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“光の庭”のうたた寝 =039=

❝ =第一章第3節_08 五原脱出 ❞

 耶律大石が燕京にいる友・安禄明へと興慶のセデキ・ウルフ宛に二つの文を認めたのは、1123年9月15日。 その翌日早朝には、畢厳劉と何蕎が西夏国の都・興慶に旅立っている。 興慶までは馬速の早駆けで一日半の道程。 駅舎馬を乗り継いでいけば、12時間で到達できる距離である。 二人は馬を乗りつぶさぬように替え馬を牽いて出立していった。 南京(燕京)の安禄明(アン・ロクミン)への文は、日が昇るとともに裏の鳩小屋で飼育する禄明の鳩に結わえ付けて放っていた。 耶律楚詞は耶律時の先遣隊との連絡確立のために、ウランチャブに出向く準備をしている。 僧衣を羽織る巡行僧のいで立ちで 朝餉を終えて草鞋を結ぶようである。 苞力強が昨夜にウランチャブに住まいする姉の話を楚詞にしていた。 耶律時が繋ぎの役目を義兄に依頼しているはずとの事である。 健脚の天狗・楚詞の足なら二日であろう。 


 畢厳劉が旅立った五日後の夕刻に五原の奥庭に帰着した。 彼は、思いがけないも西夏王国丞相セデキ・ウルフの文を携え、また 丞相夫人から託ったチムギ宛の荷物を抱えての帰着である。 大石が差し出した書簡の返書として綴られたウルフ氏の文面は、尊意に満ちたものであった。 今日の日まで互いに認識なきものの、大志を抱く勇者としての尊名は幾度も耳にしてきているがゆえに、百年旧知の同志と思っている。 窮地にいる同氏の要望は、今後とも 万難を排して協力を惜しまない。 また、金の阿骨打アコッダが西夏をも飲み込もうと策動している今日、天祚帝に望みを託して西夏の防衛策を練り上げるは愚の下策なり と明快な見解を述べた上で、 北方から燕雲十六州に散居する遼帝国の諸将に激を飛ばされる折には西夏の軍もその激に呼応する援軍を東に向かわせましょう と記してある。 書面に眼を透視ながら、大石は決意した北帰行への不安が安らぐのを覚えた。 無論、その詳細は漠としたものであったが、北の蒙古高原に腰を据えて金国を伺う戦略が確実に動き出せる安堵したのである。 小荷物はチムギの姉・パチグルがチムギに送った冬用の衣服であった。


  南京(燕京/北京)北方の居庸関キョヨウカン、万里の長城上に設けられた関所を兼ねる要塞である居庸関。 「天下第一雄関」とも呼ばれ、難攻不落の九塞に数えられている。  その南側に金軍が設けた居庸基地がある。 一昨年、耶律大石統帥が捕らわれの身とかって拘束された基地である。 その基地からやや離れた西側に邑郷があり、営北溝村と呼ばれている。 その邑郷を見守っているのが耶律喜孫、遼王朝の将官であった。 この地は彼の封領地があり移住していた。 先の皇帝に惜しまれながら退官し、悠々自適の生活を楽しんでいたが、天祚帝の悪政で邑郷は荒んだ。 彼の屋敷も手入れできぬままの状態の中で、金の勢力がこの地方を覆った。 村人たちは彼が遼の旧臣であることから、金の召集に応じて邑郷を守ってくれと嘆願した。 しかし、喜孫は応じず、名を捨て、あばら家と化した屋敷に老女と住んでいる。 そのあばら家に耶律時と遥の兄弟が密会していた。 


 無論、耶律大石の金軍からの脱出劇にこの三名が主役を演じたのであるが、久方の再会にも関わらず金軍内での噂として話し出した耶律喜孫がもたらす情報は重要であった。 逃亡した遼の天祚帝の追撃軍を親征軍として編成した阿骨打皇帝が会寧(上京会寧府) を出たのが一ヶ月ほど前のこと。 しかし、なぜかは部堵濼ウトゥル、現在の瀋陽付近で進軍を止め、留まっていると言う。 遥の帝都情報は時が予測していた内容とあまり変わらない。 秦王を警護しつつ、帝都に向かっている耶律阿思一行の足取りは遅く、帝都手前で足踏み状態あると言う。


 時の長所は行動の核心を射る行動を躊躇することなく決断する事である。 判断は早い、居庸関から部堵濼まで早駆で三日と判断した。 阿骨打の動静を確認することが先遣隊の第一義的任務である。 確認できないまでも金軍中枢の動向が判読できると行為であると判断して、明朝 単独で偵察に出ると決断した。 弟の遥には南京(燕京)に立ち戻り帝都の動きを探る事を命じ、異変があれば張家口・長城大境門北側に設けた基地に集結する事を命じ、部堵濼で探りえた情報を持って自分は大境門基地に戻ると伝え、深夜に居庸関の間道を抜けると行動を起こした。


 阿骨打の祖父は生女真・完顔部の族長烏古廼(ウコシャ=景祖=と言い、父は族長を継いだ劾里鉢ガリベチ=世祖=である。 劾里鉢は烏古廼の次男であり、阿骨打も次男であった。 生母は女真挐懶ダラン部の首長の娘である翼簡皇后であった。 阿骨打の祖父は族長として遼から節度使の称号を与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。 阿骨打は節度使を務めた父、叔父の盈歌エイカ/穆宗、兄の烏雅束ウガソク/康宗を補佐して完顔部の勢力拡大に努めつつ、生女真をほとんど統一して行った。 そして、1113年に兄が死ぬと阿骨打が完顔部を継ぎ、翌1114年、遼に対して挙兵し、遼の拠点寧江州(現在の吉林省)を攻撃し、これを占領した。 更に 猛安・謀克モウアン・ボウコクの制して女真人を軍事的に組織した。 阿骨打自身は雄々しい容貌を持ち、身の丈八尺の偉丈夫で、寛大で厳格かつ寡黙な男性であることから、女真族一同が求める理想的な君主として君臨したのである。


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