“光の庭”のうたた寝 =036=
❝ 参考資料;遼王朝・金王朝と耶律大石 ❞
10世紀に耶律阿保機が登場し、八部を纏め、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、契丹国皇帝となった。 契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。 二代目耶律徳光の頃、後唐では内紛が起こり、石敬瑭に正統なる者として晋皇帝の称号を与え、援助して燕雲十六州の割譲を成立させる。 こうして後唐は滅び後晋が建国となる。
その後、しばらくの間は中国文化を取り入れようとする派と契丹の独自風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が起き、南に介入する余裕が無くなった。 その間に南では北宋が成立する。 内部抗争は六代目聖宗期に一段落し、再び宋と抗争するようになった。 1004年、南下した遼と北宋は盟約【澶淵の盟】を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。 経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。
しかし宋からの財貨により働かなくても贅沢が出来るようになった遼の上層部は次第に堕落し、武力の低下を招いた。また内部抗争も激しさを増し、その間に東の満州で女真族が台頭し、1125年に宋の誘いを受けた女真族の金により遼は滅ぼされた。
因みに、耶律阿保機は契丹族・耶律氏の迭刺部出身で、耶律撒剌的と宣簡皇后蕭氏との間の長子として872年に生まれた。 耶律氏は発音によっては移刺とも呼ばれる。 また天皇帝、天皇王の称号も持っていた。 伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。
初めは遥輦氏の痕徳菫可汗に仕えていたが、906年に痕徳菫可汗が没すると、907年2月27日に可汗に即位(第1次即位)、室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。 北宰相の蕭轄剌、南宰相の耶律欧里思が群臣と共に天皇帝号を奉じて皇帝となる。 911年から諸弟の反乱が続発するが、剌葛、迭剌、寅底石、安端などを征伐してその与党を処刑した。
12世紀はじめに完顔部の阿骨打が出て女真の統一を進め、1115年に遼から自立して金を建国した。 金は、遼、北宋を滅ぼし中国の北半分を支配した。 やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられた際には、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真がモンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、中原から女真の集団は消滅した。 一方、故地に残って集団を保っていた女真は、モンゴル族の“元”に服属することになった。 元代の女真は満洲から朝鮮半島北部にかけて居住して元の支配を受けており、元の日本侵攻(元寇)にも女真兵が加わっている。
1125年に宋の誘いを受けた女真族の金により遼は滅ぼされた時、皇族の耶律大石は部族の一部を引き連れて、中央アジアに遠征し西ウイグル王国・カラ・ハン朝を征服、契丹語でグル・ハーン、中国語では天祐皇帝と称号を改め、西遼を建国した。 1126年、現在のキルギス共和国の首都付近にクズ・オルドという都を定める。 トルコ人にはカラ・キタイと呼ばれた。 これは黒い契丹の意味である。 耶律大石は更にセルジューク朝の軍を撃破して、中央アジアに基盤を固め、故地奪還を目指して東征の軍を送る。 しかし、 1143年、耶律大石は遼の故地の奪還を願って70,000の親征軍を金に対して出発させるが、行軍中に58歳で病死し、東征は中止された。