝日が雲を赤く染めている。 眼前の黄河対岸に広がるオルドスは広大な雪原であった。 この地が緑で覆われるなどとは帝都で育った若者には想像できない。 右手前方彼方、大雪原の地平に灰色の起伏が覗えた。 その起伏は、地平の彼方の水平線を覆う雲ようにも思われたが低い山並みであろう。 山並みの背後を黄河が北上して流れている。 西夏の都・興慶(銀川)はその山並みの南端後方に位置して、北上する黄河の左岸にある。
康這は「雪にて足元が見えぬ、凍てついた黄河と河原との境目の判別は困難だが、この時期の黄河は、その氷上で人馬が暴れ廻ろうとも割れぬと 亨理が教えてくれた。 しかし、渡行には気を付けろ。 渡り終えるまで馬を安心させながら牽いていく。 対岸で朝餉を取ろう。 これから、あの山並みの南に向かう」 と若い兵士に激を飛ばし、先陣を切って黄河を渡って行った。 完全武装の四十数騎の若き騎馬武者が彼に続いた。
耶律康這が五原の王庭を離れた二週間後の夜明け前、日が昇るには三時間はあろうか。 月無く、肌を差す寒風に抗するように 甲冑で身を固めた武者が 王庭の北側後方にある後宮から東方にやや離れた場所にある穢れ門を少し開き、狼の遠吠えを発した。 その遠吠えに答えるように耶律遥が素早く 暗闇に小石を投げ込んでいく。 小石の合図で城壁の窪みに潜み、散在していた騎馬武者が各々替え馬を曳き、穢れ門を出て行く。 北に歩き出した。 四名の騎馬武者が砦の外に出たのを確認した耶律遥は再び門を潜った。 その門を閉めたのは石隻也。 彼は素早く後宮方向に砦内庭を横切り、大石の草庵に向かっている。
王庭背面の鬼門に当たる穢れ門を離れた遥は、後宮の方向に進み、後宮からは死角にあたる暗闇の中に進み入った。そして、再び 狼の遠吠えを発している。 闇の奥から、十名の武者が馬を牽いて現れ、一人一人が穢れ門に至る道沿いの暗闇にて身を隠していった。 最後の一人が遥と共に暗闇の奥に進み入った。 その暗闇の中に四十名の騎馬武者と替え馬60頭が集まっていた。 その集団を率いているのが耶律化哥、彼は天祚帝の無能さに叛乱を起こそうと企てていたところ、耶律康阮に諌められて仲間を率いて北帰に参加していた。
狼の遠吠えを合図に、四十名の騎馬武者が替え馬60頭を曳き、闇を離れて穢れ門に移動して行く。 その途上の暗闇から、一人一人と この集団に合流して行く。 四半時の後、四十八騎と替え馬60頭は開かれている穢れ門を潜って柵壁の外に出た。 最後尾を歩いて来た遥は立ち止まっていると、その姿を確認した二名の武者が現れ、一礼の後に穢れ門を閉じ柵外の闇に消えた。 彼らは穢れ門の暗闇で内外を警護していたのである。 全てを確認した遥は、穢れ門を内側から閂で閉ざし、門近くの外柵を登り越えて彼等を追った。 寒風すさぶ静寂の中、先行した四名の騎馬武者達が確保している安全な場所に五十名の騎馬武者と60頭の替え馬が運ぶ兵糧が終結する。 その一隊に遥も身を置いていた。
砦の北方五里で葦原は途絶え、ゴビ砂漠の縁辺に達した。 この場所にて五十五名と60頭の替え馬が集結している。 この一団は北に歩んだ。 足元はいつしか小石を含む砂礫の原野と成り、小さな起伏が至る所にある場所に達していた。 風が強くなり、頬を砂粒が打つ。 小一時間は歩いたであろうか、苞力強が乗馬を命じた。 先月、帝都燕京より舞い戻った耶律遥は連絡要員として、苞力強が築く陰山南麓の陽動作戦基地の設営場所の確認と兄耶律時へ伝言を命じられていた。 時は張家口・長城大境門北側の基地にて25名の先遣隊を率い、金軍の動向、阿骨打皇帝の後を継いだ異母弟の呉乞買が動きを探っている。
未だ夜が明けきらぬ合い間も、北西に進軍する苞力強の騎馬隊。 風は増々強まり、砂嵐のように小石が地表を飛ぶ、眼を上げれば薄く広がる星空が覗えるのだが砂塵が視界を妨げている。 耶律遥は己をも励ましすように、騎馬に鞭を打った。 苞力強も鞭をあて 全員が疾走を続ける。 老将の耶律化哥も追随、二十歳前の耶律巖が最後尾で115頭の馬を追う。 人馬が一列に並び、砂嵐に向かって突き進んでいく。 115頭の4脚の蹄は砂礫を噛み、蹄鉄が小石に当たると火花を散らす。 疾走する115頭の蹄の音が風の音を圧し、砂塵の壁を切り裂くように突き進んでいった。
二時間は駆け抜けたであろうか、風が弱まり 星明りが広まり 陰山山脈の黒き襞が見えて出し手来た。 足元は砂が多くなり、苞力強は騎馬の速度を落とすように命じる。 苞力強が指揮する騎馬集団は、時折現れる流沙溜りを避け、時には大きく迂回しながら陰山目指して駒を走らせて行った。 日が昇り始めた。 ゴビ砂漠の西部を縦断する騎馬115頭は、長蛇の影が砂の上に落ち、その影が短くなってもその歩みを止めなかった。